東北諸藩の政治的立場は明治元年七月になると明確に色分けされた。奥羽列藩同盟形成を強く主張していた仙台藩や米沢藩、朝敵とされた会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を開始し、弘前藩も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で庄内藩兵と衝突し、足軽頭成田求馬以下九人の戦死者を出し、緊張は一挙に高まった。一方、北奥羽では同盟側に立った盛岡藩が隣の秋田藩に猛烈な勢いで攻め込んでいた。ことにその戦場が大館(おおだて)近辺で展開されていただけに、藩首脳としては、盛岡藩の攻撃がやがて津軽領にも及ぶことに、多大な危惧の念を抱かざるをえなかった。
さらに、この時期の弘前藩にとって厄介(やっかい)だったのは、盛岡藩が野辺地(のへじ)(現上北郡野辺地町)に約五〇〇人に及ぶ軍勢を結集させ始めたことである。夏泊半島を隔てて西側には青森があり、弘前は南北より挟撃(きょうげき)される恐れが出てきた。これに対して弘前藩では、箱館異変の報に触れて渡海直前の大番頭木村繁四郎(杢之助(もくのすけ))の部隊を八月三日に小湊(こみなと)(現東津軽郡平内町)に派遣し、同五日には二等銃隊七小隊をさらに出動させている。以後、この方面では九月二十三日の野辺地戦争まで緊張した対峙(たいじ)が続いていくのである。
このような軍事情勢の下で第2期の二等銃隊の組織化が進行していく。そしてその課題はいかにして弘前の本城を守るかが第一義とされ、二等銃隊の補充とともに、新たな軍制が展開されたのである。
新たな軍制とは、八月七日に二等銃隊から中小姓・徒士(かち)組の者が全員引き揚げ命令を受けたことに始まる。いうまでもなくこれは弘前の守りを固める目的からである。さらに、同十一日にはこれまで二等銃隊に入っていた長男の中で、御手廻・御馬廻組に入るべき者は、以後これを除外し、新たに第一等予備銃隊に組織するとの目付触(めつけふれ)が出された(同前明治元年八月十一日条)。つまりこれは、本城と藩主の守衛をする御手廻・御馬廻組の人員に不足が生じないようにするためである。また、八月三十日には御手廻を御書院番(ごしょいんばん)銃隊、御馬廻組を表御書院番(おもてごしょいんばん)銃隊と改称し、これまでの二等銃隊はそれらに続く下部戦力として、九月七日に三等銃隊と改称された。
このように軍制は弘前守備を専一とする御書院番銃隊(一等銃隊)・表御書院番銃隊(二等銃隊)・第一等予備銃隊・中小姓組・徒士組と、前線に出動する三等銃隊・足軽銃隊・足軽大砲隊・小荷駄方などに、明確な役割分担が生じたのである。実際、八月五日から九月七日までの藩兵の出動状況をみると、動員された部隊は四一小隊で、うち三五小隊は三等銃隊であり、そのすべてが激しい戦闘が行われていた秋田領か、一触即発(いっしょくそくはつ)の状態であった青森方面に投入されている。また、九月中旬には前線部隊の小銃が不足しているため、一等銃隊員は早急に武具蔵まで小銃を上納するようにとの惣触が出されており(同前明治元年九月十二日条)、両書院番銃隊のほとんどは弘前城下で待機していた。
それでは図55から第2期(明治元年八月六日~十月十八日)の三等銃隊の補充にはどのような特色がみられるのだろうか。まず、第一は長男、次、三男層の大幅な払底(ふってい)である。三等銃隊の中核であるこの部分からは合計でも一四三人の兵員しか組み込まれておらず、第1期の長男、次、三男層の合計が六〇三人だったのと比較すれば雲泥(うんでい)の差である。かわりに大きく伸びたのが当主の一六九人であるが、ここでも兵員補充に関しては相当の困難がみられる。たとえば、番方当主はわずかに一人であり、小普請・足軽層が一二四人とこれをカバーしてはいるものの、彼らの多くは厳寒期に向かうと次々に病気になり、各地での越冬に耐えかねて弘前に帰還している。元々年齢の高い当主を兵員素材とすることは軍隊にとって望ましいことではなかったが、目前の軍事的危機に対して藩は老齢の者でも動員せざるをえなかったのである。また、せっかく訓練の完了した小隊に、このような高年齢の新兵が混入することは、現場指揮官にとっても頭痛の種であった。指揮官らは藩に対して、老若・強弱・熟不熟の者が入り交じっては軍制改革の意味もなくなるから、老年多病の下等の者には当番や臨時の諸用事を申し付けてほしいと具申している(前掲「御軍政御用留」明治元年八月六日条)。時局はやがて野辺地戦争を経て、会津・盛岡藩も降伏し、十月十八日に鎮撫総督府から東北平定の宣言が出されるが、この多難な局面を弘前藩は実に困難な兵員補充でしのいでいったのである。