本項の冒頭でも述べたように、神仏分離といった場合、多分にそれは神道の隆盛の対極に仏教の衰退が思い起こされる場合がある。いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。では弘前藩では廃仏毀釈運動があったのだろうか。また、明治初期の仏教界はどのような様相を示していたのだろうか。
明治三年(一八七〇)六月に弘前藩は藩内騒擾(そうじょう)を契機として、白石(しろいし)にあった新政府の出先機関である三陸両羽按察使府権判官菱田重禧(さんりくりょううあんさつしふごんはんかんひしだしげよし)の訪問を受け、強力な藩政改革を迫られた(この時の藩政改革については本章第三節参照)。菱田はさまざまな提言をしたが、中でも強く主張したのが藩士の家禄(かろく)削減であった。大幅な家禄削減の結果、藩士たちの大多数は非常に苦しい生計を余儀なくされたが、禄の削減は聖域を設けず寺社禄にまで及んだ。藩は同三年閏十月四日に寺社禄につき九ヵ条からなる布達を発した。その内容は、以後、寺社禄は地方知行(じかたちぎょう)(知行地からの年貢徴収をその領主に任せる方式)から蔵米支給に切り替えること、五〇石以上の寺禄を半減し、七俵以下はそのままとすること、寺禄五〇俵以上はその五分の一を修復費に当てること、神職は少禄なので石高をそのまま俵換算すること(弘前藩の禄制は基本的に四ツ成(なり)であり、高一〇〇石の者が実際に受け取る禄は四〇石=一〇〇俵〈一俵は四斗入=〇・四石〉であるが、この場合は四ツ成にせず一〇〇石を二五〇俵とするという意味)、岩木山神社は特別な鎮守なので神主に特段の寄付を行うこと、寺社門前の人別を町方支配に変えること、等々である。つまり、寺社領の自立性を弱めて藩の統制下におく政策が断行されたのである。この際、神社の減禄がことさら強調されていないのは、寺社禄合計二七五九石余(明治二年当時)中、社禄は四五四石余と少なく、地方(じかた)知行から蔵米支給になることで実質的な打撃を受けると判断されたからである。
この寺社禄の削減は、別当寺院廃止も手伝って寺院の存続を根底から揺るがした。諸寺院はやがて経済的に立ち行かなくなり、藩では明治四年正月に新政府に対して、領内の寺院の中には住居修理もままならない寺院が多く、廃寺にもなりかねないとして、寺院合併の許可を願い出ている。この時期、新政府は地方官による廃仏強制に目を光らせており、寺院合併についても、よく檀家と住職が熟慮して決定すべきと指示している。
こうした寺院の没落に対して、藩は決して傍観していたわけではない。藩の祈祷システムは近世期と同様に機能しており、藩からは困窮した寺院に救い米が貸し出され、やがてその返済も免除されるなど、手厚い優遇措置を寺院は受けていた。しかし、困窮の基本原因である寺社禄の削減を旧に戻すことは、藩政改革の基幹方針に抵触するため不可能な話であった。
やがて諸寺院は荒廃し、無住の寺院があちこちに出現した。このため神仏分離の過程で寺院の移転が広く行われた。蔵館(くらだて)村(現南津軽郡大鰐(おおわに)町蔵館)の高伯寺(こうはくじ)が無住となり、その跡地に大円寺が移転し、大円寺跡に最勝院が入ったのはよく知られた事例である。
その他、最勝院のような大寺院ではなく、各村には小さな庵や堂社が多数あった。そして幕末期からこのような小庵・小堂の管理を藩が行えなくなっていたことは前にも触れた。往々にして小庵には妻子連れの正体不明な旅僧が住み込み、怪しげな商売を行い、悪人を泊めたり、賭博をしたり、村人が眉をひそめるような状況がみられた。明治四年九月に租税署はかかる事態を憂慮(ゆうりょ)し、小庵の取り締まりを具申しているが、これは当然の寺院管理であり、廃仏毀釈とはまったく次元が違うといえよう。
つまり、弘前藩の神仏分離を廃仏毀釈の観点から見通せば、宗教政策の中で廃仏・廃寺はみえてこない。大寺院の廃寺は藩体制が崩壊するとともに、寺社領・寄付米などの保護がなくなることによる経済的な破綻によって引き起こされたのである。また、在村の小庵整理はいわば治安上から必要とされたものであり、寺院の本末制度から逸脱したものを再び統制下に入れようとしたに過ぎない。弘前藩では廃仏毀釈はなかったと考えられている。
従来、廃仏毀釈がゆるやかに行われた地域は、明治新政府の政策を穏便にそのまま実施したかのようにいわれてきた。しかし、弘前藩の神仏分離を考察すると、そこにはまず幕末期からの宗教統制に関する危機意識があり、新政府からの指令を受けて、藩のイデオロギーに沿った寺社再編が行われたことがわかる。そして廃藩置県後は村々の鎮守がそれぞれランクづけされ、最終的には皇祖神に連なる体系の中に組み込まれていったのである。神々にとっても明治維新は大きな転換期であった。