江戸勤番と生活

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江戸藩邸は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその家族が住む公邸、中屋敷隠居した藩主や嗣子などの住居であるとともに、上屋敷が罹災した場合の予備の邸宅、下屋敷はその立地条件から廻漕物資の荷揚地・蔵地の性格をもっていたのである。
 当初、上屋敷は神田小川町(かんだおがわちょう)(現東京都千代田区)にあったが、下野那須家烏山藩の御家騒動に連座して、貞享四年(一六八七)、四代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)が閉門を命じられた事件の影響で、翌元禄元年七月に本所(ほんじょ)二ツ目(現東京都墨田区)に移転させられた。六〇間に一一九間余(一〇八メートルに二一四メートル)の規模の屋敷であったが、湿地帯で環境が悪く、地固めに多額の費を必要とした。中屋敷は下谷柳原(したややなぎはら)(現東京都台東区)に、下屋敷は浅草(あさくさ)(現東京都台東区)に置かれたが、時代が下るにつれて中・下両屋敷は江戸の各所に与えられ、必ずしも一ヵ所ではなかった(『記類』上)。

図112.正徳5年(1715)柳原中屋敷の図

 藩士江戸藩邸において勤務しながら、どのような生活をしていたのであろうか。「添田儀左衛門日記」(本節四(三)参照)によれば、儀左衛門が延宝九年(一六八一)五月以降、天和二年(一六八二)五月二日まで江戸藩邸に住んでいたことが判明する。ここでは、延宝九年九月の一ヵ月間の生活の大要を記すと左のようになる。
 九月一日、今朝晴れていたが昼ころより雨。藩主(四代津軽信政)が午前七時に江戸城へ参り、正午に帰る。
 二日、午前七時に上屋敷から宿へ帰る(一日は夜の当番と思われる)。まもなく小川貞右衛門が訪ねてきたので一緒に外出する。
 三日、出番であったが上屋敷は別条なし。午後五時に下屋敷小倉(作左衛門か)と一緒に帰る。昨日の夕方、唐牛甚右衛門・九戸十右衛門より手紙が来た。工藤玄味の事について今日も木村杢之介へ申し上げ、一日には間宮求馬へ申し上げた(内容不明)。俊達と作左衛門の事についても同様である。
 四日、午前九時前、兵書の講釈があるので上屋敷へ行き、午後一時前に帰宅。先年私たちが雇していた五郎介という中間(ちゅうげん)(下男・草履取・奴(やっこ)などと呼ばれた下級従者)を、このたびは津軽左衛門が召し抱えてお供に連れて歩いていると、小倉作左衛門へ話した。そこで彼が、その間の事情を溝口兵左衛門を通して津軽左衛門へ話すと、左衛門はまったく知らずに召し抱えたもので申し訳なく、早速解雇すると連絡してきた。そこで私たちは津軽左衛門へ、そのことに対するお礼に出かけた。
 五日、午前七時出番
 六日、昼ころ、林十内が訪ねてきた。夕飯(昼食のこと)すぎ、小倉作左衛門と一緒に天神(てんじん)(亀戸(かめいど)天神)へ遊びに行き、夕暮れに帰宅。
 七日、夜に出番(請取番)。藩主が今朝、老中廻りをなされ比較的早くお帰りになる。今日、神宮寺僧侶が津軽へ出発した。
 八日、将軍が上野へおいでになるので、その道筋の大名・小名が道筋のほか町屋まで清掃をする。
 九日、午前六時前に出番。午前七時藩主が登城、午後二時すぎに帰られる。午後四時に非番になり帰る。忠(門脇忠庵カ)が訪ねてきた。
 十日、今朝、組の足軽杉村新右衛門を大浦学へ使者に遣わしたところ、道を間違えた失礼につき(約束の時間に遅れたのであろうか)、罰として押込(おしこめ)にすることを上屋敷へ急ぎ参上した。
 十一日、午前七時出番
 十二日、今朝、佐藤新五左衛門が腹痛につき欠勤。代わりに今井杢右衛門が請取番に出る。午前七時すぎ上屋敷より帰る(欠勤者が出たので、添田は非番でも急いで上屋敷へ行ったのであろうか)。
 十三日、今朝より午後五時すぎまで勤務。大野持左衛門と一緒に帰宅。浪岡俊連が以前からの希望がかなえられ、今日初めて上屋敷へ参り、用人へ会うことができた。今後は裏口の玄関から入り、御台子ノ間(おんだいすのま)を通り、さらに中敷居を通るよう用人から申し渡された。家老にもそのうちにお会いできるとの事。
 十四日、今夜、門脇忠庵が来訪し、私の所へ泊まる。
 十五日、午前七時出番、午後十時ころ帰宅。
 十六日、上屋敷での兵書の講釈、正午に終わる。小倉作左衛門と一緒に帰る。
 十七日、午前七時出番、午後四時すぎ帰宅し、すぐ田村を訪ねる。
 十九日、午前七時前に出番、午後三時すぎ強い地震。この時、藩主は本荘(ママ)の屋敷へ出かけて不在。夜には間宮殿の所へ久保田を伴って行き、午後十時ころ御広間へ帰られる。
 二十日、(十九日のところに同日とあるが、二十日の誤りであろう)今朝出(ママ)番、御広間は別条なし。午前七時帰宅(十九日に地震があったので、上屋敷へ泊まったのであろうか)。
 二十一日、出番、午後四時帰宅。
 二十二日、木村杢之介・唐牛長右衛門久保田一郎左衛門とともに田村藤太夫を訪ねる。
 二十三日、上屋敷へ泊まり番。
 二十四日、今朝、松田氏が兵書を講釈、終わって正午すぎに下屋敷に帰る。
 二十五日、午前五時出番(請取番)、午後四時に帰宅。
 二十六日、今朝、作左衛門・忠(添田も一緒か)坊主湯へ入る。帰宅後に伊沢と小鹿三左衛門が訪ねてきた。また海吉が二十八日に甲斐国(かいのくに)(現山梨県)へ出発すると暇乞いにきた。
 二十七日、出番。午前七時、中院大納言(なかのいんだいなごん)・勧修寺(かじゅうじ)大納言へ使者として行くよう命じられた。中院へは蝋燭二〇〇挺と鴈(がん)二羽を差し上げ、勧修寺へは口上の挨拶ばかりであった。今日は泊まり番を勤める。
 二十八日、今朝、明番となったが、御隠居様が下屋敷へおいでになるので付き従うよう命じられ、午前八時出発する。
 二十九日、午前七時出番、泊まり番を勤める。
 以上のことから、次のことが知られよう。
(1)添田儀左衛門は下屋敷に住んでおり、出番の際には上屋敷まで出かけていた。

(2)夜の出番もあるが、原則として隔日の出番であった。ただし、勤務時間は一定していなかったようである。また非番であっても命令が出ると、仕事に従事した。

(3)非番の時は友人との交際があり、また亀戸天神へ出かけていることが知られるので、江戸の町々を見物していたことが推定される。

 このように「添田儀左衛門日記」から、藩士江戸勤番非番の時の生活が具体的に知られるのであるが、次に天明五年(一七八五)の「江戸御屋敷勤方御用留」の中にみえる「御上屋敷勤方覚」によって、上屋敷における勤番の主要な点をみておきたい(資料近世2No.二〇二)。
(1)不時番を命じられた時は、午前六時に屋敷の外側の周囲を見回り、別条がなかったら泊まり番・目付衆へ連絡し、当番の帳面に記入する。夜になれば提灯を持って屋敷内を見回り、火災発生に気を付け、特に長屋(上屋敷には外壁に沿って長屋が連続して配置されている――同前六〇七頁~六一六頁)へは注意を払うべきである。また長屋へは、昼に干し物などしていたならば取りはずさせ、干し物をしないよう申し付けること。
(2)買物役は、午前十時ころから勘定人が勤め、購入の際は町人から出された通帳を使し印鑑を押す。
(3)作事方(土木・建築担当)については、国元と同じように行うこと。
(4)古物(ふるもの)を入れておく蔵からの出し入れは、その度ごとに古物担当の役人が立ち会って封印する。
(5)御門の開門について不備があったならば、警固役や役人が出入りする際には下座すること。
(6)御前様(ごぜんさま)(藩主の妻)がおいでの際は、先導する同行の者はみだりに話をしないように。
(7)会所において申し渡しの御があったならば、繰り出し人一人が出席し、また徒(かち)目付も出席する。
(8)旅の御を申し付けられた場合は、年内は屋敷の登順の口から、年が明けたならば末口から出るように。
(9)国元への御を申し付けられた場合は、年内は屋敷の登順の跡筆(末口のことか)から、年が明けたならば登順の口より出ること。
(10)火災が発生し消火に出るときは、行列帳に記されているとおりにすべきである。

 右のことから、屋敷の門や出入口、火災については非常に注意が払われていたことが知られる。