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第一回訴願

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 西蝦夷地が直轄地となった翌年の文化五年(一八〇八)、上ツイシカリ惣乙名シレマウカは、ウライ没収に際してユウフツ詰の幕吏が言った言葉を頼りに、閏六月十一日付でイシカリ詰合に宛てて最初の願書を提出した(以下『由来記』による)。
 その内容は、①ムイザリに以前より所持していたウライ二カ所を、東蝦夷地が直轄になった時没収されてしまったこと、②このウライの所有は、かつて東蝦夷地からアイヌムイザリに攻めてきた時、ムイザリアイヌの依頼により上ツイシカリシレマウカの祖父が償いを出した返礼であることなどを主張したものであった。それと同時に、ウライ没収の影響を、次のように切々と訴えた。
ウラエ御引上ノ後は、無詮方外川々へ参り漁業仕候得共、家内相続も相成兼乍思、持合ノ宝ヲ以干魚買入、是迄家内相続仕候。最早宝もなく尚又先祖より持来ノ家督ヲ散し申訳無御座と存居候処、風と病気に取付、倅共も若年差当り難渋仕候。何卒御憐愍元成ニ被仰付被下置候ヘハ、先祖ノ手前家内も相続仕、難有仕合ニ奉存候。乍恐此段奉願上候。

 このごとく、シレマウカ一族の生活は逼迫していた。おまけにシレマウカは病気、子供はまだ幼いという状況で、やむにやまれず、祖先伝来の漁業権復活を求めたのであった。
 シレマウカ以外に漁業権を没収された、下ツイシカリレタリカウクも、同年閏六月二十三日付で下ツイシカリの通詞を通じて、また上ユウバリアンラマシテカシュウシの二人も、やはり同年六月付で上ユウバリ支配人を通じて、漁業権の返還を訴える願書をイシカリ詰役人に宛てて提出した。
 これらの訴願に対して、幕吏側も捨ててはおけないので早速取調べを開始した。その結果、ユウフツ場所惣乙名オツカシレイザリ乙名ヌカンランケムイザリ乙名コマワカほか乙名一同は、同年閏六月付で、支配人甚右衛門、通詞与四兵衛と連名で回答を出してきた。それには、シレマウカ等の一件については、「一統其儀は存不申候」とはねつけている。それに続けて、
尤古来より今ニ迄夷人振合として混雑ケ間敷儀は、隣付相互に介合少し宝ヲ以万端取鎮候儀は何れ仕来毎々御座候得共シレマウカ口書を以願出し候儀は私共一同先祖代々より及聞不仕候。(中略)兔角右様之姿ニてシレマウカヘウラエ被置候ては、ムイサリニ住居之者共一統難渋ニも相成候間、兔角是迄之姿ニ御差被置被下度奉願上候。尤シレマウカ家内難儀之趣願出候ハヽ飯魚のミ被仰付、ウラヰ幷産物ムイサリにて漁業致し候儀ニ御座候得は、以来ムイサリに入漁業仕候ては、畢竟違乱事ニ御座候

と、もしシレマウカにウライを許可したらムイザリアイヌの生活が困窮するので、このままにして置いて欲しい。シレマウカの家族が困窮のために願い出るようなことがあれば、飯料だけにして、ムイザリでの漁業は迷惑なことであると主張した。
 一方、下ツイシカリレタリカウクの訴願に対しても、ユウフツ場所惣乙名オツカシレはじめ「役土人」と支配人、通詞の連名で、入漁についてあくまで断る回答を出した。その理由として、①イザリ場所の小川を貸したことは確かではあるが、知行主である今井新右衛門に内緒にして貸したので、請負人より叱責されたこと、②近年ユウフツ、千歳川の漁場も不漁が続いて、ためにユウフツアイヌ一同が産物のみならず飯料さえ欠乏の始末であることなどを掲げている。残る上ユウバリアンラマシテ上ツイシカリカシュウシ等の訴願についても、同様な理由ではねつけている。
 このように、西蝦夷地直轄後のシレマウカらの最初の訴願は不成功に終わった。それは、ウライの所有権あるいは干鮭場への漁業権については、アイヌの慣習をこの際まったく無視した態度に出たことと、それといまひとつ近年の不漁続きが原因であった。しかし、これらの訴訟事件は表面上イシカリアイヌユウフツアイヌの対決のごとく記されているが、内実はユウフツ詰の幕吏であり、ユウフツ各場所の支配人・通詞たちの思惑が働いていたとみないわけにはいかない。もしイシカリ場所内のアイヌに、ユウフツ場所内に入漁を許可した場合、その産物をイシカリ場所に持ち去られるといった産物の量にかかわる問題でもあったからである。後述するようにかつて、シレマウカムイザリのウライからは、年によって異なるが干一四〇〇~一五〇〇束がイシカリの運上屋に収納されたこともあった。
表-4 イザリ・ムイザリ漁業権紛争顚末
年代イシカリ側ユウフツ側幕府
シレマウカの祖父の代上ツイシカリシレマウカの祖父、ムイザリアイヌの依頼により財宝を差し出す。
その返礼として、シレマウカの祖父、ムイザリアイヌ一同より、ムイザリのウライを「勝手次第」選ぶことを許される。
ムイザリアイヌ東蝦夷地より大勢攻め込まれた時、財宝を出したが足りず、上ツイシカリシレマウカの祖父に財宝差し出しを依頼。
シレマウカの代(寛政頃か)シレマウカイザリムイザリにウライを3ヵ所所有。
下ツイシカリ乙名レタリカウク、親の代よりイザリ干鮭場へ出漁(親戚関係)。
上ユウバリアンラマシテムイザリ干鮭場出稼(財宝を差し出した)。
上ユウバリカシュウシシレマウカムイザリ川のウライ1ヵ所譲られる(シレマウカの親戚)。
千歳アイヌ、春夏はイシカリ川へ引網を持って行き、鱒などを飯料としてとり、イシカリ川へ入る商船と鷲の足羽やかわうその皮をもって交易。
寛政11年(1799)東蝦夷地の仮直轄
寛政12年(1800)箱館奉行所ユウフツ詰合高橋次太夫河西祐助イザリムイザリ川入会漁業を禁止し、シレマウカムイザリのウライ1ヵ所を没収。その他の出漁も禁止した。
享和2(1802)東蝦夷地の永久直轄
文化3(1806)シレマウカ、残りのウライ、イザリブト1ヵ所となる。シコツ越え道整備のためイザリブト通行屋を建てることとし、通行屋番人のリキヤとカシュヒタの2人の千歳アイヌを配置することとし、その飯料としてシレマウカイザリブトのウライ2ヵ所のうち1ヵ所をもってあてる。
文化4(1807)西蝦夷地直轄。
文化5(1808)閏6.11 シレマウカイシカリ詰合に宛てて、家族の飯料に事欠く始末で、持合せの財宝も払底、ムイザリのウライ返還を嘆願。
閏6.23下ツイシカリレタリカウク、閏6.-上ユウバリアンラマシテカシュウシも出漁を嘆顧。
閏6.-ユウフツ場所惣乙名ホツカシレ以下、シレマウカにウライを許可したら、ムイザリアイヌが困窮するので許可はできない。シレマウカの家族が困窮した場合は、飯料だけはいいだろうと回答。下ツイシカリレタリカウクの訴願に対しても、漁場の貸借が知行主に無許可であったこと、不漁であることを理由に入漁拒否の回答。上ユウバリアイヌについても同様。
文化10(1813)6.-シレマウカイシカリ詰合平島長左衛門に宛てて、場所役としての干を差し出しても構わないので、ウライ回復を嘆願。
11-上ツイシカリ通詞幸吉ウライ事件顚末について調査報告す(上ツイシカリの主要産物の干は、シレマウカのウライの産物であって、直轄によって没収された。上ツイシカリアイヌの住人は、ウライの没収と不漁で各所へ離散した)。
12-イシカリ13場所内米屋孫兵衛請負のトクヒラ以下5場所の通詞ら、イシカリ詰合平島長左衛門に宛てて、シレマウカのウライ返還の願書を提出。その条件として、米屋からユウフツ場所請負の阿部屋へ運上金の上納を提案。
12.23 イシカリ詰合平島長左衛門ユウフツ詰合にウライ返還につき掛合い。
解決にいたらず。東蝦夷地場所請負人復活。
文政2(1819)イシカリ詰合長川仲右衛門・上原熊次郎上ツイシカリ惣乙名シリコノエ(シレマウカはすでに死去)・小使サエラフニを連れてユウフツ場所へ行き、ムイザリのウライ返還を斡旋。ユウフツ側の提案を拒否(この時、ムイザリのウライ1ヵ所返還か、しかし、漁業はしなかった)。ユウフツ側、ムイザリの漁獲高を等分に分けることを提案。イシカリ詰合に長川仲右衛門上原熊次郎赴任。
文政4(1821)12.7松前藩復領の旨申渡さる。
文政5(1822)3.-シリコノエ・サエラフニ、松前藩イシカリ詰合に宛ててイザリムイザリウライ2カ所返還の願書提出(イシカリ場所請負人は阿部屋伝兵衛)。8.-ユウフツ場所惣乙名オリコシマ以下、イシカリ詰合に対し、イザリムイザリのウライ2ヵ所返還する条件として、イシカリ川にユウフツアイヌのウライ3ヵ所設置を提案(ユウフツ場所請負人は米屋孫兵衛)。
8.22上ツイシカリ惣乙名以下・ユウフツ惣乙名オリコシマイシカリ詰合吉田右十郎立会のもと熟談のうえ、覚書を取りかわす。ウライ返還は、あくまでシレマウカ妻子の飯料とりのためであり、余剰が生じた場合はイシカリと千歳の各運上屋に等分に差し出すこととす。
『土人由来記』(道文)より作成。