表-2 明治32年までの創立神社(民社) |
神社名 | 所在地 | 創建年月 | 公認年月 | 摘 要 |
発寒神社 | 発寒村 | 安政4 | 明治32. 5 | 創建時稲荷社 |
篠路神社 | 篠路村 | 安政7頃 | 明治34. 9 | 創建時八幡社 |
上手稲神社 | 上手稲村 | 明治5 | ||
白石神社 | 白石村 | 明治5 | 明治30. 9 | |
琴似神社 | 琴似村 | 明治8 | 明治30. 6 | |
三吉神社 | 札幌区 | 明治10 | 明治13 | |
中の島神社 | 平岸村 | 明治10頃 | ||
手稲神社 | 下手稲村 | 明治11 | 明治30. 9 | 創建時札幌神社遙拝所 |
諏訪神社 | 札幌村 | 明治15 | 明治31. 2 | |
花岡神社 | 平岸村 | 明治15. 9 | 大正4.3 | |
丘珠神社 | 丘珠村 | 明治15. 9 | 明治25.10 | |
星置神社 | 下手稲村 | 明治17 | ||
豊平神社 | 豊平村 | 明治17. 6 | 明治22. 2 | |
月寒神社 | 月寒村 | 明治17. 9 | 明治33. 9 | 公認時西山神社 |
水天宮 | 札幌区 | 明治18 | ||
石山神社 | 平岸村 | 明治18 | ||
厚別神社 | 月寒村 | 明治18 | 昭和5.5 | |
山口神社 | 山口村 | 明治18 | 明治35. 9 | |
伏見稲荷神社 | 山鼻村 | 明治19 | 明治31. 3 | |
新琴似神社 | 琴似村 | 明治20. 5 | 大正6.3 | |
上野幌神社 | 白石村 | 明治22 | ||
一心神社 | 琴似村 | 明治23 | ||
三里塚神社 | 豊平村 | 明治23 | ||
西岡八幡宮 | 月寒村 | 明治23 | ||
上山鼻神社 | 山鼻村 | 明治24 | ||
下野津幌八幡神社 | 白石村 | 明治24頃 | ||
(相馬)妙見宮 | 札幌区 | 明治24. 6 | ||
江南神社 | 篠路村 | 明治24. 7 | 明治30.11 | |
すすきの金比羅社 | 札幌区 | 明治25.10 | ||
稲荷神社 | 札幌区 | 明治25. 3 | ||
烈々布神社 | 篠路村 | 明治26.11 | ||
雁来神社 | 雁来村 | 明治27. 9 | ||
中の沢神社 | 山鼻村 | 明治28 | ||
平岸村遙拝所 | 平岸村 | 明治28.11 | ||
鴨川神社 | 札幌区 | 明治28. 8頃 | ||
苗穂神社 | 苗穂村 | 明治29. 8 | 明治30. 8 | |
藻岩神社 | 山鼻村 | 明治29. 9 | ||
大谷地神社 | 白石村 | 明治30. 9 | ||
信濃神社 | 白石村 | 明治29. 9 | 明治30.10 | |
南沢神社 | 山鼻村 | 明治30 | ||
新川神社 | 下手稲村 | 明治30頃 | ||
十軒神明宮 | 篠路村 | 明治31.10 | ||
西野神社 | 上手稲村 | 明治32. 1 | 三つの小祠を合併創建 | |
稲穂神社 | 下手稲村 | 明治31. 9 |
『神社明細帳』,札幌関係市町村史,集落史等より作成。 |
まず、村で神社設立の事情も若干知り得るものとして、平岸村の札幌神社遙拝所をあげたい。同村は明治四年の開村であるが、札幌県の時代までに産土神的な施設は持たなかったようである。十九年に至り当時の村総代であった中目文平の『日記』に「宮ヲ建ルノ事ヲ申合ス」、さらに十三日付に「村宮ノ儀ハ、ヒトマヅ見合セ可致ト申合候事」とあって、村社創建の事が議せられたが、必ずしも順調にはいかなかったことを示している。二十一年九月になると、改めて村社の規模、経費調達手段について議せられているが、この時も立消えとなった。二十三年の暮になって、札幌神社の白野宮司らが、平岸村に村社創建についてうちあわせていることが伝聞として記されている。そして結局は二十七年に札幌神社遙拝所として設立されるに至る。無願の小祠を建てて祀ること自体は、開村十数年を経た同村にとって特に負担が過大であったとは思えない。おそらくそれ以外の、たとえば祭神等を巡っての意見の不一致などがあったのではないかと推定されるが、詳細は不明である。さらにこれは札幌神社が神社創出に関し、行政的に活動していたことをも推察させる。
これに対して、この時期の屯田兵村の場合は、移住後比較的早期に神祠の創立される場合が多い。二十二年篠路兵村に入地した屯田第一大隊第四中隊は、二年後の二十四年に中隊本部の北側に小祠を建て、開拓の守護神とした。祭神は天照大神、大国魂神、日本武尊の三神で、おそらく軍組織の下での国家神道のある程度の浸透をみることができるし、また出身地が多様であることから、その最大公約数的な判断も働いたのではないかと思われる。二十九年に社殿を新築、江南神社と称し、三十年に公認を得た。
またこの時期、三吉神社の分霊を受けたとされる小祠が二つ建立された。一つは札幌村の烈々布神社で、二十六年に住民の横山久太郎が発起し、札幌区守護神三吉神社の御分霊、大己貴神、少名毘古名神、崇徳天皇、菅原道真、藤原三吉命を鎮祭して烈々布神社と称した(札幌村史)。もう一つは南沢神社で、三十年に分霊を受けて八垂別に奉斎した。分霊を受けたのは麻田小与門という説が強いとされているが、麻田は石川県の出身であり、また藤原三吉命は本来秋田県内で尊崇されているものであるが、同集落の秋田県出身者はごく少数でしかない(さっぽろ藻岩郷土史 八垂別)。三吉神社が札幌区唯一の公認神社として、少しずつ区の産土神的傾向をもちはじめたということであろうか。
以上前編と併せていわゆる無願の神祠を中心に若干の考察を加えたが、本格的な研究はむしろこれからであろう。