小諸大変次第書 小諸城主が牧野内膳正様の時代のことです。越後国与板藩主であった大殿様(祖父)の牧野周防守様が、元禄十六年九月に小諸藩主となってから四十二年目の寛保二年(藩主は内膳正様)に大災害があったので、書き記しておきます。
寛保二年七月(小の月)二十九日の夜九ツ時(午前〇時頃)より雨が降り出しました。雨は止むことなく降り続き、翌八月一日朝五ツ時(午前八時頃)、浅間山のほうから夥しい音が聞こえました。すると与良町大橋へ泥流が押し寄せたと、茶屋からしらせてきました。早速出かけて見ると、もはや橋が押し流され、小諸城下町への入り口の門内まで泥流が入り込んでいました。泥流の高さは三丈余り(約九メートル余)で、向こう岸の石垣の際より門の内まで泥流が押し上がり、柵の木を押し流し、兵助の屋敷まで水が押し上がりました。流される前の橋の高さは、二丈八尺でした。今、川の深さは四丈八尺(約十四・四メートル)、川幅は四十五間(約八十一メートル)余りになっています。しかし、当町(与良町)では、民家は無事で、人馬にも怪我はありませんでした。田畑はおびただしく流されました。
同日同刻に本町を挟むように流れる東沢川(松井川)と中沢川で同時に泥流が発生し、本町・六供(ろっく)・成就寺本堂・客殿・庫裏・表門・長屋(八、九軒)・脇寺六カ寺が流され、山陰にあった観音堂だけが残りました。堂内へ土砂が五尺(約一・五メートル)余り入りました。同所で町同心の家が十二軒、下目付の家が一軒、合わせて十三軒流されました。六供・田町においては、宅応寺・尊立寺は一宇も残さず流され、実大寺は本堂だけが残りました。裏町通りの民家は一つも残さず流されました。
東沢川の泥流は、新町(現在は荒町と表記。以下同じ)の江戸屋屋敷(矢ケ崎伊兵衛持ちだが、伊兵衛が文右衛門と田地の境をめぐる争いに負け、家族と江戸へ行き、家屋敷は伊兵衛の従兄杢右衛門に預けてあった)を押し抜け、三郎兵衛・兵助の屋敷を押し抜けました。この三軒は新町です。
その後、袋町の武家屋敷北側中ほどより家々を押し流し、男女ともに流されました。筒の池(筒井池カ)を押し埋め、一筋の泥流は馬場町へ押し出し、代官山本次右衛門様の家半分と長屋を押し流しました。
本町は、中沢川から泥流が押し寄せ、町を押し流しました。本町問屋平右衛門、本陣清兵衛の家は破風のついた高い家ですが、泥流はその棟を越えました。泥流は、平右衛門家・清兵衛家の人々を一人も残さず流しました。平右衛門妻も流されましたが、命は助かりました。
本町では、南側の上の七軒、北側の藤七家半潰れ、大手脇三軒が残りました。喜右衛門屋敷・玄碩屋敷と北側の権兵衛屋敷、惣五郎・庄右衛門・忠兵衛の家が半分あるいは三分の一ほどずつ残りました。
本町では家数二百三十六軒が流され、男女三百九十七人が流死し、馬十四頭が流されました。このほか往来旅宿の者がどれほど流されたかはわかりません。
新町では、二十九人の男女が流死しました。八月一日は、殿様の御部屋様が死去して七日が過ぎていなかったことから、八朔のお祝いが中止になったので、小諸三町ではほかに怪我人はありませんでした。
一、本町の泥流は、本町裏の馬場へ押し出し、押兼五郎左衛門様屋敷へ押し上がり、居宅・表門を流し、座敷・長屋だけ残りました。泥流は馬屋の前を押し通り、長屋を押し流し、馬屋だけ残りました。さらに泥流は花見櫓へ押しかけ、櫓の壁へ泥流が一尺余り上がりました。
大手口の泥流は、瓦門へ押し入り、足柄門を押し流し、三之門を櫓とともに押し流し、水櫓へ押しかけ、前の柱を折って、半潰れにしました。三之門の内へ本町から流された人馬がおびただしく流れ込みました。八月二日からその掘り出しを行いました。町や村の人々が多数参加して死人を掘り出しました。本町庄屋五右衛門父子、問屋平右衛門父子・娘(妻は流されましたが、助かりました)、清右衛門と妻・母(娘は助かりました)、清左衛門夫婦(三歳の子は助かりました)、木屋弥三郎家内、兵右衛門と娘・孫(妻は助かりました)が流死しました。
この時、佐久郡の千曲川上流から人馬や諸道具がおびただしく流されてきてあわれでした。上田城主松平伊賀守様は、千曲川近くの村々へ命じて流死者を収容させ、秋和村の正福寺に無縁塚を建てさせ、法事をしてくださった由、ありがたいことです。当所でも、十一月一日に川原で法事がありました。清水町塚には、死骸は一つも入っていません。
幕府から千曲川通りをご見分においでの方々を記します。当所のご見分は、寛保二年十二月十五日に耳取村境塩川より始まり、市町にお泊まりになりました。代官大草太郎左衛門様手代関戸宗四郎様・酒入茂右衛門様・逸見政八様、御普請役では片桐半平様・林又七郎様・岡本養左衛門様がおいでになりました。
右の方々は、十二月十四日に塩名田宿へ宿泊されましたので、市町喜太郎・伊兵衛、本町久右衛門、与良町藤吉がご機嫌伺いに行きました。その時差し上げた絵図は、別紙として巻き入れておきました。
一、寛保三年にご見分においでの方々は、次の通りです。使番大沢式部様・家老中村庄兵衛様・用人馬渕六郎右衛門様、代官吉田久左衛門様・手代元締武伴右衛門様・平手代相沢斧右衛門様・同池田新兵衛様・同藤岡曽野右衛門様・同土橋武右衛門様・徒目付佐藤善太夫様、小人目付佐藤清九郎様・広瀬彦七郎様。
右の方々は、二月十七日に岩村田へ到着され、十八日に当所へ来られ、袋町口より城内へ入られました。
袋町の武家屋敷北側で六軒が泥流に流された、その跡よりご覧になり、馬場町鹿嶋裏ならびに本町南裏馬場馬屋前より足柄門・三之門をご覧になりました。二之門に入り、二之丸、本丸、城裏の天守台、荒神・天神・稲荷の宮、銭蔵、詰蔵、城裏馬場まで残すところなくご覧になりました。
それより瓦門へ行き、本町を押し流した跡をご覧になりました。本町清兵衛屋敷跡より、六供・祇園社までご覧になり、昼の弁当となりました。弁当は銘々持ちで、小諸藩よりのご馳走は受けませんでした。
吉田様は、祇園社の流れ残りの神殿で弁当を食べられました。大沢式部様・佐藤善太夫様は、実大寺の流れ残りの本堂で弁当を食べられました。小人目付・手代衆、そのほか侍分、中間・小者衆は川原で弁当を食べられました。
その節、三町役人は残らず出頭しました。城の内へは三町役人は一人も入りませんでした。昼休みが済んだ後、清水町橋をご覧になりました。それから岩村田へお帰りになりました。
翌十九日もおいでになり、本町を通り、東沢・六供・成就寺跡までご覧になり、岩村田へお帰りになりました。二十日もおいでになり、家中が流された前書の場所を逐一ご見分になり、城へ入り、測量も少ししました。二十日の晩から小諸へ泊まりました。大沢式部様の宿は新町藤右衛門、吉田久左衛門様の宿は新町岡右衛門、佐藤善太夫様の宿は新町茂右衛門、小人目付の宿は新町一右衛門が務めました。
二十一日には、小枡堰見分においでになり、当町庄屋・年寄、新町庄屋・年寄が出頭しました。小諸藩からは奉行の成瀬番左衛門様、代官の山本次右衛門様、下目付の黒沢権右衛門殿がおいでになりました。
二十二日には、与良大橋をご覧になり、塩野村から馬瀬口村までご覧になりました。二十三日には、平原村から始め、当町繰矢川通り甲州海道橋までご覧になり、昼休みに小諸へ帰られ、川原田堰二筋をご覧になりました。濁川の伝右衛門川原で川除けをお願いしたところ、手帳に書き載せてくださいました。それより城下へ下り、市町へおいでになり、大簗通りをご覧になり帰られました。
その時、吉田久左衛門様が藤吉を召し呼ばれ、こう言われました。このたび我々が信州へ来たのは、信州小諸が大変なので、見て来るようにと命じられたからである。見渡せば、普請などをしていない。早々普請を計画し、実施すべきである。考えのない者は、幕府が普請をしてくれるものと思い、普請をしない。そういうことでは藩主へも損をかけ、あなたがたも田畑を荒らしておいたのでは損だ。城下町の者が普請をすれば、領内の者も見まねて普請をするから、早々普請を始めるべきである。見分の衆が来て、手帳にも書き載せられたので、幕府の補助がある御普請所になるか、または幕府が普請を手伝ってくれる御手伝い普請になるだろうと、考えのない者は思うだろう。そのようなことは決まっていない。我々は、見分して来いと命じられただけで、今後御普請所になるか、御手伝い普請になるか、我々は知らない。命ある限りは精を出し、普請をするべきである。そのうえで幕府から金を下されたら、それはあなたがたの徳(得カ)というものである、と。
これに対して藤吉は、次のように申し上げた。去る九月から冬までの間、堰縁が欠けて直せないところは、新しく掘抜を掘りました。これは、近年百姓が困窮しているので、普請をする力がなく、領主へお願いし、人足の扶持米をいただき普請したものです。前々より領主は手当を下さっていますが、今回領内村々が大被害を受けたので、領主の補助が及ばないと思われます。恐れ多いことですが、ぜひ御普請をしていただければ、ありがたく存じます、と。
これに対し吉田久左衛門様は、領主からそのように補助があり、年貢も安くしてくれているのなら、あなた方が貯金を出して普請をするべきであると言われました。
二十三日、比羽か欠橋場で吉田久左衛門様が藤吉へ、その方の町の高は何程かと尋ねられました。藤吉が、千七百三十五石余と申し上げたところ、小枡よりここまではおびただしく広いと言われました。
二月二十四日に望月宿へ行き、二十七日まで千曲川の川西村々を見分し、二十八日の晩、吉田久左衛門様は桜井村へ宿泊され、大沢式部様・佐藤善太夫様は布下村へ宿泊されました。小諸より領内の絵図を差し上げました。三月四日か五日の一日、上田領の田中宿を一日見分されました。
三月二日に手代衆二人、小人目付二人が、またまた本町川原より与良大橋までの間数を調べられました。二月二十八日より三月九日まで両村におられ、九日に飯山へ行かれました。三月十七日に帰られ、廿三日まで当所に逗留され、二十三日の明け七ツ時(午前四時頃)に発足されました。
一、同年四月、片桐半平様手代の関戸惣(宗)四郎様が当所に一宿され、奥(奥信濃の意 カ)へ行かれました。三月二十三日、大草太郎左衛門様は千曲川川上の梓山村へおいでになり、千曲川通りに御普請を行うことを命じられ、三月二十九日には大田部村でお昼休みをされました。市町伊兵衛・本町久右衛門・与良町藤吉はご機嫌伺いに行きました。小諸では臼田村へ行くように言われましたが、すでに臼田村を出発された後だったので、大田部村でご機嫌伺いを申し上げ、帰ってきました。
四月二日、岩尾村より千曲川通りをご覧になり、落合村・塩名田宿・耳取村・山浦村を、右岸・左岸を行ったり来たりして対岸からご覧になりました。与良町分の腰巻からご覧になり、二日の晩は新町藤右衛門の所へ宿泊されました。普請方の岡本養左衛門様は、新町の与一右衛門の所へ宿泊されました。三町庄屋はまたまたご機嫌伺いに参上しました。与良町では兵七が参上しました。
本間善太夫様のお見舞いに小諸藩から臼田へ使者が派遣されました。また、諸事お伺いには代官の宮原新五右衛門様と下目付の黒沢権右衛門殿がおいでになりました。海野宿へは奉行の成瀬番左衛門様がおいでになりました。その時、普請願いの場所を記しました。腰巻で、長さ百五十間の石積、敷八間、高さ一丈二尺、馬踏四間。濁川押出しには、長さ七十間、敷二間、高さ六尺。大さ田瀧の川掘割は、長さ五十六間、幅三間、深さ六尺。同所で、長さ三十六間の石積、敷三間。同所本町分長さ三十四間、敷三間。本町と当町の二口合わせて七十間。七軒谷口長さ五十間、敷三間、高さ一丈二尺、掘割・石積ともに。すべて合わせて百七十六間。東沢落尻七軒、大さ田道より千曲川落合までの間数です。四月二日に大草様がご覧になりましたが、委細についてはおっしゃられず旅宿へ帰られました。
四月十一日、桜井文八郎様が当所の腰巻を見分されました。韮沢伊左衛門様と黒沢権右衛門殿が、右の百五十間のうち四十間を石積にしてほしいと申し上げました。しかし、十一日にはくわしい話は何もありませんでした。
十二日に西の桜井村へ移られる予定でしたが、江戸より村上茂左衛門様という御勘定方が、十一日の晩追分宿へ泊り、十二日に塩名田宿へ来られるというので、桜井文八郎様は十二日に市町の宿(やど)から塩名田宿へ帰られました。
四月十九日、見分においでになられた方は、御勘定方村上茂左衛門様用人松田藤太夫殿、御勘定方岡田甚九郎様用人県藤八郎殿で、桜井文八郎様と一緒に、当町分腰巻を見分されました。お二人のお考えは、山があるのでここに水除けを設ける必要はないのではないか、ということでした。これに対して藤吉は、去年はこちら岸へ水が押し寄せてきました。この川上の岩先より水が押し寄せてくるので、水除けをしないと、またここへ水が押し寄せてきます、と申し上げました。桜井文八郎様は、夕方相談してどうするか決めると言われました。すると御勘定方の二人も夕方相談したうえで決めようと言われました。
その後、市町大簗御普請所へ行き、大久保村で昼休みをし、布下村に宿泊されました。大久保村へ兵七がお礼に参上しました。
一、本町の家は押し流され、残ったのは北側で藤七家が半分残り、下で忠兵衛家が三分一残り、惣吉家は表通りが流され、半分残り、惣五郎家が三分の一残り、権兵衛家が三分の一残りました。大手脇の三軒は、大手門の際より三軒が残りました。本町南側では、喜右衛門家が残り、玄碩家が半分残り、神子の淡路家より上分は押し流されました。太田彦右衛門殿家を押し流し、安左衛門妻子四人流死、安左衛門妾二人、彦右衛門妾一人、都合七人、そのほか家来男女合わせて三十人余りが流死し、土蔵が一つ残りました。七郎右衛門家・五郎右衛門家・喜左衛門家・吉右衛門家は残りました。
一、右大変後、八月末より新町に旅籠屋が開かれています。本町の市も八月十九日より与良新町が開くようにと命じられました。すると新町が、新町市という札を、与良町佐平次脇へ立てたので、成瀬番左衛門様のところへ藤吉と兵七が伺候して、この件について次のようにお伺いしました。昨十七日に市町・与良町・新町を召し呼ばれ、本町市を与良新町へ命じると言われましたが、さきほど兵七を召し呼ばれ、市を新町へ開かせるのは、本町の者が新町に店借しているからだと、成瀬番左衛門様が兵七へ言われました。その帰り道に兵七が見ると、明十九日より新町で市を開くという札が立てられていました。藤吉は大橋の普請場にいたので、兵七は番左衛門様から言われたことと、札が立てられていることを藤吉へ報告しました。これを聞いて藤吉は、昨日は市を開くことを与良新町へ命じられたのに、今日は本町お救いのために新町へ市を開くことを命じたということでは、昨日と今日と言うことが違っていて、そのままにしておけないと、兵七を同道して成瀬番左衛門様へ伺候しました。そして番左衛門様へ、昨日は本町の市を開くことを与良新町へ命じられ、今日は本町の者お救いのために新町へ本町市を開くと命じられました。すると、新町では札を立てました、と申し上げました。
これに対して番左衛門様は、新町へ市を開くことは申しつけていない。本町の者が多く新町へ店借に出ているので、本町のお救いのため新町へ市を開くことを命じたと言われました。そこで藤吉は、それなら佐左衛門がわがままなことをしたことになる。命令に背き、新町市という札を立てたことは不届きに思われる。そうであるなら、お屋敷からの帰り道に、右の札を打ち割って捨てます、と申し上げました。これに対して番左衛門様は、その方が札を打ち割るには及ばない、右の札をさっそく撤去するように命じるからと言われました。それなら、明日の市のことなので、今日中に札を撤去するように命じてください、もし今日中に札を撤去しない時は、私どもが札を打ち割りますと藤吉が申し上げたので、番左衛門様は、直ちに札を撤去するよう命じられ、さっそく札が撤去されました。
その本町市は、八月十九日に新町で開きました。そして二年後の寛保四年二月十七日に本町庄屋久右衛門が藤吉のところへ来て言うには、本町市はこれまで新町で開いてきたが、たびたびお願いした結果、今日それが認められ、明後十九日より本町で市を開くことになりました。そこであなたの管轄の内へそのことをしらせる札を立てたいとのことでした。また、新町の旅籠屋も今日で閉鎖となり、前々のとおり、簾をかけた所へは簾を、戸を立てた所へは戸を立てるように命じられました。そこで右の札を立てさせてほしいと、久右衛門が言いました。これに対して藤吉は、念を入れられた申し入れです。申し入れには及びません。どうぞ札を立ててください、と言いました。かたじけないと久右衛門は言い、兵七殿のところへは行かないので、ついでの時にこのことを伝えてほしいと言いました。
二月十七日より新町で旅籠屋をすることは停止され、市も二月十九日より新町で開くことは停止されました。新町は与良新町であり、新町と与良町との出入りの際に旅籠屋を開いた、市を開いたというようなことが新町から言い出されるかもしれないので、今回の経過を記しておきます。本町の者が新町に小屋を作り、あるいは店借をしたことから新町へ市を開くことが命じられました。また、旅籠屋も市町だけではたりないので与良町・新町が旅籠屋を開いてよいと言われましたが、与良町では長期間のことではないので、新たに座敷などを作ることは無益と考え、旅籠屋を開きませんでした。後日のためにこのことを書き記しておきます。