徳川軍は家康が東海道を、秀忠は中山道筋を進むことになった。会津攻めの途上、宇都宮に滞陣していた秀忠は八月二十三日に、明日出馬すると諸方に通知している。沼田の信幸にも小県攻めに向かうので、そちらへ出張するように命じ(写真)、他の諸将へは「真田表仕置きのため」に出馬すると告げている。このように秀忠は離反した真田昌幸・信繁父子を討つための、信州小県郡上田城攻めを名目として、西上の途についたのだった。なお、上田城という城名は真田昌幸の命名であり、まだ認知度が低かったためだろう、この後も上田を攻めるとは言わず「真田表」を攻める、と真田を地名のように使っている。
上田は中山道からは外れている。秀忠軍の西上をさえぎる地ではなかった。押さえを配置しておけば充分である。にもかかわらず、上田城攻略にこだわったのは、右のような出馬の名目を掲げていたためだった。かつて徳川軍が苦杯を飲まされた地でもあり、何としてもまずは、これをたたいておきたかったわけでもあろう。
昌幸・信繁父子は上田城に立て籠もり、押し寄せた徳川秀忠軍三万八千を、わずか二千五百という兵で待ち受けた。九月二日に小諸城に入った秀忠は、まず昌幸に降伏を促したが、それを受け入れる態度を示した昌幸にはぐらかされている。後は両者にらみあいの内に、やや大規模な衝突が一度起こっただけでこの二度目の上田合戦は終わる。しかし、急を要する西上の途で、この地で一週間ほどを費やしてしまったことは、徳川軍にとって大きな痛手となった。秀忠は関ヶ原での決戦に間に合わなかったのである。
もちろん秀忠は家康の激怒をかった。しかし、この上田合戦の歴史的な意味合いはそれだけのことではなかった。このおり、秀忠が率いていた軍勢は徳川譜代の大身、榊原康政・大久保忠隣・本多正信・酒井家次・牧野康成らが中心の主力部隊であった。彼らの関ケ原での武功は全くなかったことになる。このため関ケ原合戦後の論功行賞において家康は、自身が率いていた豊臣系の諸将に没収地の大半を与えざるを得ず、その後の政治体制に大きな影響を残したとの指摘がある(笠谷和比古『関ケ原合戦と近世の国制』)。秀忠の関ケ原遅参をもたらしたこの上田合戦は、関ケ原合戦にまつわる単なる一つのエピソードにとどまらない重要な意義を持ってもいたのだった。
いずれにせよ、この戦いにおいても真田勢は徳川軍に屈しなかった。しかし、結果として西軍は敗れ、昌幸も上田城を明け渡さざるを得なくなる。本来なら死罪を免れないところ、徳川方に付いた信幸の助命嘆願により昌幸は信繁とともに高野山へ流罪の身となる。しかし、上田領は先に家康から約された通り信幸に与えられ、真田家は領地もそのままに存続することができた。
関ヶ原の合戦に際しては、豊臣恩顧の諸将も多くが東軍に付いたわけだが、昌幸以外の信濃の諸大名も全て同様であった。籠城中の八月五日付けで昌幸自身が家臣に出した手紙が残っている。差出が「信州上田安房守昌(花押)」とあり、大坂屋敷に残っていたらしい家来四名に宛てたものである。これは傷みが激しく解読不能のところも多いが「当国衆悉(ことごと)く内府(家康)方であり、ここ元の(気)遣い察し有るべく候、(しかし)仕置き丈夫に(手配してあるので)心易かるべく候」と記されている。ごく簡単な内容だが、この合戦に際しての上田城中の模様を伝える唯一の確実な史料として興味深いものである。昌幸・信繁の戦いは、まさに孤城に拠っての戦いであった。昌幸なりの勝算は当然あったのだろうが、こうした周囲の状況まで見れば、危険な賭けであったことに違いない。いずれにせよ常識的な判断ではなかったと言えよう。しかし、これにより後の大坂城での信繁の活躍にもつながる物語が生まれることになった。
<史料解説>
慶長五年(一六〇〇)八月二十一日
真田信幸(伊豆守)の沼田領は、徳川に敵対した父昌幸の信州上田領および上杉景勝の会津領と接していた。信幸はそれぞれの境界の出入口を、しっかり固めさせている、と家康に報告した。それを祝着とする家康よりの返書である。
<訓読>
以上
書状披見、祝着の至りに候。仍って信州口・会津口境目手置き等丈夫に申し付けらるるの由尤もに候。将(はた)又其の表の儀、委細本多佐渡守申し付け遣はし候の条、能々(よくよく)相談ぜらるべく候。恐々謹言。
八月二十一日 家康(花押)
真田伊豆守殿
<史料解説>
慶長五年(一六〇〇)八月二十三日
上杉景勝討伐のため下野宇都宮に滞陣していた徳川秀忠は、中山道筋を西へ上ることになった。明二十四日、こちらを発って小県郡(全域が上田領)を攻めるので、そちらへ出張するようにと沼田城の信幸に申し送っている。秀忠軍が西上の途につくにあたっての表向きの名目は、このように反旗を翻して上田城に帰ってしまった真田昌幸征伐とされていた。
<訓読>
以上
態(わざわざ)啓せしめ候。仍って明二十四日に此の地を罷り立ち、ちいさ形(小県)へ相動(はたら)き候の条、其の分心得候て、彼の表へ御出張有るべく候。尚、大久保相模守・本多佐渡守申すべく候。恐々謹言。
八月二十三日 秀忠(花押)
真田伊豆守殿
<史料解説>
慶長五年(一六〇〇)八月二十五日
「会津中納言」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家という西軍中枢に宛てた書状。これが真田家文書中に伝わっているのは、真田氏の沼田領・上田領経由で大坂まで届けられるはずのところ、信幸の沼田領で止められてしまった故だろう。家康の会津遠征を中断しての引き上げを「敗軍」と言うなど、意気盛んな様がうかがえる。
<訓読>
一大閤様御不慮以来内府(家康)御置目に背かれ、上巻の誓紙に違はれ、恣の仕合故、各仰せ談ぜられ、御置目を立てられ、秀頼様御馳走の段、肝要至極に存じ候事。
(中略)
一当表の儀、仰せを蒙る如く、去月二十一日、内府江戸を打ち立たれ、二十六七時分白河表発向議定の処に、上方変化の様子に動転し、悉く敗軍候。内府は今月四日に小山より江戸へ打ち入られ候。則ち関東表へ罷り出ずべき処、最上・政宗見合せ、慮外の躰に候条、急度申し付け、奥口相済み、関東へ三昧(さんまい)仕るべく候上は、卒尓(そつじ)に関東表調議に及び、奥口蜂起候へば、手成り見苦しく候条、右の分に候。但し内府上洛議定に候はば、佐竹と相談せしめ、万事を抛(ほう)り関東乱入の仕度油断無く候の条、御心安かるべく候事。
(下略)
<訓読>
急度(きっと)申し候。仍って大柿に治部少輔(石田三成)・島津(義弘)・備前中納言(宇喜多秀家)・小西摂津守(行長)籠り居り候。即ち取巻き水責め成すべしとて、早速出馬せしめ候。坂戸(越後)へ敵相動(はたら)くに於ては、油断無く加勢尤もに候。切々飛脚を遣はし、力を添えらる事肝要に候。恐々謹言。
九月朔日 家康(花押)
真田伊豆守殿