大 橋 周 治(新潟大学教授)
さいはての地に
幕末、北辺の蝦夷地でも洋式による製鉄業は試みられた。時期は鹿児島、釜石の洋式製鉄事業とほぼ同じくし、安政3年(1856年)から文久3年(1863年)の間で、明治維新前に洋式高炉が建設された3例のひとつをなすものである。
わたしは、それらしい記述を10数年前に、前田六郎著「和鋼和鉄」戦時中に出版された本で読んだ。しかし、それは「竹内、武田某が北海道渡島で竪炉によって砂鉄精錬を行った」というごく簡単なもので、竪炉とはどんな炉か?洋式か和式か?それに成功したのかどうか?竹内、武田とはどんな人物か?すべては深い霧のなかであった。
“技術のふるさと”を「金属」に連載するようになって、一度現地にいって調べたいと書いたところ、金属材料技術研究所の渡辺亮治氏から、北海道教育大学高木幸雄氏の論文「古武井熔鉱炉に関する研究」をアグネあてに贈与されて、濃い霧がふきはらわれ、北海道には多くの研究者がいることもわかった。高木氏をはじめ北海道の方々の研究をもと、去る7月下旬の現地調査による私見を加えて以下に紹介する。
安政3年(1856)に着工された洋式高炉は、函館市から渡島半島の南岸沿い東へ、52キロメートル、車で1時間半以上もかかる現在の尻岸内町字古武井にあった。大小の岬をめぐり、岩を穿った数多くのトンネルをくぐって古武井に行く途中、100年前には、アイヌ部落の人煙もまれであったろう、この最果ての地に、洋式製鉄を始めた人々の姿を思って、明治維新という変革期における民族の活力を、私は改めて考えなおしていた。この感懐は翌日、市立函館図書館で「新撰北海道史」に収められた諸資料、武田斐三郎の書いたアムール旅行の写本などをひもとくなかで、いっそう強められた。
近代化の条件
幕末、反射炉による砲鋳造、高炉による製鉄などの事業はまず、佐賀、薩摩にはじまって、ペルリ来航後は幕府公認のもとに直轄領の韮山、また水戸、長州、鳥取、南部の諸藩へと広がったのであって、箱館「明治2年(1869)に函館と改称」の場合もまた、国防という時代の要請に促されたものであることは疑いない。安政2年2月、幕府が松前藩の領地を削って箱館を直轄下におき、東北諸藩に蝦夷地の警備を分担(図1参照)させたこと自体が、北辺防備のためである。だがそのことは、洋式製鉄業の移植を含めて、箱館奉行のもとにおける蝦夷地の諸事業に、他の諸藩におけるそれと著しく異なる条件を、与える事になったように思われる。
第1に、北辺防備という、軍事目的を達成するためにも、未開の蝦夷地開拓という産業上の課題が大きなウエイトを持ったことである。第2に、日米和親条約・安政元年(1854)で箱館は下田とともに開港され、日米通商条約・安政5年(1858)その他諸国との条約によって、5つの貿易港のひとつに指定された。その結果、外国との直接交流という他藩にはない条件が与えられた。第3に、奉行管下の箱館では当時一般の諸藩に共通した封建的因襲は比較的稀薄で、また江戸を遠く離れていることは、最も因盾姑息だった幕府から相対的に独立して、開明官僚的な産業行政の実施を可能にしたように思われる。だが同時に、人口の稀薄、伝統的手工業を基盤に持たないという不利な条件のあったことも見逃せない。
第1の点は、安政元年3月(1854)、命を受けて蝦夷地、樺太の調査に赴いた堀利煕、村垣範正の両幕臣による報告の中に、すでに次ぎのような建議になってあらわれている。それは、溶鉱炉・反射炉を設け、この地方の海岸に多く産する砂鉄を原料として鉄製砲を鋳造し、あるいは船舶外張り用の「鉄葉」(ブリキ)を製造することを提案したのである。(「蝦夷地御開拓御書付諸伺書類」新撰北海道史第5巻収、以下「道史」と略す)、さらに翌安政2年(1855)2月新任の箱館奉行竹内保徳に呈した書簡では、箱館台場用の大砲鋳造とならんで、「南部地方に而ツク鉄船積いたし、諸国に相廻し、多分利潤に相成候趣に付、右等之振合篤と承り糺し、墾開其外之用途に致度事」(大日本故書、幕末外国関係文書収)と述べられている。「ヅク鐡」つまり製造した銑鉄を同国内各地に販売して利益を上げ、蝦夷地開拓の資金にもしようという意見である。当時諸藩が競って鋳砲をはじめ、材料銅鉄の高騰を招いた情勢のもとで、その現地自給が考えられたという高木幸雄氏の指摘は正しいと思うが、さらに国内市場への移出による収益も考えられた点に注目すべきであろう。
また、安政2年7月(1855)、箱館奉行の発した蝦夷地開拓触書は、民間人による鉱産資源の開発を次のように奨励している。
「金、銀、銅、鉄、鉛山開掘之儀、自分入用を以相試度存候ものは、年季を限り御免可有之候、且堀出候砿類は直に御買上可有之事、炭堀方相承候者は地所を定御引渡可有之事」以上(道史第2巻 778P)。このように民間の資本、労働力を導入し利用する道を一方で開きながら、営業による鉱山開発が始められた。
安政3年正月(1856)、箱館奉行は領内の金、銀、鉛、鉄の諸鉱山を巡見したのち、南部藩に対して鉱山に習練した者の派遣を命じ、同藩から岩尾勝右衛門ほか2名の銅山師と鉱夫8名を得て、諸鉱山の良否を鑑定した結果、川汲金銅山、市渡銅鉛山の官業による開く抗が決められた、翌4年4月(1857)には釧路の石炭試掘、民間試掘の硫黄買い上げなどが進んだ。(道史2巻 778P)
他方、製鉄業の方は、安政3年春(1856)、まず反射炉の建設が始まり、その間の事情は明らかではないが、夏までの間に早くも計画が変更されて、高炉(溶鉱炉)の建設に切りかえられた。その最高責任者が蘭学者武田斐三郎成章(以下斐三郎と略す)であった。斐三郎は安政元年(1854)堀、村垣の両幕臣にしたがって蝦夷地の調査に参加する直前に、佐賀に4~5日滞在して「鋳場の反射炉、諸機盤等を細かに寸尺まで書き記し」(箕作阮甫「西征紀行」)ている。当時の蘭学者は一般に科学、技術、実学の知識を持っていたが、中でも斐三郎は兵術、測量、航海、冶金ときわめて多面的な知識と能力の持ち主であったことは彼の箱館におけるその後の活動からも推察される。さきにふれた堀、村垣の高炉・反射炉建設の提案も斐三郎から出たことは、まずまちがいない。蝦夷調査にきたまま箱館にとどまって幕臣となった斐三郎は、安政3年(1856)8月21日付をもって、新設された「諸術調所」教授に任命され、同時に高炉建設、更に箱館弁天島砲台、五稜郭の築城など、蝦夷地開拓の科学・技術面における全能の指導者として、11年間にわたって多彩な活動を蝦夷地に展開したのである。佐賀藩の鋳砲事業が多分野の科学・技術専門家を擁しておこなわれ、大島高任が水戸、釜石において、冶金技術者としてのみ専心したのとはきわめて対照的である。箱館奉行所の発足当初における産業行政上の活動が、諸藩にみられぬ機敏さをもつことは、読者はすでに気付かれたと思う。外国との直接交流という特異な条件は、反射炉・高炉の建設にはいる以前、斐三郎が入港する英、仏船に外人を訪ねて教えを受けていること、安政4年(1857)にはオランダ鉱山師の招聘を幕府に申請し、これは実現しなかったが、文久元年(1861)には、他藩に先駆けてアメリカから、地質学兼鉱山学士のWilliam Blake、Raphael Pumpelly を招聘していることに現れている。
高炉操業は失敗
高炉の建設された古武井には、現在も函館から海岸沿いの自動車道路が岬を回ると、そこに日鉄鉱業の砂鉄船積み施設があって、眼下の海岸に一目でそれとわかる浜砂鉄の鉱床が砂丘上をなして広がっている。今日なお道内でも有数の砂鉄産地である。高炉跡は古武井川(旧名ムサ川)の右岸、海岸の砂鉄鉱床からは数百メートル離れただけの、やや小高い地点(ムサ台)にある。石灰石は東北に約2キロメートル離れた荒砥に産し、煉瓦製造所南西に約4キロメートル、尻岸内川右岸の高台上にあった。(図2参照)昭和40年(1965)10月、道教育委員会(函館博物館)と尻岸内町の共同で発掘調査がおこなわれた結果、高炉の土台と敷石を確認でき、附近には当時の耐火煉瓦の破片がいくらか散乱している。ムサ川支流から水車動力用に開掘した長さ44間の用水溝も、夏草の繁茂した時期のほかはそれと知ることができるという。煉瓦製造所も発掘調査されて、その位置を確認でき、煉瓦片を採取できる。発掘調査の実測記録は道文化財保護係に保管されており、今回は見ることができなかった。
この古武井高炉の構造に関する正確な記録はきわめてとぼしい。基礎土台の石垣が5間四方、高さ5尺、使用煉瓦約15,000枚などの断片的記録と、安政5年(1858)1月、目賀田守蔭の描いた一葉の着色絵画が、高炉の外形、建屋、水車、水路の概要を今に残すほかに、前記の雇米人、Raphael Pumpellyの次のような視察記があるにすぎない。
「文久2年(1862)5月10日、古武井では外国型の溶鉱炉で海岸から採取した磁砂鉄を溶解する試みがなされていたのだった。我ら一行の一員である日本士官武田氏は彼の国に於いて軍事工学及び航海術の知識を増進させるのに大いに貢献した人であるが、彼は、帝国政府から外国方式によって鉄鉱を溶解するための大溶鉱炉を建設すべく命令を受けていた。そのようなものを日本人は一度も見たことがなかったが、彼が、科学に関する和蘭人の著作で見付けた設計図と設計明細図だけで、武田氏は立派な水車で動かされるシリンダーブラスト(円筒衝風器)のある約30口尺の高さの溶鉱炉を精巧な模型に従って建設した」(R. Pumpelly : Geological researches in China, Mongolia, and Japan,during the years 1862 to 1865 高木幸雄氏訳による)
これはまさしく洋式高炉である。斐三郎が依拠した『和蘭人の著作』が何であるかの確証は今のところないが、佐賀、鹿児島、水戸などの反射炉、鹿児島、釜石の高炉のすべてが依拠した蘭書邦訳、例のヒューゲニン著『西洋鉄熕鋳造編』以外のものではなかったとみてまちがいなかろう。武田斐三郎は同書の翻訳者たちとともに伊東玄朴の門人であり、また佐賀の反射炉を手がけた杉谷雍助、水戸反射炉・釜石高炉の建設者大島高任とも同じ玄朴門人であったし、同書の訳は当時すでに3種も出版されて、諸藩主の手に渡っていたからである。 我々は現在上記のように乏しい材料しか持たないが、古武井高炉は釜石の橋野高炉と比較してみて、次の2点を異にしている。(1)高炉外被は橋野のように巨石でほぼ垂直に築かれてはおらず、外形は四角垂台をなし、外被は、木枠のようなもので囲まれている。(2)釜石橋野高炉の衝風器が、角型フイゴであったのに対して、Pumpelly の観察では円筒型フイゴとなっている。
安政5年(1858)3月までに 1,772両を投じて建設された古武井高炉の完成、火入れ時期も明瞭ではない。北海道の学会で論争になっているところである。高木幸雄氏は手島季隆著「探箱録」中の安政5年(1858)5月5日付の記事に「鉄砂溶鉱炉己成」とあるのを根拠に安政5年(1858)5月以前に火入れされたという説をなし、医師の阿部たつを氏はそのように早期完成することが困難であったなどの諸事情をあげて、万延元年(1860)~文久2年(1862)6月の間と推定している。その確証は道内研究者の今後の研究にまかせるが、大島高任の釜石大橋1番高炉の火入れは安政4年(1857)12月であるから、鹿児島、釜石に次ぎ、わが国で3基目の洋式高炉が、北辺の古武井で火入れされたことになりそうである。
では高炉操業の状態はどうだったのか、これまた資料は乏しく、操業の回数、操業の期間生産量のいずれも確認できない。当時としては画期的な洋式高炉の新事業であるから、出銑に成功したならば箱館奉行あてに、あるいはさらに江戸表に、何等かの報告がなされていいはずであるが、そのような文書は全く見当たらない。炉が完成してから1~2年を経たと思われる万延元年(1860)2月、箱館奉行から南部藩にたいして、武田斐三郎の釜石高炉見学と、南部製鉄職人10人程の雇入れが申し込まれているのも、操業困難を反映したものと考えられる。南部職人の雇入れは、南部藩内でも職人不足という理由で謝絶されたが、斐三郎は釜石高炉の操業を実地に見て帰っている。釜石視察から学んだからであろう、同年10月、翌文久元年(1861)1月には水車場の改良工事が行われている。
だがその後、文久2年(1862)5月の操業も失敗であったことをPumpellyの報告は、つぎのように述べている。「得られた衝風(ブラスト)は必要量のほんの一部に過ぎず、さらに建設に使用された煉瓦は充分な耐火性がなかった、かくてその仕事は 200~300封度?の重さの鉄を溶解した後に失敗に帰した」(前掲書)古武井高炉は、翌文久3年(1863)6月の暴風雨で崩れ去ってついに再建されなかった。
Pumpelly は失敗の原因を衝風力の不足と煉瓦の低い耐火性に帰している。確かに衝風力の不足は、現地で古武井川のあまり豊富でない水量を見たことからも、また釜石では最初に風力が弱いために角型フイゴに替えたとされる、円型フイゴを古武井で用いていたらしいことなどから、頷かれるところである。耐火煉瓦の問題は、高木氏の採取した煉瓦の分析結果が耐火度SK15~18で、当時の佐賀、鹿児島、水戸、韮山の反射炉で用いた煉瓦の耐火度SK26~27に比べて、著しく低いことによっても実証されている。だが古武井高炉の失敗の真因は、衝風力、耐火煉瓦の問題以前に、高炉による砂鉄精錬の困難そのものにあったとみるべきである。武田斐三郎を含めて、当時のわが冶金学者はその点をまだ充分に理解していなかったとみるべきであろう。
仮“コウキャウヘン”の謎
上述のように、古武井高炉は操業に失敗したと結論できるとしても、幕末蝦夷地における洋式製鉄のすべてが失敗に終わったと、簡単には断論できない事実があり、これまた道内の学者、研究者の間で論争になっている。(高木幸雄氏は洋式高炉説・函館大学教授白山友正氏はタタラ炉から洋式高炉への改造説・医師阿部たつを氏はタタラ炉説をそれぞれ主張。)それは、古武井川から約4キロメートル函館よりの、尻岸内川の河口から支流の冷水川へ約2キロメートル遡ったところに「仮コウキャウヘン」(Hoogoven の訛で仮高炉の意)と呼ばれた1炉が当時あって、これは銑鉄製造に成功しているという事実である。北海道諸氏の説を検討し、私自身の現地視察の結果に基づいて見解を述べておく。
文献上ではこの仮高炉は次のように記述されている。「ヒヤミツ川添い弐拾町程山入に、コウキャウヘンと号、則鎔鉱略形に有之、箱館弁天町松右衛門と申者願請、自分入用以取り建、右に而鉄砂製法仕候由右場所見分仕候処、弐間四方、高弐丈余程に建立、火勢の模様強烈盛に相見、実に破裂等之儀も有之間敷とも難申見請候」これは、奉行所の勘定方斎藤六蔵の報告・安政4年(1857)3月、とされるものである。
高木幸雄氏は、このほか多くの文献に基づき、さらに炉跡から採集したスラグの分析値を検討した上で、次のように結論を下している。
「炉跡から採取した鉱滓の分析値は粗悪ながら鉄精錬がなされた事を証明しており、仮溶鉱炉は一応成功を収めたものと解される」『古武井熔鉱炉に関する研究』、そして、また、「仮溶鉱炉の溶銑こそ、わが国に於ける最初の洋式高炉による溶銑であり、且又洋式高炉による砂鉄精錬の嚆矢ということができる」(上掲論文35p)と。
高木氏のこの結論は、鹿児島、釜石を無視して、この仮溶鉱炉の出銑をもってわが国洋式製鉄の始まりとする点で事実に反するが、わたしは冷や水川の炉が当時たとえ「仮溶鉱炉」と呼ばれていたにしても、それが洋式高炉であったとすることに疑問を呈するものである。
まず、現地での観察から述べよう。
①尻岸内町の浜田昌幸氏に案内されて確認した仮高炉跡は、極めて狭い谷間の斜面にあった。現在密生している針葉樹の巨木は、この百年間に育ったとしても、また2間四方の炉はその場所に建設し得たとしても、洋式高炉の立地条件としては非常に不適切な場所である。
②洋式高炉ならば水車による送風を必要とするが、水車場を設ける場所を欠き、また用水導入の溝跡もその形跡を全く認めなかった。さらに冷水川の水量は余りにも貧弱であった。
③数塊のスラグはすぐ谷川で採取できたが、それは一見してタタラ吹きの鉱滓であることが分かるものであった。
④炉跡を掘ると数塊の煉瓦片がすぐ出てきたが、いずれも粗悪な赤煉瓦で、古武井高炉で認めたほどの高炉内壁の珪石煉瓦は出てこなかった。従来もそれは採取されていないのではないか、また、高さ2丈もの高炉煉瓦積みであったならば、もっと大量の煉瓦屑が広く散乱している筈ではないか。
つぎに高木、渡辺両氏の鉱滓分析値は何を語っているのか?両氏の示す分析値は、洋式高炉であったと言う結論とはまさに反対のことを実証している。(高木幸雄『古武井熔鉱炉に関する研究』表2参照)高木氏自身もまた適確に述べている。「仮熔鉱炉よりの鉱滓分析の結果、sio2とCaOとはスラグとして考えられない比率である。酸性操業でも、高炉なら塩基度は0.6が大体最低線でsio230%ならCaO18%はあるべき筈である。また、Feも多過ぎるので、鉄損が非常に大きい」(上掲論文)。しかり、これは石灰を溶剤とする高炉操業からでたスラグではなくて、まさにタタラ吹きによる砂鉄精錬によって生じたスラグなのである。だが文献上で「仮熔鉱炉」と称し、炉の規模が「二間四方高さ二丈」とするのは高炉ではないのか。
なぜ、「仮熔鉱炉」と呼ばれたのか分からないが、冶金技術の知識を持たぬ役人や視察者が、工場設備に勝手に名前を付けることは今日でも日常茶飯事のことで、この呼び名だけから洋式高炉とは結論できない。勘定方役人による炉寸法もあてにならない。炉寸法については、明治6年(1873)この「仮熔鉱炉」跡を視察した米人技師ライマンの、次の視察報告の方が正確ではないか。「ソノ炉ハ長方形ニシテ長サ七尺、幅四尺、高サ五尺ニシテ泥土ヲ以テ築造セリ、是内地ノ南部地方ニ於イテ用イルモノナリ」(『来曼氏地質測定初期報文』道史6巻 131p)これはまさにタタラ炉の描写である。この炉が松右衛門なる者の出資・経営であることも、それがタタラ炉であったことの根拠になる。松右衛門の出身地は分からないが、箱館には南部藩出身の者が当時から多く来住しており、南部では江戸中期以来、商人出資による砂鉄精錬、藩による銑鉄買い上げが制度化してその経験者は多かった。
道開拓の先駆
上述のように、古武井の洋式高炉は失敗に終わった。だが、そのことをもって、武田斐三郎を科学・技術面の最高指導者とした蝦夷地開拓の成果と意義を否定し去ることは出来ない。
洋式製鉄の移植に失敗したが、先にも登場した米人技術者William Blake、
Raphael Pumpellyが文久元年4月、学生、通詞をともなって来道して諸金属鉱山や炭鉱を踏査したのち、蝦夷地の鉱山業は近代化への道に歩み出す。米人両技術者は、利別川上流では水銀による砂金採取、遊楽部の銀鉛山では火薬使用による岩石砕破など、わが国では初めての新技術を実地に試みている。元治元年には南部藩から大島高任がきて各地の石炭を分析し、とくにアシベツ炭鉱(現在の茅沼炭鉱)では約2年間にわたって試掘を行っている。これは投資額が 3,651両にも達してなお成功せず中止されたが、翌慶応2年、英人鉱山師、F.H.M. Gaol を雇用して、茅沼炭鉱の採掘は本格的に進められ、後の道炭鉱業発達の基礎がかためられた。(『道史』2巻 779~783p)
箱館における洋船建造が、当時の日本で極めて先進的地位にあったことは特筆しておく必要がある。箱館奉行は、当時難破したロシア海軍乗組員が、伊豆下田で建造中のスクーネル型船(君沢型)3隻のうち2隻を、箱館奉行所の備船として交付されるよう、幕府に申請していたが実現しなかった。そのため、没落前の高田屋嘉兵衛のもとで働いていた船匠豊治を起用して、安政4年に箱館丸、5年に亀田丸、万延元年には豊治丸の自主建造に成功した。これらの洋船は入港する外国船の構造を観察し、これを模して建造されたが、君沢型にまさる性能と堅牢を誇るものであった。(『道史』2巻 787~788p)
これらの産業近代化もさることながら、武田斐三郎を教授(実際は校長)とする「諸術調所」の残した遺産はいっそう大きいものがあった。
「諸術調所」は安政3年(1856)8月の開設にさいしては、経費も僅かで簡略に「分析所」と称して発足したが、幕命で諸術調所と改名されたものである。これは単なるオランダ語の翻訳機関のようなものではなく、実学を主とする異例の洋学校といった性格をもった。その教授に任じられた武田斐三郎は、洋式製鉄、弁天島砲台、五稜郭の築城、その他多忙な実務を遂行しながら、次のような独自の学校運営を行った。旗本、諸藩士をとわず、広く全国から子弟を入学させるやり方は、文久3年(1863)設立の、勝海舟、坂本竜馬による神戸海運操練所を思わせるものがあり、箱館の諸術調所はむしろその先鞭をつけている。学生は原書生、訳書生に分けられ、前者はオランダ文典、航海書、算法書などを原書で学び、後者にはそれを訳書で講じた。単に机上で教えるだけでなく、実地に諸学科を教え訓練するところに、この官校の特色があった。
安政6年(1859)、武田斐三郎は奉行所で自発的に建設した前記の箱館丸に学生を乗せ、蝦夷地の産物を積載し、自ら指揮して1年間の航海に出ている。北海を巡船して南海に出、瀬戸内海から大阪、房総、陸奥をまわり南部の宮古で越冬、その機会に釜石の洋式高炉を見学して帰っている。文久元年(1861)4月には、亀田丸で、露領ニコライエフスクから黒竜江をさかのぼって測量をやり、天文、地理を観察し、船内で諸器物の製造も実施している。招聘外人技師 Blake、Pumpelly も鉱山採掘法、溶鉱法、分析法を講じているし、中浜万次郎(ジョン万次郎)も来て捕鯨船について教えている。語学は初め蘭語のみであったが、英語、フランス語、ロシア語がつぎつぎに加えられ、宣教師、領事館員などが講師となった。慶応元年(1865)には6名の留学生をモスクワにまで送っている。
斐三郎の指導した箱館洋学校の学生からは、後に工部省で近代鉱山業の確立に貢献した山尾庸三、わが国逓信事業の創始者前島密、わが国鉄道の創設者井上勝、蛯子末次郎、水野行敏、今井兼輔らの人材が輩出しているのは偶然ではなかろう。とくに、長州勤皇派の山尾、井上らが幕府の箱館洋学校に学んだという事実は、注目に値する。
武田斐三郎の人間像
文政10年(1827)8月15日、伊予国大州藩士の次男として生まれた。藩校明倫堂をへて、緒方洪庵塾に学んで蘭学に入った。ここでは、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭助、福沢諭吉らがともに学んでおり、伊東玄朴の象仙堂では、先に述べたように大島高任、杉谷雍助ら後に高名になった冶金学者と同門である。佐久間象山の門もたたいている。そのような学歴が、軍学者、鉄砲術、測量、航海術、冶金という多面的な実学を備えさせることになったのであろう。嘉永6年(1853)ロシア軍艦の長崎来航にさいし、その応接掛を命ぜられた蘭学者箕作阮甫に随行、さらに幕臣川路聖護に従ってロシア御用取調掛として長崎にあったが、安政元年(1854)3月、堀、村垣の両幕臣に従って、蝦夷調査に参加、その後のことは本稿で述べたとおりである。箱館奉行所において正式に幕臣に登用されたさい、箱館奉行は、ややオーバーに過ぎるくらいの高い評価を斐三郎に与えている。斐三郎ときに28歳「同人蘭学の議は当時有数比類なく相聞、且漢学に長じ、志気慷慨、天禀非常の才容を兼て見込罷在」(『道史』2巻 795p)
斐三郎の思想や政治意識が、ペルリ来航の激動期にどのように対応したかは今は知らないが、幕臣となっても、彼が蝦夷地に定着するまでの人的なつがりが、幕府の中でも開明派にあることは間違いない。斐三郎の箱館在住は11年の長期に及び、その間に維新史は激しく変転する。彼は技術者であったがゆえに、政治には超然として北辺の防備、開拓のためのに専心できたのであろうが、彼の諸術調所教授としての進歩的行動は、単にそういうことでは出てこないようにも思われる。斐三郎は、尊攘の騒音から遠く離れて、日本のもっと将来のことを考えていたのかもしれない。わたしは歴史家か小説家が、この興味ある人物を追跡して、その興味ある人物像を描いてくれないものかと願っている。
斐三郎は元治元年(1864)8月、関口大小銃鋳立器機取扱を命ぜられ、蝦夷地を去って江戸へ帰り、11月には王子反射炉建設の任務を与えられたが、衰亡に向かう幕府に、この計画を遂行する力はもはやなかった。慶応3年(1867)5月、砲兵頭に任命され維新を迎えた。維新の転換期に、江戸の自宅で多数の暴徒に襲われて危うく難を逃れ、信州の松代藩の兵学教授として一時身を潜めたのは、何を意味するのだろうか。
明治4年(1871)兵部省出仕、陸軍少佐、築造掛、砲兵局に、同5年兵学寮大一舎長官、同7年陸軍兵学大教授、同8年幼年学校長を歴任するのは、兵学者及び教育者としての経歴と資質によるものだろうか。その間、砲兵会議委員、村田銃、大砲、火薬の各試験委員として、技術者の道は続いている。だが旧幕臣という立場が、新政府のもとでは、華々しい活躍の場を彼に与えなかったように思われる。陸軍大佐で明治13年(1880)1月28日没、行年54歳。
付記 種々、懇切丁寧に教えていただいた高木幸雄氏、「仮熔鉱炉」のあった山中まで案内して下さった尻岸内町収入役浜田昌幸氏に感謝します。
参考文献
(1)高木幸雄 「古武井熔鉱炉に関する研究」(人文論究第27号)
(2)阿部たつを「尻岸内熔鉱炉について」(道南の歴史第24号)
(3)白山友正 「松前地古武井熔鉱炉の研究」(北海道経済史研究第20号)
(4)「新撰北海道史」2,5,6巻
(5)「武田氏蔵書」所収履歴書