そして、会津に到着した秀吉は、三日後の八月十日に、
というような内容を持つ七ヵ条の定書を石田三成に下し、奥羽両国に刀狩りを徹底するように命じた(資料近世1No.二三 なお、このほかに秀吉の使番を勤めた石川兵蔵に宛てられた五ヵ条から成るものがある)。これは、天正十六年(一五八八)七月当時に、すべての豊臣勢力圏を対象として各大名に出されたという刀狩り令を受けたものであるといえる(以下の記述は、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』一九八五年 東京大学出版会刊 による)。つまり、この定書は、全国法令である刀狩り令を、奥羽全域にまで適用させようという意図を持ったものである。そして、出羽・奥州、さらには津軽の果てまでをも射程に入れた刀狩りと検地とが一体となって施行されることを目指したものであったという(藤木前掲書)。
さて、津軽の果てまでを目指した刀狩りであるが、十月七日付で陸奥国の仕置を担当していた浅野長吉(あさのながよし)(後に長政(ながまさ))に宛てた秀吉の朱印状によると、九月中ころに「南部境目」の和賀・稗貫に仕置を実施するために、浅野長吉が平泉の高館にまで到達しており、ここでの秀吉の指令が「百姓刀狩以下入念申付候由、尤候、」ということから(資料近世1No.二五)、百姓の刀狩りが現在の岩手県南部にまで迫っていた。さらに、この「南部境目」より北の地域については、文禄元年(一五九二)十二月、南部領では一戸(いちのへ)での「刀かり」が課題の一つとなっていたようであり、当時肥前名護屋に在陣中の南部信直は、頑(かたくな)な者は成敗するようにと強硬な姿勢をみせている(「宝翰類聚」坤)。
次に、刀狩りの意図と、実際にどのように実施されたのかをみてゆくことにしよう。八月十日の刀狩り令では、百姓の武器の所有は郷村の連帯責任とした。そして、百姓を耕作者としての身分に確定しようとしている。また、たとえば、出羽仙北郡では、仕置を命じられた上杉方の奉行人である色部(いろべ)氏から豊臣方に差し出した武器は、八種類もあるにもかかわらず、出羽仕置を統括していた大谷氏の奉行人の受け取りは、大刀と脇差だけであった。つまり、豊臣政権の刀狩りの関心は、「刀・わきさし・弓・鑓・鉄炮」など一切の武具類の所持というよりは、百姓の大刀・脇差にあったようである。
中世社会では、刀・脇差、すなわち、大小一腰を帯びるということは、単に武装するということではなく、その社会における正式な構成員としての資格と自力救済能力を示す標識であった。豊臣政権の刀狩りは、百姓が武器を日常的に使用することを前提とする(したがって、村から一切の武器がなくなったわけではなく、使用には免許を与えた)武装凍結策であり、帯刀権を原則的に否定することで、農民身分を確定するという身分規制を帯びたものであった。刀による流血慣行の惨禍から百姓を救済し、さらには、天正十六年(一五八八)七月の刀狩り令にみえる大仏建立のための仏事への結縁、すなわち、来世での利益を約束することで、強引にも刀狩りを正統化させる論理としたのであった。