伏見木幡山城の築城

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秋田実季が伏見作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、それ以降、秀吉の死去の翌年である慶長四年まで杉板を継続して廻漕している。なお、文禄四年には伏見指月城杉板廻漕秋田氏単独であったものが、翌慶長元年の伏見木幡山(こはたやま)城の築城からは、津軽右京亮(うきょうのすけ)のほか、仙北の大名である小野寺孫十郎戸沢九郎五郎・本堂(ほんどう)伊勢守・六郷(ろくごう)兵庫、由利(ゆり)五人衆の仁賀保(にかほ)兵庫・赤宇曽(あこうづ)孫次郎・滝沢又五郎・内越(うてつ)孫五郎・岩屋(いわや)孫太郎らもそれぞれの石高に応じて廻漕している。
 杉板は、文禄四年当初は「御橋板」というように、伏見指月城の対岸にある向島に架かる橋の用材に使用するための意味合いがあり、それが豊臣政権の公的な築城にかかわるものであるという意図は希薄であった。しかし、伏見木幡山城の築城がすでに始められていた慶長二年からは「伏見御作事為御用」「公儀御板」「天下御作事之杉板」という表現に切り替えられ、さらに慶長三年にはこれらの表現のほかに「天下様御板」という表現がなされてくる。つまり、伏見城は、当初の秀吉隠居城という性格が完全に払拭(ふっしょく)され、木幡山城の段階には、確に秀吉政権(=「公儀(こうぎ)」「天下(てんか)」)からの公的な賦課であることがらかにされたのである。
 秀吉は、天正十九年(一五九一)の九戸一揆と、それに続く文禄元年(一五九二)からの名護屋参陣において、奥羽の大名・小名衆を軍事動員することに成功し、政権の軍隊として編成することを実現していたが、この慶長元年からの伏見作事板の運上軍役の一種であることから、彼ら奥羽の大名・小名衆は、天正十九年からまさに「際限(さいげん)なき軍役(ぐんやく)」を毎年のようにさまざまな形で賦課され続けていたのである。

図29.河辺に薪材を積む図


図30.堤を放して薪材を流す図

 慶長二年(一五九七)十一月に糠部郡を出立し、陸路により武蔵国を経て同年十二月二十五日に伏見に到着した南部信直は、伏見到着早々に、八千代子(ちよこ)宛ての書状で翌慶長三年正月には「御材木」の件が落着すると報告している(南部光徹氏蔵)。この「御材木」は、伏見作事板のことであるが、この作事運上の秀吉朱印状を受領するために南部信直伏見へ到着していたのである。またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事運上朱印状下付を待って伏見に詰めていた。結局、この朱印状は三月になってようやく発給され、秋田実季や仙北小野寺義道(よしみち)には三月六日に出され(『三翁昔語』、「神 小野寺文書」)、南部氏にはこれよりも遅い三月二十七日になって出されている。奥羽の大名・小名衆にとって、豊臣政権の庇護がなければ領国支配を実現できない状況下では、たとえそれが大きな負担になろうとも、秀吉から賦課される軍役である伏見作事板を果たす見返りに、秀吉政権の手厚い保護を得ることがどうしても必要であった。
 折しもこの慶長二年から三年にかけては、出羽国比内(ひない)郡の領有をめぐって紛争の最中であった比内の浅利頼平(あさりよしひら)と秋田実季が、豊臣政権から強制出頭を命じられ上洛していた。比内郡の山をも含む秋田山からの伏見作事板の伐採と廻漕を命じる朱印状は、事実上比内郡の領有権をその朱印状獲得者に公認するものであり、秋田実季としてはこの朱印状が獲得できるかどうかは死活問題であった。