「正保国絵図」の中で、一里塚の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・奥州街道(油川~狩場沢)と、松前街道(油川~三厩)、乳井通り、下之切通り、十三街道のみである。しかし「道程帳」ではこの他に、百沢(ひゃくざわ)街道にも一里山(一里塚)のあったことが記されている。「津軽一統志」には慶長九年(一六〇四)に幕府の命令で山本新五左衛門と榎本清右衛門が下向し、東奥の駅路に一里塚を築かせたという記述(資料近世1No.二〇二)はあるが、両名が津軽領までやって来たかどうかは不明である。しかし、盛岡藩の場合は同年二月に奥州街道の分について一里塚築造に着手したと思われ(「篤焉家訓(とくえんかくん)」)、一方、秋田藩の場合も同年七月に弘前藩との境界の道普請を行っており(同年七月二十九日付けの小場右兵衛義成宛て佐竹義宣書状)、これら両藩の動きから推定すると、津軽領でも同時期に大道筋の整備や一里塚の構築が行われた可能性が高いといえよう。
津軽弘前藩では元禄六年(一六九三)に領内の道程検地を行い、その成果が翌年の「御国中道程之図」(以下「道程之図」と略記、資料近世1口絵に一部掲載)としてまとめられた。現存する「道程之図」は二三巻であるが、それには村・山・川・橋・坂など街道筋の景観や村間の距離が詳しく記載されている。羽州街道の場合は「大手町境御門より碇関峠御境迄(まで)道程絵図」と「東御門町境より新城村通油川村御札所(おんふだしょ)迄道路絵図」の二本に分けられており、従来の藩境から街道が始まるという描き方はされておらず、道程検地で弘前を起点とした大道筋の見直しがなされたのではないかと思われる。このため、「道程帳」と「道程之図」では、一里塚の位置に微妙な差が生じている。たとえば「東御門町境より新城村通油川村御札所迄道路絵図」では、弘前城下を出てから二つ目の一里(一里塚)は藤崎村外(はず)れの毘沙門堂(びしゃもんどう)境内にある旨の記載と朱色の印があるが、「道程帳」では藤崎村から二三町離れた次の矢沢村の端(藤崎村寄りか)にあることになっている。ただ、神社の境内に一里塚が築かれていたのかどうかとなると疑問も残る。元禄~宝永期の「国日記」には一里杭(くい)を建てたことも報告されており、「道程帳」にみえる一里山、「道程之図」にある一里については塚なのか杭なのか判然としない部分が多い。これは、津軽地方に一里塚そのものが現存しない点と合わせて考える必要があろう。