藩の廻米強化策にかかわった御用商人山本四郎兵衛は、米穀払底(ふってい)の張本人として領民の恨みを買った。「津軽徧覧日記」(同前No.五四)は、たまたま青森に出張していた四郎兵衛の弟が、生命の危険を感じて米俵に隠れて命からがら弘前に逃げ帰ったことや、飢饉のため弘前で徘徊する物乞いたちは、山本の店で食べ物をねだれといわれたというエピソードを紹介している。山本は津留にもかかわらず私的な米穀まで優先して移送したことも領民の不信を買っていたが、実際は藩の政策の失敗を山本個人が負わせられた格好である。山本は七月二十八日には、責任をとって家財を処分し、自宅は「空屋」になっているが、実際はその後も藩の命令で秋田藩に種籾の買い付けなどに派遣された(『天明卯辰日記』)。
津軽領での騒動は、大凶作の兆候がみられる天明三年七月末に集中し、被害が明らかになった八月以降には発生していない。食糧事情の極度の悪化は騒動を起こすエネルギーをも奪ってしまい、本格的な飢餓の状態に入ってしまったのである。その点で騒動に参加した領民たちも、飢饉の悲劇から逃れることはできなかった。青森・弘前はそれでも藩からの多少の払米はあったが、在方はなきに等しく、木造新田の農民たちは、今度は飢民という形で弘前に流れ込んで来たのである。在方や弘前の施行小屋の惨状は前節にみたとおりであるが、青森でも天明四年一月から閏二月までの三ヵ月間に二〇〇余人が餓死したという(『天明凶荒録』)。藩の買米制や上方への廻米も、このような段階では中止せざるをえなくなった。
一方、津軽領で始まった騒動は東北地方一帯に飛び火した。この年の暮れにかけて、ヤマセによる凶作が特に太平洋側で著しかったのを反映して、打ちこわしは陸奥国の諸藩を中心に南下し始める。特に仙台や白河では大規模な打ちこわしが起こっている。しかし、奥州一帯の農民の犠牲のもとに米を集めることのできた江戸の町では、米価は多少高騰したものの、特に騒動は起こっていない。
江戸や上方で大規模な打ちこわしが行われるのは、天明六年から七年にかけてである。この年は不作であったが、奥羽諸藩は飢饉には至らず、打ちこわしもほとんど起こっていない。皮肉なことに天明三年の飢饉で懲りた奥羽諸藩が一斉に廻米を減少させた結果であった。三都を中心とした幕藩体制下における経済構造は、生産地(地方)と消費地(三都)の立場を容易に逆転させる側面を含んでいたのである。