民次郎一揆

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文化十年(一八一三)九月二十八日、藤代組(ふじしろぐみ)(現弘前市・北津軽郡鶴田町)・高杉組(たかすぎぐみ)(現弘前市・中津軽郡岩木町・西津軽郡鰺ヶ沢町)・広須組(ひろすぐみ)(現西津軽郡柏村・同郡木造町)・木造新田(きづくりしんでん)(現西津軽郡木造町・同郡車力村・同郡森田村)の四組、岩木川左岸の百姓たちが弘前城北門(亀甲門(かめのこもん))外に強訴(ごうそ)に及んだ。鬼沢(おにざわ)村(現弘前市鬼沢)の民次郎が首謀者とされたことから「民次郎一揆」と呼ばれる。この以前から、前述のような百姓の動きがあったので、藩は警戒のため大組諸手足軽の内一〇人を各御用番宅に詰めさせておいていた。藩の対応は素早く、武勇で知られる大組物頭山本三郎左衛門に防御を命じ、願書の取り次ぎは新田代官と工藤仁右衛門に命じている。願書を受け取らせた百姓たちは藩に対して特に荒々しい行動をとることなく引き揚げたが、途中、御蔵町(おくらまち)(現弘前浜の町)の相模屋久兵衛宅を打ちこわしている。首謀者「頭取」については判然としなかったようであり、最終的には、工藤仁右衛門に願書を手渡しし、終始首謀者であることを主張した「高杉鬼沢村彦兵衛次男民次郎」が「頭取」として、ただ一人斬罪に処せられている。処刑は十一月二十六日、取上(とりあげ)の御仕置場で行われた。このほか、高杉組立石村(たていしむら)(現西津軽郡鰺ヶ沢町)庄屋作太郎と木造新田山田村(やまだむら)(現同郡森田村)百姓弥三右衛門は鞭刑三〇と永牢。ただし二人とも後日減刑となり十里四方追放。あとは鞭刑・三里追放・村払い・締まり等であった(同前No.五九~六一)。捕らえられた者五一人、処罰者三五人、逃亡者二人であったとされる。罪を一身に背負い、ただ一人極刑となった民次郎について、治十四年(一八八一)顕彰碑が建立されその後義民とされた。

図159.民次郎記念碑


図160.弘前城北の郭北門(亀甲門)

 さて、一揆の規模であるが、『記類』(文化十年十一月二十五日条)および『伝類』(槍術之部、山本三郎左衛門安諄)では二〇〇〇人、「大平家日記」では一三〇〇人(資料近世2No.五七)、「国日記」では七、八〇〇人(同前No.五九)、「秘苑」では数百人(文化十年十月条)などとあり、一定しない。このような食い違いは、徒党人数だけではなく、日にちの違いや、さらには、前述した駒越組猿賀組大光寺組・尾崎組の動きと混乱した記載もみられる。それは、これらの動向が九月二十二日から二十八日に集中していたことと、各組が近接していたことによるものであろう。また、その要求内容が、いずれも不熟作を背景とした年貢の減免であったため、各強訴を総体としてとらえている可能性もい。ただし、天三年(一七八三)の青森騒動が四〇〇〇人、弘前での騒動が二〇〇〇人規模であるとされることから、民次郎一揆が二〇〇〇人を動員したとしても不思議はない。しかしながら、藩は一揆後の処分にかかる調査を極めて厳重に行っており、その参加者についても、かなり正確に把握していたとみることができる。公式記録としての「国日記」に七、八〇〇人と記載されていることの意味は大きい。