図162.相馬大作画像
文政三年、盛岡藩主利敬(としたか)が三十九歳の若さで世を去った。津軽家に対する積年の鬱憤(うっぷん)が彼の死を早めたという。遺領を継いだ吉次郎(利用(としもち))はまだ十四歳で無位無官であった。それに対して、弘前藩の藩主津軽寧親は従四位下侍従に叙任されていた。秀之進はこのことに不満を抱き、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには江戸城に登城する前か、もしくは参勤交代の途中など、チャンスをうかがって寧親を暗殺しようとした。
秀之進は文政四年、江戸から帰国途中の寧親を秋田藩領白沢(しらさわ)駅(現秋田県大館市)付近で狙撃しようとしたが、同行した鍛冶喜七・大吉両人の密告により未遂に終わった。寧親は、大館を通過せず、大間越(おおまごし)(現西津軽郡岩崎村)経由で帰国したのである(資料近世2No.九八)。秀之進は累を他に及ぼすことを避けるため、妻とともに出奔して江戸に上り、相馬大作と名を変えて道場を開いていたが、同年十月、幕吏に捕えられ、翌年八月、関良助とともに獄門に処せられた(同前No.一〇〇)。
なお南部吉次郎は、この騒ぎのさなかの文政四年(一八二一)十二月、従四位下になり、大膳大夫に任ぜられ、位では津軽寧親と並んだ。津軽家では、一時的に南部家より官位が高くなり、寧親のあとに藩主となった津軽信順(のぶゆき)は、田安斉匡(たやすなりまさ)の娘を室としていることもあってか、文政十年三月に将軍家斉(いえなり)の太政大臣昇進、世子家慶(いえよし)の従一位(じゅいちい)昇叙の式が行われたとき、轅(ながえ)に乗って登城して人々の耳目を驚かせた。四月に入って、許可なくして轅を用いたのは不束(ふつつか)であるとして信順は逼塞(ひっそく)を命ぜられ、これをとがめなかった大目付・目付・小人目付らは、お目見(めみ)え差し控えや押し込めに処せられた。
津軽家では、轅は寧親のときに近衛家から贈られたものであることや、四位になれば束帯のときには轅を用いて差し支えないものと考えていたと答えたが、文化八年(一八一一)に寧親が轅の使用方を幕府に伺いを立てて不許可になった先例もあり、津軽家の手落ちは明らかであった(児玉幸多『日本の歴史 一八 大名』一九七五年 小学館刊)。このような事情から津軽家は、逼塞(ひっそく)処分に追い込まれたのであり、結果的には秀之進の目的は達せられたということになろうか。
図163.轅の図
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