天保期の農村荒廃が天明期と異なるのは、飢饉による流出が一時的なものでなく、在所への立ち帰りを希望しない、永住的な移動がそれ以前の飢饉よりも多くなった点である。江戸への人口集中がもたらす弊害を断つために、幕府が寛政の改革(寛政二年の旧里帰農令(きゅうりきのうれい))、天保の改革(天保十二年の人返し令)の際にそれぞれ人返しの法令を出したことは有名であるが、天保の飢饉でも多くの奥羽の百姓が江戸へ流入し、故郷へ帰ることができない者は都市の最下層民となっていった。
さらに蝦夷地の幕領化・産業開発に伴い、津軽領を含む奥羽の人々の蝦夷地への出稼ぎ・移住が盛んになった。幕府は蝦夷地警備の人員はもちろん、開発の労働力も津軽領・南部領に頼っており、藩も領民の蝦夷地渡航に表向き反対できない状況にあった。長男はともかくとして、百姓の次、三男ともなれば、たとえ在所に帰り苦労して荒廃田の再開発に従事しても、再び年貢や諸役に追われることになる。それよりも、手っ取り早く現金収入の道が得られる都会や蝦夷地への出稼ぎの方がよほど望ましいことであった。人口の移動とそれに伴う農村の荒廃は、飢饉のあるなしにかかわらない、貨幣経済の進展に伴う構造的なものであったといえる。特に天保の飢饉後は、合法・非合法を問わず、蝦夷地に向かう人々が急増した。
松前稼ぎには、鯡場(にしんば)稼ぎに代表される漁場労働のみならず、箱館・松前など都市部における「飯炊并勤奉公」・茶屋奉公・売春などの稼ぎも相当数あり、また、松前のブローカーと結託して、女性を拘引(こういん)同様の方法で斡旋(あっせん)する口入れ屋まがいの藩士もいたことが明らかにされている(坂本壽夫「幕末弘前藩における経済諸資源の移動について」『青森県史研究』三)。
天保元年(一八三〇)、藩は松前渡海に関する規定を設け、領民が渡海しようとする時は湊口(みなとぐち)改めを受けることとした。町方は町名主、在方は庄屋が発行する印形(いんぎょう)を湊口の問屋を経由して湊目付に提出し、改めを受けた証拠に切手を発行することを定めた。そして松前から帰帆の際は、この切手によって身分を照会するものとした。また、鯡場稼ぎに行くのは下層の百姓が多いが、農事に支障が出ないよう、願い出の際は村役が詳しく吟味を加えることなどが定められている。しかし、藩の取り締まりは不徹底で、出奔(しゅっぽん)・家出という形で不正に渡海する者も少なくはなかった。このような他領への人口の流出は安政の開港の後さらに激しくなる。しかし、同時期に藩は蝦夷地の再幕領化に伴い多数の藩士の派遣を余儀なくされており、海岸の取り締まり能力が低下して、不正な領民・物資の一層の流出に拍車をかけたといわれる(坂本前掲論文)。