政争の激化と第三次改革

300 ~ 302 / 767ページ
山田登らはやがて同調者を集め、藩首脳の失政を挙げ連ね、明治三年(一八七〇)四月には弘前に民情視察に来ていた民部省監督権正岩男俊貞(ごんのしょういわおとしさだ)に直訴に及んだ。事の重大さを認識した岩男はすぐさまこれを按察使府に報告したため、弘前藩は藩治に問題ありとして再度同府の指導を受けることとなった。こうして、三年六月七日、按察使府次官菱田重禧(しげよし)(後、青森県権令)が弘前に到着し、藩知事承昭(つぐあきら)、首脳、反対派に次々と面会し主張を聞いていった。反対派が挙げる項目とは、首脳部が一時奥羽列藩同盟に参加しようとしたことの罪がいまだ不問であること、人材登が不公平なこと、明治二年中の租税取り立てが不条理であること、および藩知事承昭を廃立する動きが首脳部にあること、等々であった(『弘前藩記事』明治三年六月十日条)。六月十日、菱田は城中に両派を招いて対決させ、その場で弘前藩は維新の殊功藩であるから、これまでの藩内騒擾(そうじょう)については不問にすること、反対派の唱える条々はまったくの巷説(こうせつ)にすぎないとして、弾劾状をその場で火中に投じ、反対派を封じ込めたのである。
 ただ、首脳部を支持したかわりに、菱田は停滞していた弘前藩の藩政改革の徹底した推進を求めた。六月十八日に再び藩知事承昭は告諭を発布したが、その中で自分は朝廷家臣であり、改革が進まないと官職も取り上げられると述べている。実はこの認識こそ幕藩体制から朝藩体制への転換を示しており、藩知事でさえ非世襲の一官職として位置づけられたことを意味している。
 改革の具体的施策としてまず菱田が藩に示唆したことは大幅な減禄であった。これは表23のように高家禄の者ほど削減率が大きいが、低家禄の者への影響が少なかったというわけではない。もともと家計が苦しい彼らにとって、わずかな減禄でもそれは生活の破綻(はたん)に直接つながった。よって、主にこの減禄分を補填(ほてん)する目的で実施されたのが同十月から開始された帰田法であった(帰田法については本章第三節二を参照)。
表23.明治3年6月家禄削減一覧
元の家禄改正家禄削減率
800俵以上200俵最低75%
500俵以上150俵最低70%
250俵以上100俵最低60%
100俵以上 80俵最低20%
 70俵以上 60俵最低14.3%
 50俵以上 40俵最低20%
 30俵以上 30俵最大25~0%
 20俵以上 20俵最大33~0%
 15俵以上 15俵最大30~0%
注)ただし,勤料・賞典禄は削減の対象外。「弘前藩記事」明治3年6月18日条(弘図八)より作成。

 また、この改革によって藩庁組織は表24のように改められたが、部局は大きく藩庁民事局軍事局学校に分かれ、下部機関として監正会計営繕租税通商庁訟山林記録輜重(しちょう)・督学などがそれぞれ機能することとなった。そして、藩庁首脳部も表22の明治二年十月十日時「その他」、および明治三年十二月時「正権大属」の欄からわかるように、先に落選した津軽済の他にも、番方の高級藩士であった津軽平八郎佐藤源太左衛門戸田清左衛門らが、反首脳的態度や老齢を理由に無役入とされ、代わりに三〇俵台という少禄の者でも、実務に精通した新鋭が登され、世代交代は大きく進んだ。
表24.明治3年6月改革時藩庁組織
正四位従四位正五位従五位正六位従六位正七位従七位正八位従八位正九位従九位大初位少初位


知事大参事大参事少参事少参事大 属権大属少 属権少属史 生庁 掌
公議人公用人監正上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
会計上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
営繕上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
書 記権書記


少参事少参事大 属権大属少 属権少属史 生局掌
租税上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
通商上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
庁訟上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
山林上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
庶務掛上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ


少参事少参事大 属権大属少 属権少属史 生局掌
記録上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
輜重掛上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
器械掛上ニ同シ上ニ同シ上ニ同シ
兵学教授兵学助教兵学副助教兵学教授兵学助教

少参事少参事大 属権大属少 属権少属史 生校掌
督 学教 授助 教副助教
小学教授小学助教
(注)資料近世2No.五八三より作成。

 さらに、この組織が従来と大きく変わった点は、各部局にはいずれも藩庁から正・権少参事が係り役人として配属されており、すべての指令は知事大参事少参事を通して末端まで浸透する仕組みになり、より中央集権的色彩を濃くしたところにある。こうして、弘前藩の職制も朝廷の指示する藩治職制に徹底的に対応した組織に改編されたのである。