伊勢参り

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伊勢神宮は、慶長七年(一六〇二)、城内に「太神宮」として神主惣宮太夫久長に祀らせ(資料近世1No.一五一)、寛永四年(一六二七)、天守閣焼失の際に信枚が現在地へ移させた。伊勢神宮では伊勢御師(おし)が、全国の檀那場を回り、大麻を配って伊勢信仰の宣伝に努め、伊勢参りの案内や太々神楽を納めた。寛永六年、信枚が供米二〇石を寄進し、天和元年(一六八一)、御師三日市太夫次郎が弘前に来ているが、それ以前にも御師の代人沢山仲道が訪れ神楽料を受け取っていた(小館衷三『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』一九七三年 津軽書房刊)。

図245.三日市太夫次郎秀孝書状

 伊勢参りについては、寛永十一年、藩庁から出発・到着の届け出を庄屋へ提出するよう義務付けているので、すでに相当数の伊勢参りが行われていたことがわかる。元禄二年(一六八九)、町年寄松井四郎兵衛神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門町人藩士の代参として伊勢神宮へ出かけ、帰途、江戸屋敷藩主から御目見(おめみえ)を許され、伊勢参りの労をねぎらわれた。宝永三年(一七〇六)には領内の五穀成就を祈らせるため、寺院を除いて、藩士を含めた全領民に一人一五銭の初穂料を課した。翌年、町方よりは町年寄松井助右衛門在方よりは榊村庄屋杢右衛門が伊勢へ代参に出かけ、太々神楽料五〇両と神馬料等を納めた。伊勢参りに個人で出かけるには負担が大きいので、藩では領民より徴収した金で代参させた(資料近世2No.四五二・四五六)。領内経済が苦しい時は隔年で代参させたり、不参の時は地元で神事を行った。各地で伊勢講・代々講が組織されたが(『永禄日記』)、享保六年(一七二一)、庄屋宅に宿をとった伊勢の御師から神明宮の話を聞き、講中より三両を納めることになった(同前)。宝永二年(一七〇五)には伊勢参宮の女人の関所通行が停止され、女人の伊勢参りは禁止となった。ところが、正徳二年(一七一二)、大津屋清十郎からの母親の伊勢参りの願い出については、町奉行が許可を与えた例がある(資料近世2No.四五一・四五三)。
 伊勢参りの途中、病に倒れ死去することもあった。元禄十四年(一七〇一)、伊勢・高野へ参詣の帰り、葛野村(現南津軽郡藤崎町)の農民仁左衛門(六十五歳)が、福井城下の松本町尾張屋で病死した。同行の女房の話と所持していた川龍院(曹洞宗)の寺請証文から、近くの曹洞宗鎮徳寺(現福井市)に頼んで土葬にし、女房は福井藩から秋田までの関所手形が与えられて帰国した(「国日記」、「鎮徳寺過去帳」)。また、正徳五年(一七一五)荒町の善兵衛(六十一歳)が、伊勢・高山へ参詣の帰り、桑名宿で病死し、海蔵寺(曹洞宗、現桑名市)に土葬された。所持品には寺請証文のほか、伊勢神宮のものとみられる「御祓(おはらい)」が記されている(資料近世2No.四五五)。『御用格』(寛政本)には、他領で死去した一八例のうち、伊勢参りの者の四例が記されている。幕府の生類憐みの令は、対象が捨子・旅人・病人も含まれ、その影響が全国に及び、諸藩の取り扱いも丁寧であった(元禄元辰年「旅人取扱并牛馬等之儀ニ付廻状」『徳川禁令考』一九五九年 創文社刊)。津軽領で他領の者の死体を取り扱う場合も同様で、前掲『御用格』に一九例がみられる。

図246.川龍院寺請証明の江戸日記記事
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