図245.三日市太夫次郎秀孝書状
伊勢参りについては、寛永十一年、藩庁から出発・到着の届け出を庄屋へ提出するよう義務付けているので、すでに相当数の伊勢参りが行われていたことがわかる。元禄二年(一六八九)、町年寄松井四郎兵衛と神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門が町人と藩士の代参として伊勢神宮へ出かけ、帰途、江戸屋敷で藩主から御目見(おめみえ)を許され、伊勢参りの労をねぎらわれた。宝永三年(一七〇六)には領内の五穀成就を祈らせるため、寺院を除いて、藩士を含めた全領民に一人一五銭の初穂料を課した。翌年、町方よりは町年寄松井助右衛門、在方よりは榊村庄屋杢右衛門が伊勢へ代参に出かけ、太々神楽料五〇両と神馬料等を納めた。伊勢参りに個人で出かけるには負担が大きいので、藩では領民より徴収した金で代参させた(資料近世2No.四五二・四五六)。領内経済が苦しい時は隔年で代参させたり、不参の時は地元で神事を行った。各地で伊勢講・代々講が組織されたが(『永禄日記』)、享保六年(一七二一)、庄屋宅に宿をとった伊勢の御師から神明宮の話を聞き、講中より三両を納めることになった(同前)。宝永二年(一七〇五)には伊勢参宮の女人の関所通行が停止され、女人の伊勢参りは禁止となった。ところが、正徳二年(一七一二)、大津屋清十郎からの母親の伊勢参りの願い出については、町奉行が許可を与えた例がある(資料近世2No.四五一・四五三)。
伊勢参りの途中、病に倒れ死去することもあった。元禄十四年(一七〇一)、伊勢・高野へ参詣の帰り、葛野村(現南津軽郡藤崎町)の農民仁左衛門(六十五歳)が、福井城下の松本町尾張屋で病死した。同行の女房の話と所持していた川龍院(曹洞宗)の寺請証文から、近くの曹洞宗鎮徳寺(現福井市)に頼んで土葬にし、女房は福井藩から秋田までの関所手形が与えられて帰国した(「国日記」、「鎮徳寺過去帳」)。また、正徳五年(一七一五)荒町の善兵衛(六十一歳)が、伊勢・高山へ参詣の帰り、桑名宿で病死し、海蔵寺(曹洞宗、現桑名市)に土葬された。所持品には寺請証文のほか、伊勢神宮のものとみられる「御祓(おはらい)」が記されている(資料近世2No.四五五)。『御用格』(寛政本)には、他領で死去した一八例のうち、伊勢参りの者の四例が記されている。幕府の生類憐みの令は、対象が捨子・旅人・病人も含まれ、その影響が全国に及び、諸藩の取り扱いも丁寧であった(元禄元辰年「旅人取扱并牛馬等之儀ニ付廻状」『徳川禁令考』一九五九年 創文社刊)。津軽領で他領の者の死体を取り扱う場合も同様で、前掲『御用格』に一九例がみられる。
図246.川龍院寺請証明の江戸日記記事
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