1巻 元

   
凡例
 
弘化4年(1847)丁未3月、私はこの月の御用を承って、辰の刻(午前8時)に出勤し、未の刻(午後2時)に鎌原石州と代わって帰宅し、酉の刻(午後6時)にまた出勤して丑の刻(午前2時)に帰宅しました。4月になっても申合せてそのようにしていました。4月13日の水害の後は、夜の出勤は止め昼だけになりました。その後の帰宅は定刻ではなく未(午後2時)から酉の刻(午後6時)に帰宅しておりました。この日記は、帰宅後裏庭の小屋で日が暮れるまでの暇をみて、後の参考になればと、思い出すままを書き付けたもので、もともと下書きをしたものでもないので、文もたいへん拙いのですが、校合もせずそのままにしてあります。
   
むし倉日記と名づけたのは、今回の地震で虫倉山のあたりの村々の被害が特に甚だしかったのは、別にお届けを出した通りですが、あれこれ思い合わせてみると、地震の来た方角もこの方角にあたると誰もが言っておりますので、それならばこの山がきっと地震の震源であったのだろうと、一人ふと思ったままに、このような題をつけたもので、外に特別な理由はありません。
 
 ◯下巻より後に記録すべきこともたいへん多いのですが、小屋から家の方に引き上げてからは、公私ともに忙しく、筆を執ることが難しくなりました。いつか書き足しておこうと思いながらその暇もなく、そのうちには忘れてしまうことも多く、ここで終わりにしました。残念なことです。
 
◯前に申した通り、私はこの月の御用承りでしたので、このたびの一件の記録数冊の下書きをを家に置きました。
園柱誌
 
虫くら日記 元
   
3月24日夜、亥の刻(午後10時)少し過ぎに大地震が起こりました。急いで登城しようと、「非常服を出せ」などと言う間もなく、行灯が揺れて消え、どうしたらいいだろうと、まず上の間によろめき出る間に3度も転倒しました。表から吉沢兵左衛門がろうそくを灯して来たので、足を踏ん張って支度をし、障子を押し開いて星明かりに透かして見ると、霧か煙のようなものがあたり一面を覆っていました。後から考えると、南の塀が倒れたのと、土蔵の土がはたはたと落ちかかる土煙でした。さて、東から北にかけて、がらがらみしみしという物音が聞こえ、肝を冷やすほどの凄まじさでした。これは伊勢町・中町・肴町あたりの家の倒れる音でした。表の部屋に出ると、戸障子がみな外れており、これを踏み越え乗り越え玄関に走り出ると、勘定吟味の片岡此面(このも)が参りました。外の方はどんな様子かと尋ねると、馬場町からここまではたいしたことはない、先ほどの物音からすると町の方では多くの家が潰れたであろう、との答えでした。それでは、お城もどうなってしまったろうと、気もそぞろに駈けて行くと、大目付の海野蔵主の玄関も長屋も潰れて、星空が見えておりました。望月貫忠子の新屋敷の塀、鎌原伸佑の門から東の塀、中老玉川左門の南東へ折れ曲がった塀、奏者池田大内蔵の塀も倒れていました。余震が絶え間なく揺れ続けて、恩田貫実子の門なども今にも倒れそうでたいへん危険な状態でした。大御門に着くと、まだくぐり門ばかり開けて大門は閉ざしていました。すぐに開けるように指示しましたが、先ほどの大揺れで御門が傾いたのか開けられないとのことでした。それならば仕方がないと、そこを駆け抜け中ノ口に行くと、玄関の庇はすでに崩れ落ちていました。政堂まで行くと貫実子は早くも登城しておりました。殿(真田幸貫)はどうなさっておられるかと御次の間に行くと、お庭に避難されてご無事であると聞き、少し安心して、急いでお庭に走り下りてご機嫌を伺いました。また政堂に戻りますと、役人たちが次々に出てきて、殿のご機嫌を伺いました。私はこの月御用奉(うけたまわ)りなので、いつもの席に座りましたが、(余震で)揺れるたびに壁土がはらはらと落ちかかるので、一畳ずらして座りました。さて次々とくる報告によると、町方では多くの家が潰れ、多くの死者もある様子で、また家に埋もれて泣き叫ぶ者も多く、すぐに救出してくれと申しますので、諸役人を呼び出して、人々の救出と防火についてそれぞれ指示を出し、また江戸への早飛脚を申し付けて、御用状をしたためて渡したのは、丑の刻(午前2時)を過ぎる頃でした。それまでも幾度となく鳴動しては揺れ続けるので、大書院の庇の瓦ががらがらと崩れ落ちました。このように揺れ続けていてはお城も危ない、馬場に出ようと言っているうちに、座敷見廻りの宮入多平がいつもの機転で、葉桜の下に「間操」を敷いたので、みなこの席に車座になりました。時折あちこちで火の手が上がり、西の空がたいへん赤く見えたので、土手に出て眺めると、西山手から北山手まで七カ所ほど猛火が盛んに上がるのが見えました。このうち北の方の善光寺と思われる辺りと、清野山を越えて稲荷山の辺りと思われる火は、とりわけ範囲も広く激しいものでした。その外は明け方までにはだんだんと消失しました。(後に皆神山和合院が語ったという話によると、そのとき二十か所ほどに火が見えたとのことです。)先に賄いの炊き出しをせよと役人に申し付けてあったため、御馬場の二か所に火を焚いて大釜で飯を炊いていたので、西の土手までも真昼のように明るくなっていました。ほどなく明け方になりましたが、余震は止むことなく揺れ続けて、夜明けまでに200回にも及んだと思われます(大きな音で鳴動して揺れる時もあり、また鳴動なしで揺れる時もありました)。
   
◯25日朝から立て続けに強く揺れて止むことがありません。雨の気配はあるけれど降り出さないので、せめてものことと皆それぞれに思っていたようでした。我が家の様子も気がかりなので、辰の刻少し過ぎる頃、貫実子にしばらく頼んで帰宅しました。夜中にはたいしたことはないと思っていましたが、我が家もひどく破損しており、土蔵3つがひどく壊れ、一棟は今にも崩れそうで、また裏門も倒れ、それに続く塀も皆倒れておりました。その外、所々塀の倒れた箇所が30間ほど、表の方の壁の割れた所、落ちた所もおびただしくあり、家は北へ8、9寸傾いた所もあり、南へ一尺も傾いた所もあり、まったく見るも恐ろしい様子でした。妻は鎮守の前の、少し筵で覆った狭い粗末な小屋に下女2人とともにおりました。左京と義男は先日から野沢の温泉に行っておりましたが、あの辺りは地震はどうだっただろう、早く帰ってほしい、などと思っていると、妻もこのことを言い出して、すぐに迎えの人を送ろうと、同心の銕治と喜兵衛とを選び出しました。お城にいた時に聞いた報告では、山中で土砂崩れがあったらしく、犀川の水が次第に涸れて、今朝寅の刻(午前4時)頃には膝にも届かないほど水が減り、子供でも歩いて渡れるとのことでした。それではあの大河が一時にせき止められたのか、ならば中野を通って戻っては水が溢れたら危ないだろう、湯田中へ山越えして須坂へ出て戻れなど、言う言葉を教えて、巳の刻(午前10時)頃出発させ、またすぐ登城しました。土手に出て眺めると、善光寺の火煙はますます激しく、一方は三町の方へ、もう一方は後町の方へ焼け広がっていく様子でした。防火のための人員を差し出すようにとの仰せがありましたが、町方の家の倒壊や圧死者も少なくはなく、いまだ掘り出されずにもがいている者もいるなどと聞いて、捕吏までもみな救出のために駆り出しているほどなので、火消しのために人を遣りたくても人手がない状態でした。そこでまず御使者だけでもと、夫役奥村権之丞に申し渡し、また定火消の前島源蔵に道橋の係の者と話し合わせ、印鑑で途中で村人足を集め、4、50人連れて行き消火に当たれと言い含めて、出して遣ったのが正午過ぎのことでした。2人はこの夜の四つ(午後10時)頃に戻って来て申すことには、大勧進の方々は毘沙門山(城山)に避難し、如来も裏手へ運び出した、本堂・山門は残り、大勧進は潰れて残り、大本願上人の方は跡形もなく焼失した、道々村人足を集めたが、誰も皆家を失い、あるいは怪我をし、あるいは善光寺の火煙に怯え狼狽して、一人来れば一人逃げ、いくら促しても人足が集まらず、ただ御口上を申し上げて帰って来たとのことでした。それでは仕方がないと、公事方に言って、手付同心に、道々人を集めて行き、消火と圧死者の掘り出しなどさせよと申し付けました。また貫実子の部下から郡方(こおりがた)に言って、寺領役人と相談して炊き出しをさせるようにと言い含められました。勘定役のなにがしが参りました。この日の忙しかったことについてはとても書ききれず、書いてもくどく、煩わしいことです。今日も強い地震があり、また鳴動ばかり強く揺れの小さいものもありました。暇のある者が記録したところ、200回以上あったとのことです。この時から4月の半ば過ぎまで、昼夜に100回を越えない日はありませんでした。この夜亥の刻(午後10時)頃から雨が降り出しました。石州子は病気のため昨夜は来られませんでしたが、この夕方出勤しました。
   
◯お城は所々破損しており、大御門は傾き、鯱は片方落ち、番所は半壊、御本丸では多くの塀が倒れ、石垣は所々石が抜け落ちたりはみ出したりしています。辰巳の櫓は崩れ、上の水の手の前の社倉は潰れ、中の水の手の番所も潰れました。百間堀の南から中の水の手の下まで、泥が揺れて持ち上がっているところが2、3尺あり、水は左右に分かれて流れています。文政の時に新しく築いた水よけの土手は60間ほど崩れ、土手の上には7、8寸の割れ目が下まで長く通っています。中の水の手御門から我妻番所の辺りまで5、6寸から8、9寸の地割れができ、中の水の手の外の杉林の中にも4、5寸から6、7、8寸の地割れが幾筋かついています。下の水の手の地割れは御門の外に出て、次第に割れ目が広くなり、その先麦畑に入って幾重にも分かれて、2、3尺も3、4尺も強く揉んだように段差ができ、陥没しているところもあって、ここからこの地割れは西寺尾まで続いているとのことです。引橋御門の外のお堀も泥が高く突き上げられて、干潟になっています。神田川の向こうの麦畑は3尺ほど陥没し、この土が百間堀に突き上げられたものと思われます。
 
◯御蔵屋敷も所々傾き傷んでおります。評定所は寛保の洪水(1742年)の時に水が入ったままで、次第に老朽化し傷んで、8、9年以前よりご普請の要請がありましたが見合わされ、そのままになっておりましたが、少し傾いたくらいで、それほど傷んではおりません。厩(うまや)はひどく傾いて今にも倒れそうになっておりましたので、馬を本丸に引き入れ、後に小屋を建ててそこに繋いで置きました。4月になって厩の修復ができた後に、厩に戻りました。伊勢町の御使者宿も大きく傾き、柱が5、6本折れました。
   
◯舞鶴山の御宮(白鳥神社)は特に別状なく、夜灯さえ倒れませんでした。総じて馬場町から上代官町竹山町・柴町・裏柴町・四ッ谷・あら町・松山町あたりはすべて地震は弱いものでした。
 
◯長国寺御霊屋は残らず歪み壊れ、御石碑は残らず倒れて、御位牌堂の門も倒れました。御霊屋の御位牌は長持に入れて住職が守っております。(ご代参の者も初めは住職が御位牌を守っている仮小屋へ非常服で勤め、地震が止んだ後は本堂に飾って、上下(かみしも)でお勤めをしました。ご修復が皆完成するまでこのようにしておりました。)本堂もひどく傾き、所々破損して手のつけようもないほどであると、検分の者が申しておりました。禅堂は最近あのように丈夫にご普請しましたが、ひどく傾き、所々破損して西の方の柱が2本折れ、回廊も残らず倒れました。
 
◯堂島往来にも7、8寸から1尺くらいまでの地割れができました。また御裏通りの畑も所々割れて泥水が噴き出し、おびただしい数の軽石が吹き出したところも多くありました。これは昔、千曲川が(このあたりを)流れていた頃寄り集まったもののようです。また、川田・福島の辺りはとりわけ地割れが多く、泥水を噴き出し、福島の町では泥水が往来する者の膝まで浸しているとのことです。
   
◯26日の夜、善光寺の火災は漸く消えました。お城の土手から望遠鏡で見ると、まるで河原のようになって、その中に山門と本堂ばかりが残って高く聳えています。大勧進へお見舞いとして白米30俵、椎茸5斤、干瓢70把を下され、長井主計が命を受けてお使いを勤めました。
 
◯加賀井村焚湯の傍に常にぶつぶつと湯の沸き立つところがあって、24日の大地震の時、6尺ほど泥水を噴き出し、25日朝は3尺ほどになり、26日の朝頃からは5~7寸にまでなって、その後はだんだん元の通りになったと、右筆の高野藤十郎が語っておりました。
 
◯小市の真神山は70間ほど崩れて犀川に落ち込み、普段は80間余りあった川幅が14、5間しかなくなっています。それより下流でも8、90間の島が隆起しました。小市山が2、3丈も低くなったということで、その土が揺れて押し出されたものでしょうか。犀川御普請所もかなり崩れ、この辺りは所々地面に段差ができ、畑のように盛り上がった田があったり、また陥没した畑もあるとのことです。これと同様に御普請所の石積みも、あちこちででこぼこになっているそうです。
   
犀川をせき止めたのは、山平林村と安庭村との間にある虚空蔵山、一名岩倉山という山が2つに割れて崩れ落ちたもので、西は山平林の孫瀬組、岩倉組を押し崩して、数十丈の土砂と岩石で犀川をせき止め、東は安庭の藤倉組を押し崩して、川をせき止めました。この間およそ10丁であるということで、別に図にした通りです。岩倉の土砂崩れの方は、5、6間あるいは7、8間、10間もある大岩でせき止められており、とくに10丁ほどの間をせき止めているので、いくら水がたまっても流れ出すことはあるまい、高い滝になって徐々に流れ出しても、当面川中島の方は心配あるまい、など様々に噂をしております。
 
◯26日に夫役山越嘉善と城詰上村瀬平を選んで、岩倉山の土砂崩れの現場の状況の検分に遣わしました。28日にも目付の斎藤友衛と上村瀬平を再び送りましたが、この2度の検分は虚空蔵山の頂上から眺めただけなので、書き記すほどのはかばかしい成果もなく、書き記すほどのことはありません。27日に目付矢野茂・同加役石倉嘉大夫が徒歩で徒士森五十三・館文之助を伴って行き、土砂崩れが川をせき止めた場所まで下りて間縄(けんなわ・測量に使う縄)を打ち、詳しく検分しました。茂は28日に犀口の貫実子の陣所にその結果を報告し、五十三と文之助は先に戻り、嘉大夫は後から戻って報告をして、この時点で初めてその詳細を知りました。これより先に公事方同心の安兵衛・繁三郎の2人もよく検分をして来て、安庭村へ下る峰は山が左右に崩れ落ちたため、幅が2尺くらいに狭まっている所もあるとのことでした。
   
◯27日、貫実子が役人らを率いて犀口の御普請所に出張しました。これは、山平林のせき止め箇所が一度に決壊したら川中島はもちろん、お城も危ないだろうとの話し合いの結果、真神山の土砂崩れを掘り広げ、また新たに急難防止用の土手を築かせるために、一晩野宿するつもりの出張でした。中島川北の住人たちは上流がせき止められたことを恐れて、10人中8、9人は食料や世帯道具を運んで散り散りに山中に逃げた様子なので、この者たちを(人足として)集めようということで、公事方山寺源太夫は柴・金井山から関崎・保科辺りの山々へ逃げ込んだ農夫たちを説得して、犀口に出るようにと促し、勝手評議役岩下革は西条・欠・赤芝・平林・桑根井・牧内・東条・加賀井などの山へ逃げ込んだ者たちを駆り集めて、犀口に向かいました。収納方磯田音門は清野・岩野・土口から西山手に逃げ込んだ者たちを説得して、普請所に出ました。貫実子は大馬印の五布の吹貫(ふきぬき)と小馬印の馬簾(ばれん)を持たせて、非常服で出発されました。(土手から望遠鏡で眺めると、吹貫が整然と風に翻って見えました。)この吹貫を目当てにあちこちの人足が寄り集まるようにするためです。この日、貫実子と役人たちの労をねぎらうために、側用人岩崎勝介にお薬と酒5樽を賜りました。勝介は荷馬の来るのを待って、出発したのが申の半ば(午後5時)にもなっていたため、小松原近くに至ったときは早くも日は西の山に沈んでおりました。道には地割れが多く、ことさら土地に不案内なため道を間違えて谷川に乗り入れ、ようやく本道に出たところ、数百人の人足が、「たった今、川が決壊して水が押し出しました。お逃げなさい。かなうもんじゃない。」と口々に言い捨てて、転けつまろびつ逃げて行きました。これを見て樽を載せた馬の馬士も、「命あっての物種です、ご免下さい。」と言う間もなく、樽を降ろし馬に鞭打って逃げ戻ってしまいましたので、どうしようもなく、小松原の役人を呼び出して樽を預け、逃げてくる人の中を押し分けかき分け、貫実子の陣所に着くころは、亥の刻(午後10時)近くであったとのことです。勝介はまだまだかくしゃくとしたもので、人足たちの動揺に驚かされず、自若として主君の命を果たしたのは、賞賛すべきことです。(戻ったのは丑の刻(午前2時)過ぎでした。私は休息のために戻り、その途中でこの話を聞きました。)
 
◯人足たちのこの動揺は何が原因だったのかと後になって聞いたところ、その夜北風がとりわけ強かったところに、風の合間に鉄砲のような音が真神の方から聞こえ、あるいはさわさわと音が聞こえたのは、真神が少しずつ崩れる音だったのか、そのうちにとりわけ強い響きが鳴動のように聞こえたので、怯えていた者たちが、「そら、決壊だ、水が出るぞ」と言うより早く、止める間もなく一時になだれを打って逃げ出したとのことです。
   
◯同じ夜の戌の刻(午後8時)を過ぎる頃、川中島の所々で早鐘が聞こえ、とりわけ西寺尾村の早鐘が手に取るように聞こえたので、さては失火かと土手に出てみると、灯火が2、30見えました。どうしたことだ、など言ううちに、小森・東福寺の辺りから柴村の方までびっしりと続いて、幾百とも知れない灯火が見え、呼び叫ぶ声は微かではっきり分からないけれど、風に乗って聞こえる声は「水だ、水だ」と言っているようすでした。さては岩倉のせき止められた水が決壊したか、と言う間もなく、西寺尾の方からも堂島の方からも灯火が引きも切らず、水が出た、逃げろ、助けてくれ、と人々が押し寄せて来ます。このまま御城下に入って来たら、町の者も家中の者も動揺するだろう、馬喰町口と寺尾口に出て人々を止めなさい、と目付の者たちに申し付けて、彼らが出て行った時にはもう、馬喰町にも寺尾口にも御厩町にもことごとく人々がなだれ込んで喚き立てたので、町も家中も上を下への大騒ぎになり、馬場町・代官町・柴町などへ、あるいは山手へ逃げて行った者もおびただしい数に上ったといいます。このためお城の中でも動揺が広がり、どのように制しても止みません。そこへ城番小頭の伊木億右衛門と我妻倉田熊作、駒村彦三が下の水の手の方から来て、「ただ今犀川の水が決壊して川中島に出水しました」と言いました。私が「水の来たのを見たのか」と聞くと、「そうではございません。西寺尾村まで行きますと、幾百とも知れぬ人々が続々と、老人を背負い、幼児を抱きかかえ、泣き叫び、転けつまろびつ参りますので、人ごとに聞いたところ、大洪水だというので、ご報告いたしました」と申します。「それでは心許ない。もう一度行って、水を見たら報告しなさい。すぐ行ってくれ」と言い聞かせ遣わしました。しばらくすると倉田熊作一人が戻り、「ご注進、ご注進」と呼ばわり、御馬場の仮屋の前にうずくまって、「水です、水です」と叫ぶので、「それでは水を見て来たのか」と聞くと、「そうではございません。寺尾の渡し場の辺りまで参りましたところ、犀口御普請の人足が大勢駈けて来て、「大水が一時に押し寄せて来たと聞いたので、道具を捨てて、ここまで逃げて参りました」と、息せき切って申しましたので、御普請の人足の言うことだから間違いあるまい、まずこのことをご報告申し上げろと、億右衛門と彦三が申しますので、帰って参りました」と言います。「これもまた、心許ないことだ。億右衛門と彦三はどうした」というと、彼ら2人は、水の来るところまで行って見届けてはいないとのことでした。「それならそれでいいから、その幕の陰に控えていなさい。決して動くなよ」と留め置きました。(これは少し動揺も収まっているので、この者を遣わしたらまた騒ぎ立てて動揺するであろうことを恐れてのことです。)またしばらくすると柘植嘉兵衛が来て、「ただ今、部下が丹波島より戻り、洪水が押し寄せるのは間違いないと報告いたしました」と申します。「今もそれを言っていたのだが、その者は水が来るのを見たのか」と聞くと、これもまた人足の言うのを聞いての報告であるといいます。それでは信じられない、本当の報告を聞きたいものだと待っているうちに、億右衛門と彦三が戻りました。どうだったと聞くと、「氷鉋より向こうまで行きましたが水が来ることはなく、瀬鳴りの音も聞こえませんでした。土地の者に尋ねたところ、「最初、水が来た、水が来たとと大げさに騒ぎましたが、水は今になっても来ません。流言だったのでしょう」と申しますので、丹波島まで行くのも意味がないとことと思い、引き返して来ました」とのことでした。これで人々はやや安心し、しばらくするうちに御城下の動揺も止みました。
   
◯28日、今日も貫実子のもとに、様子を尋ねるために取次夫役兼任の横田甚吾左衛門が遣わされ、今夜四ツ時(午後10時)に戻りました。両日とも多くの人足が出て、川を浚(さら)い堤防を築き、一人で2、3人分の働きをする者も多かったそうです。ご他領からも、招いたわけではないのに多くの人が集まり、ことに上氷鉋の松平飛騨守の知行所の代官東福寺源太夫などは、数十人を引き連れて出られ、自らもよく働いたとのことで、この後4月3日、7日、11日と出られました。その間は役人らが詰め通しで指揮をしました。横田甚吾左衛門は、使者を務めた時、気付いたことがあると貫実子に申しましたら、それならばということで、人足の始業終業の合図の役につけられました。御手先白棒組10人が、ともに派遣されました。かねて金鼓(陣鉦と陣太鼓)が用意してあり、休憩の合図には陣鉦(じんがね)を鳴らし、仕事開始には陣太鼓を用い、夕方の引き上げには鉦と太鼓を交互に打ち鳴らすようにしたとのことです。
   
◯4月7日、8日頃は山中の辺りをご巡見されるという、かねてからの慣例でしたので、役人らは次々と村々に出張して、御宿のことや道の整備、橋の普請のことなどを指揮しておりました。(大地震の)この日、郡奉行収納方の竹村金吾と道橋奉行の柘植嘉兵衛は鬼無里におり、代官南沢甚之介は椿峰村に宿泊し、代官中島渡浪は念仏寺村におりましたが、父三右衛門の病が重いとの知らせが来たため、24日未の刻(午後2時)頃出発して暮れ時過ぎに戻りましたが、その間、跡に手代の鈴木藤太を残して行きました。(この藤太がひどい目にあって命拾いして戻った事は、たいへん珍しい出来事で、巻末に記してあります。)山中の惨状が次第に伝わってくるので、それでは金吾と嘉兵衛はどうしているだろうか、心配だ、甚之助はどの辺りにいるだろうなどと貫実子と話しながら過ごしていましたが、26日の夕方、金吾と嘉兵衛は無事に戻って来てました。2人とも例の大きな音が遠く聞こえたときは嬉しかったとのことです。詳しく様子を尋ねると、大地震にあった後は外で一夜を明かし、25日に崩れ落ちた道をあちこと迷いながら北東条へ出、野宿して戻ったとのことです。南沢甚之助は椿峰村の高山寺に宿泊していましたが、大地震だ、と思って客殿から庭に飛び降り、裏の山手に出たところ、手代や外の人々もやって来て、林の中で一夜を明かし、翌日出発して崩れ落ちた道を辿り、地割れした土地を跳び越えるなどしてやっとのことで進んで行きましたが、上楠川橋が崩落していて通ることができないので、しかたなくまた椿峰に戻り、高山寺で一夜を明かし、瀬戸川から上野を通り、26日七ツ(4時)頃に帰って来ました。いかにも難儀したと見えて、3人とも痩せたように見えました。(南沢甚之助の書留があるので、巻末に記載しました。)
   
善光寺飯山辺りの地震の様子を聞いたところ、揺れも感じないうちに一時にドンと雷鳴のような音とともに家が押し潰されたそうです。また所によっては揺れた後に潰れた所もあって、一様ではないとも言います。小市の船頭2人が小屋にいたところ、大きな雷鳴のような音とともに、一人は土に埋もれて首だけ出た状態となり、一人は外に逃げ出て村に行き、すぐに大勢の人を集めて来て首だけ出ていた人を掘り出しましたが、やがてこと切れたとのことでした。
 
◯26日の最初の御届けは次の通りです。
私の在所信州松代では、一昨日24日亥の刻(午後10時)よりの大地震で、城内の住居・向い櫓ならびに囲い塀等夥しく破損いたしました。家中の者たちの屋敷・城下町・領地内の村々、その外、支配所の家屋の損壊多数に上り、死者も夥しく、ことに村方では出火もありました。その上山中筋の山崩れが犀川を押し埋めて、水が溜まってしだいに満水となり、もちろん流水はいっさいなく、北国街道の丹波島宿の渡し場では水が干上がってしまいました。さらに、この水の溢れ出し方によって状況がどのように変化するか予測することも難しく思われる上、未だに余震も続いております。詳細は追ってご報告いたしますが、まずは現在の状況をお届け申し上げます。以上。
 月 日
   
◯左京、義男たちは、今日(28日)帰ってきました。これほど遅くなったのは次のような事情によります。野沢も地震は強かったけれど、湯宿はそれほどの被害はなく所々地割れができた程度でしたが、野沢の近くの小菅の池(北竜湖)が揺れによって大水を出して、流された家などもあり、これに遮(さえぎ)られて、山を越えて田中(湯田中)に出ることができませんでした。そこで27日に出発して山越えの道を佐野から更科峠を越え、大熊・桜沢から須坂に出て、そこで一泊して帰って来たそうです。
 
◯大地震の時、強い稲妻のような光が見えて、地震があったといいます。この光は見た者も見なかった者もあって、その後の光は私も3度ばかり見ましたが、稲妻に似て異なり、陽気の現れたものと思われます。
   
◯このような時なので、様々なうわさが多く聞かれました。浅間山が噴火したというものもあり、また越中の立山が噴火したとも、あるいは越後の焼山が噴火したともいい、何れにしても北西から起こった大地震なので、立山か焼山であろう、出所が分かれば少しは心も落ち着くだろうと、いろいろ調べましたが分かりません。後で考えてみれば、他の場所を探さずとも、虫倉山の大被害を見ればそこが震源であるのは知れたことでした。そんな時に鼠宿村の早足の在之助が来ました。この者を越後路に遣ってあちらの国の様子を調べようと山源(山寺源大夫)が言いますので、私もそれはよいと申しました。そこで公事方から富山の類役まで飛脚として遣わしました。後日彼が帰って来た時に書き出した報告は、次のようなものでした。
3月30日夕方八つ時(午後2時)に松代を出発し、その夜牟礼に泊まりました。(六里半)4月1日は能生、4月2日は三日市に泊り、4月3日夕方八ツ時(午後2時)ころ富山に着き、書状を差し出しました。4月4日に立山の麓まで参りました。この道が6里ほどです。同夜は富山に泊まりました。立山は別状なく、この辺りは大地震といっても家の戸の立て付けが悪くなった程度です。信州路の内はもちろん、越後の高田・今町(直江津)は29日の余震で今町の150軒ほどが倒壊したそうですが、昼だったため怪我人はありませんでした。4月5日に返簡をいただき、朝四ツ時(10時)に出発して越中の泊宿に泊まり、6日は今町に泊まり、7日暮六ツ半時(午後7時)に帰り着きました。信州、越後路はともに仮小屋の住居、越中では通常の住居に居りました。富山宿の問屋場に着き、問屋役とともに鹿毛富記宅に参上いたし、書状を差し出しました。返簡の時は役所に出向くようにとの旨、ここで申されました。(役所は)殿町の辺りということで、宿と食事の用意をしていただき、万端丁寧にもてなされました。立山の辺りでは天津川の入山が崩れた様子とのことです。問屋で夕飯後、宿にお見舞いいただきこちらの様子を尋ねられました。詳しくお話ししたところ驚いた様子で、当然少しは噂に聞いてはいたが実際のところを初めて伺いましたと言って、肝を冷やしていました。富山から善光寺まで55里あるということで、ならばお城までは58里、立山までの6里を加えて130里です。30日八ツ時(2時)過ぎに出発し、1日、2日、3日夕方八ツ時(2時)過ぎに富山に着き、4日は泊まり、5日四ツ時(10時)に立って6日、7日の暮れ六半時(午後7時)に帰り着きました。一時あたり3里13丁余りになります。 源太夫
   
○29日朝強い余震があり24日の大地震に次ぐ大きさでした。しかしそのときの半分にも及ばず、御城下では家の倒壊はありませんでしたが、尼飾山の大岩がことごとく砕けて落ちました。その音が大地に響いてぞっとするほどでした。南の方の大岩にも割れ目ができました。
 
◯町奉行から、左のような報告がありました。
(略)
このように先に届けがありましたが、まだ次々と死亡者が増えて、後には32人になりました。私は4月2日に町奉行金児大助の案内で、矢野滋を伴って町方を巡回しましたが、少しばかり片付いただけで、目も当てられない有様でした。
   
◯地震の夜、西木町の女子供らが狭い裏屋に集まって避難し、叫び悲しんでいると妻が聞いて、かわいそうに思って、夜の明けるまで屋敷内に避難しなさいと言ってやったので、皆喜んで庭の裏の方に来てあちこちの菜畑や麦畑、あるいは草むらの中などに隠れて、ござや筵、蓑などをかぶって夜露をしのぎ、また夜着を掛けて眠るなどして一夜を明かしたのは、たいへん哀れであったと語っていました。同心の指物屋周三郎と左京の家来の袋物師の藤作が、馬場を借りて小屋掛けをしたいと願い出ましたので、周三郎に東の方、東(ママ)作にその隣を貸しましたら、喜んで小屋を作りました。袮津神平の家族は、初め池田大内蔵の家族とともに、あら町の矢沢猪之助の別邸の内を借りて小屋掛けし、地震と水害を避けるつもりでいましたが、その場所は大変狭く、その上神平の妻が病気になり、また屋敷も遠く不便なので、彼らも馬場の内を借りたいと頼みますので、西の方を貸しました。(養母死去の時、自宅に戻りました。)
 
◯私の家は鎮守の少し東北の方に小屋掛けしました。初めは大変狭いものでしたが、妻や忰(せがれ)などがいろいろ趣向をこらして、後には8畳、6畳、下陣8畳に下屋(げや)まで下ろし、諸道具を運び込み、長く住めるように、私の留守のうちにしつらえました。しかし床が低く、ことに梅雨時にかかって湿気が多く、これには大いに難儀しました。(5月27日に本宅に引き上げました。しかし昨夜も強く揺れて皆が怖がりましたので、また仮屋を設置しました。)使用人たちが食事をする小屋は、西の方に作りました。鎮守の土手の下に板囲いをして風呂場のようなところをこしらえ、雨の時は傘を差して入浴するなど、後世までの語りぐさです。
   
◯親族の内にも大破した家がありました。中でも貫実子の家は母屋がすっかり傾き壊れて、門も長屋も倒れそうになっています。土蔵もひどく壊れて使うことができず、取り壊されたものもあります。矢沢猪之助の家も大きく破損して、表の方の柱が6本ばかりも折れ、土蔵も2棟は潰れて使えません。玉川左門も母屋が大破し、土蔵も壊れ、囲い塀もすべて倒れました。赤沢助之進の家は、長屋が潰れ、玄関、下屋、土蔵も潰れましたが、母屋は傾いただけです。海野蔵主は長屋と玄関が潰れ、母屋も大破しました。藤田典膳も母屋が大破し、土蔵と物置が倒れました。祢津神平の家も藤田同様、大破しました。十河半蔵の家は壁や天井がすっかり落ちて、家族も一度はこの下に埋まったと言い、簡単な修理では住めない状態です。池田大内蔵は土蔵2棟が大破し、母屋もあちこち壊れ、大熊大太郎は表の方の破損がひどく、柱が一本折れ、土蔵が大破しました。石州子の家では土蔵が少し壊れただけで、母屋は特に被害はありませんでした。田町の同姓の2軒も大破しました。岡野陽之助の家はそれほどではありません。坂野安左衛門は火事の後小屋掛けをしていましたが、それが潰れました。そのほか遠縁の親族も被害のない家はありませんでした。
◯前に記しました山平林のせき止められた水が一杯になったら、そこから滝になってしだいに崩れ、何年かするうちにもとの通りの川になるだろうと言う者もあり、また1年半もすれば決壊するだろう、いや1年、あるいは半年くらいだろうなど、様々盛んに噂しています。また中には、せき止められた場所がとても高いので、田の口(長野市信更町田野口)の方に溢れて、鐙坂を越えて石川村(長野市篠ノ井石川)に水が押し寄せるだろうと言う者もあり、或いは有旅山(長野市篠ノ井有旅)のあたりを押し破って水が出るだろうなど言う者もあります。このように様々な説がありますが、地理に詳しい者は、岩倉のせき止め箇所がいくら高くても水筋はここ以外にはなく、来月の初めには溢れるだろうなどと言っています。10人中9人までは溢れて滝になるだろうと言い、藤倉の方は岩石が少なく土砂が多いので、これは岩倉から水が溢れてたまり、藤倉のせき止め箇所を越えれば崩れるであろうと、誰も彼も言います。私はこの滝のことがたいへん心配なので、横目役の佐久間修理(象山)に占わせたところ、次のように申しました。
 
(略)
 
句読師竹内八十五郎の占いは、
 
(略)
   
後になって思うと、修理の占いはよく当たっていましたし、八十五郎の占いも当たっていないわけではありません。4月に入って北風が強く吹くことがありました。また10日には東南の風が強く吹きましたが、たちまち北西の風に変わりました。まことに激しい風で、木々の若葉がことごとく枯れてしまいました。この時先の地震で傾いた恵明寺の門が倒れ、所々破損した箇所もありました。
ちなみに、10日の大風はあちこちの国で一斉に吹いたもののようです。美濃の大垣なども大荒れで、多くの被害の届けがあったり、箱根辺りなどもひどい荒れ模様であったとのことです。下野宇都宮などもみな荒れたと聞きました。
山中日名、大原(長野市信州新町)の辺りでは高台に家財を運び、小屋掛けして水難を避けておりましたが、小屋とともに家財すべて犀川に吹き落とされたものも多かったといいます。
 
◯御家中の身分の高い者に死者はなく、最近徒士席に取り立てられた久保寺村の太田勘右衛門と、同じく賄役格に取り立てられた小市の塚田源吾の倅が圧死したのみです。足軽には数名死者が出ましたが、これは村々の人別帳に載る者なので、御家人ではありますが御家人を離れています。この時期善光寺御開帳が行われており、行って宿泊していて亡くなった者があってもおかしくないのですが、それさえも一人もありませんでした。これも君主のご徳義のひとつと言えるでしょう。松本藩のある人は開帳参詣のために泊まった宿屋で圧死しました。(500石取りの、家老にもなるべき人であるとのことです。)また飯山では藩中に死者が多く出ました。御届けをご参照ください。
   
◯仕事の合間に土手に出て望遠鏡で西の山々を毎日のように見ていると、虫倉山の崩れはたいそう激しいものです。この山は八方へ崩れたと聞きましたが、いかにもその通りでしょう。こちらに面したところだけでも、一面に崩れて禿げ山のようになり、また押し立てたように切り立った崖に見えるところもあり、こちらにのしかかるように見えるところもあり、木立と見えるところは珍しいほどです。これを見ても、近辺の村々の被害はいかばかりであろうかと推し量られます。続いて前通りの山橋詰村の山奥に大規模な山崩れが見えますが、村の家々はまったく大丈夫そうに見えます。その次に見える山崩れは倉並村(黒沼村のこと)で、小松原山の上にあたり、幅17、8丁から20丁ばかりと思われます。崩れた箇所の下にわずかの村家が残っているのが見えます。この村は家数44軒、人口235人の土地でしたが、5軒残っただけで、39軒の家屋と60人余りの人が土砂に埋まりました。さらに坪根村の山入にもかなりの崩れがあります。次は山田中の大規模な山崩れですが、これはおよそ幅1里ばかりに見えます。この村では39軒の家屋と42人の人が土砂に埋まりました。崩れた箇所の上にも今にも崩れ落ちそうな危険な状態の家屋が見えます。それより北は小鍋村の分地です。この辺りには崩れたところは見えませんが、多少はあるだろうと思われます。善光寺の朝日山は禿げ山のようになりましたが、これは大規模な山崩れではなく、地表の土がすべて崩れたものとみえます。飯綱山一帯には崩れたところはありません。山中の村家の見えるところは山田中、宮野尾、坪根、倉並、橋詰などですが、一帯すべて地割れができて、幅の広いところ、狭いところ、段差になったところ、でこぼこになった山や麦畑などたいへんな数に上ります。また小松原山にも崩れかけたところがあちこちに多く見られます。25日に初めて見たときと後で見たときとでは、そのたびに崩れた箇所の形が違っているように思われるのは、ずり下がったためでしょうか。
   
◯4月1日の御届けは次の通りです。
私の在所信州松代の、先月24日亥の刻よりの大地震の件は、先日まず御届け申し上げてある通りでございますが、その後未だに余震が止まず、昼夜に渡って何回とも知れずたびたび揺れて、同29日朝、30日夕方の両日には3度強い余震がありました。遠くの村については分かりかねますが、城下町にはさらに倒壊した家屋もあり、近辺の山上から多くの岩石が崩落いたしました。また、かねて申し上げてありました、犀川の上手で水がせき止められた箇所についてですが、更級郡のうちの安庭村、山平林村両村の辺りの岩倉山という高山が半ば両端が崩れ、1か所は30丁ほど、1か所は5丁ほどにわたって川に崩れ落ち、その辺りでは埋もれた村もありました。ところが(崩れたのが)岩石であるため、まったく水勢に押し流されそうもない様子で、このため次第に水が溜まって普段より7、8丈も水位が上がりました。それにより数か村が水没し、その辺りは湖水のようになっております。もちろん様々に対策はいたしましたが、崩れたのが大山で、ことに岩石の崩落であったため、人力ではどうにもなりません。その上また、川中島平の者はこのせき止められた水がどちらに一時に決壊するか予想もつかないことに恐れて山手へ避難しております。丹波島宿等も同様で、人馬継立などもできずにおります。さらに精一杯対策を申し付けてございますが、まず、ただ今の状況について御届け申し上げます。委細は追って申し上げます。以上
  4月1日
 
犀川が干上がったため、川辺の者たちは水たまりのところで鱒、鯉、鯰、その外様々な魚をみな拾い集めたとのことです。このような大きな川が何日も(十九日)せき止められるようなことは、今後2度とはないでしょう。不思議な天変と言えましょう。
   
妻女山の金比羅の宮の辺りからおびただしい数の小屋掛けをしています。望遠鏡で見ると、昼間は多分女ばかりで居ります。ここに小屋掛けしているのは中沢・東福寺・小森辺りの者のようです。岩野辺りにも小屋がたくさんあるということですが、こちらは横田・篠ノ井辺りの者と聞いています。柴の金井山には特に小屋がたくさんあるとのことです。公事方で調べた時には3000人ほど居たと申します。(私が4月19日大鋒寺へ代参の時に見ますと、いまだ多くの小屋が見えました。これは真島川辺の家を流された者が、昼は村に戻り、夜は山に登って泊まっているのだと聞きました。)
 
◯桑名侯の越後御領分柏原陣屋詰めの岩崎五大夫という者が、4月2日に御機嫌伺いに参りました。(人足12人を途中交代することなしに連れてきたということです。)越後方面の様子を聞いたところ、24、25、26日ころまで揺れ続け、潰れた家などもあり、みな小屋に住んでいましたが、28日に強い揺れがあり、30日には高田町で多くの家が潰れ、御蔵も壊れた様子ですが、新井宿には家屋の倒壊は見られないとのことです。鳴動の音は二本木の辺りより鳴り始めましたが、柏原はもちろん高田でも鳴動はなく、普通の地震であったと言います。牟礼宿では家の倒壊も多く、100人余りが亡くなりました。児玉という村でも14、5人が亡くなったと話していました。(これは取次役を介して尋ねたのに対する答えです。)殿は遠方より早速御機嫌伺いに参ったことを喜んで、お手元から干菓子一折、表から金500匹を与え、酒肴のおもてなしをなさいました。
   
◯左は南部坂(松代藩中屋敷)奥支配の春原六左衛門へ、高田の実家の伊野宮彦左衛門から来た手紙です。文体はいかにも古風で立派です。この書面によって高田の様子を知ることができます。
 
   春原六左衛門様                   伊宮彦兵衛
一筆啓上いたします。さて24日夜五ツ時(午後8時)の大地震で、こちらでは家中で家の倒壊はありませんでしたが、納屋、廊下などが所々潰れました。その外母屋が潰れた所はありませんでした。我が家もかなり南の方に傾き、壁なども3か所ほど崩れ、柱の礎石が外れたところは所々にありますが、家の者に怪我はなく、その外親しい者たちの中にも怪我人はありませんのでご心配くださりませんよう。その後度々余震があって、未だに小屋掛けで暮らしております。家中の一同は右の通りでございます。商家や農家等は所々倒壊しましたが、火事は1件も起こりませんでした。そちらの様子が心配でしたので、一筆申し遣わしました。早々のご返事お待ち申しております。信州の辺りは大変な被害と聞いて、たいへん心配しております。この手紙は小屋で認めたものです。未だに度々小さい余震があり、母屋にいつ入れるかも分かりません。たいへんなことでございます。右のご返事早々にいただけるようお待ち申しております。以上。
   3月27日夕方認
   
一筆啓上いたします。ますますお元気でお過ごしのことと思います。長いことお便りがなく心配しております。また家のもの始め親しい者たちはいずれも別状なく暮らしておりますので、ご安心ください。さてまたこのたびの大地震はいかにも大変なことでございます。そちらではさほどのこともなかったと承り、また町家は少し倒壊もあるという話を聞いておりますが、はっきりとは承らず、大いに心配しております故、先日飛脚を遣わしたところ、丹波島が川止めとのことで、遣いの者は帰って来ました。この度またお便りをいただきに人を遣わしました。詳しいご返事をお待ちしています。こちらでは29日昼時にまたまた大地震があって、あちこちの家が潰れましたが、なにぶんこのごろは小屋住まいのため、とくに怪我人はございませんでした。その後七ツ時(4時)にまたまた揺れて、その後今日までの間に幾度と数も知れないほど小さい余震があって、仮小屋から母屋に移ることができません。そのため町家も農家も小屋住まいでございます。30日には大雨で、仮小屋ではいずれも難儀いたしました。昨日は南風が砂を吹き上げ、春霞のように向こうが見えないほどで、たいへんなことでございました。なにぶん町家でも商売もしていないため、商人はひとりも参らず、どうしようもない状態です。ただ子供に裏に生えているよめな・みつば・せりの類を摘ませ、おひたしにするほかありません。とても魚など食べることはできません。だんだん余震が収まったら、魚など食べたいものでございます。先日は海水がずいぶん引いたため、だれも出水のときは高田中水浸しになるものと考え、山中に避難していた人もありましたが、何事もなく、その人たちが戻って来たのはおかしなことでございました。子は父を肩に乗せ、母は子供をおぶっておりました。お城では仮小屋を所々に建てておりますが、御存知でしたでしょうか。出丸と蔵の内西の方の仮蔵が2か所壊れ、お堀まで3間ほどもありましたが米が飛び出して300俵余りがお堀に入ってしまいました。その米を引き上げ、天気のよいときに大勢で干しているところを見ました。この度の地震で、町家・農家はもとより家中の蔵も傷まなかったところはございません。我が家はかるい家や蔵と違って、あまり傷みもありませんが、かなり傾き、その上下家などは所々傷んでおります。今後余震が収まったらまたまた普請に取りかかることになり、まったく大変なことでございます。しかし家の者たちは元気なので喜んでおります。先達て屋根屋に釘を遣わしましたが、参りましたものか、未だに返事もありません。いかがでしょうか。地震前に普請に取りかかっていたものか、これもまた心配しております。親しい人たちも皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。外の方々には長いこと特にお見舞いも申しておりません。馬場・奥村様へも長いことご無沙汰したしております。よろしくお伝えいただきますよう。
このたび少しばかりではありますが、干たら・鰯・鰈の子、お見舞いとしてお送りいたします。今日ようやく余所からもらいましたが、我が家では食べずにお送りいたします。我が家では長いこと肴も食べておらず、干物のようになっておりますが、戦乱の時代はどうであったかと考えております。わずかですがお送りいたします。またあなた様からも遣いの者の帰りに何か少しいただけますようお願い申します。右はこの度のお見舞いのみ、小屋のうちにて書き留めました。恐慌謹言。
   4月7日認                    伊宮彦兵衛
                               長敬(花押)
  春原六左衛門様
追って申し上げます。この度のこと、一筆申し遣わしました。御家中の皆様にもよろしくお見舞い申し上げてください。我が家の者も皆、お見舞い申し上げていただくよう、申しております。使いの者は一晩泊めていただけますよう。三浦と我が家とで遣わした者です。この者が帰る時には南部からも手紙でも参っているかお聞きになってお帰しくださいますよう。先日の手紙も入れておきます。お花はもう成人されたことと存じます。さぞ愛らしいことでございましょうと、皆申しております。よろしくと申しております。早々。以上。
   
◯城番組の村松栄左衛門が伊勢から帰って来て、松本御城下の辺りの田から火が出ていると聞いたと、頭に語ったことを聞きましたので、これを調べようと思っていたところ、ちょうど夫役の山越嘉膳がこのごろしきりに御用を務めたいと願っておりましたので、貫実子と相談して、殿にお話し申し上げると、密かに行って松本辺りの様子を探ってみるようにとの仰せがありましたので、松本行きを任せましたところ、すぐに出立して2、3泊して6日に戻り、次のように書いて提出しました。
 
   内々に申し上げます
この度の地震につき筑摩郡、安曇郡辺りを密かに見回り調べるよう仰せつかりましたので、当3日出立して、松本御城下近くの浅間村に止宿しました。当地の温泉は地震以来普段より多く湧き出ているとのこと、この辺りには特に倒壊した家などは見られませんでした。4日に発って山辺村に行き尋ねたところ、温泉はいつもより量が減ったとのことでした。それから松本城下に行きましたが、町家倒壊した家は見られませんでした。お城の塀は横に筋が入って割れて壊れたところが所々見受けられました。お城の裏は塀が傾いたところも見られました。城内では様々な噂が流れていて、収まる様子がありません。ここから洗馬宿の間の出川と申すところの、往来から3丁ほど東の方の田の中に、今回硫黄の煙が噴き出し、穴が所々に開いて、これに火をつけると燃え上がり、風に遮られると消えます。珍しいことなので、近くの村の者や旅人なども立ち寄っては見物しております。この場所は硫黄田とかねてから呼ばれていましたが、これまでこのように火を噴くようなことは老人も覚えがないとのことです。ここから諏訪御領の境の百瀬村まで行き、様子を尋ねたところ、高島御城下は穏やかな様子だということで引き返し、再び松本へ出て、そこから栗尾山へ行きました。途中の田川・木曽川・梓川。穂高川・高瀬川など特に異常もないとのことで、これらの川は押野村で落ち合って犀川に流れ込んでいます。最近は宇留賀村の辺りまで増水で、松本の役人が出張ってきて騒がしい様子です。右の近村の上下生坂村・込路なども同様です。その後栗尾山満願寺に止宿しました。この寺の境内はおよそ3里にわたって杉・檜が多く立て込んでいます。境は飛騨山と越中国立山に続いていると、住職が申しております。立山は噴火した様子かと尋ねましたが、知らないとのことでした。同5日に出立して、松尾宮城辺りにさしかかりました。この辺りでは倒壊した家も少し見え、地割れもまれに見られましたが、格別のこともありません。そこから高瀬川を渡るのには橋も舟もなく、何とか歩いて渡りました。この川は水源は越中ですが、水の流れは平常のとおりとのことです。それから池田町に出ました。ほとんど潰れかけた家も見かけましたが、格段のこともございません。とはいえ、みな仮家住まいです。この地域では、「地震神を送ります」と唱え、家ごとに柳と松を取り添え、紙片をつけて戸口に挟んで年越しをします。気風はひどく騒々しく、川中島に引き比べてとんでもなく騒がしく、あちこち走り回って、取り締まる様子も見られません。そこから大町に向かう時に余震があり、こちらと同様に思われました。大町の様子は池田町と同様でございました。そこから稲生村に行きましたところ、地割れが所々にあり、険阻なところでは大石が揺られて転がり通行を妨げています。二重村に止宿しましたが、この辺りはみんな仮小屋に暮らしています。同6日曲尾村・花尾村・駒返村・三百地村・外山村等を眼下に見下ろしながら、千見村に出ました。この辺りの荒れようは夥しく、2抱えもある程の大木が根こそぎ揺られて倒れ、その外地割れや山崩れ、落石などが重なって、路程がまったく分からず、やっとのことで何とか通り抜け、小根山村へ出ました。小根山村・竹生村等、倒壊を免れた家は稀のように見えました。土尻川の中へ虫倉山が崩れ落ち、水流をせき止めているようです。この川筋の山々は所々で崩落している様子です。そこから長井村に登り、遥かに山平林村の崩落の箇所を眺めましたところ、当27日に岩倉山で見た時より、格段に水かさが増している様子でございます。そこから笹平村・瀬脇村・宮野尾村辺りの犀川筋の河川敷を歩き、夜に小市村から入り、ただ今帰り着きました。以上、申し上げます。
   4月6日                        山越嘉膳
 
この硫黄田のことを考えてみますと、臭水(クサウヅ=石油)だと思われます。前からその気配があったところが、地震の揺れで吹き出したものでしょう。
   
上山田村字法花寺では田畑の50間四方ほどのところに水があふれ、毎日清水が多く湧き出るので、地崩れが起きるのではないかと恐れて人々が訴え出ました。馬奉行の中村元尾を早馬で調査に行かせましたが、平地で崩れ落ちるような場所ではないと見積もって報告がありました。また荒山村ではひどい地割れができて、崩れ落ちるのではないかと訴えがあり、郡奉行道橋奉行などに尋ねましたが、山中の村には荒山村くらいの地割れは数えきれないほどあるということで、それ以上心配することはしませんでした。
 
◯地震の夜から開善寺で二夜三日の祈祷を仰せ付けられ、その後領内の寺社に祈念するようにと寺社奉行かお触れを出しました。4月9日、舞鶴山両宮(白鳥神社)で7日間の祈祷が別当と神主に命ぜられ、6日のうち御側用人が代参なさり、結願のための名代を石州子が務めました。また戸隠山にも水災の祈念を命ぜられました。これは、犀川戸隠権現のお守りになる川なので御祈念をお頼みくださいと、栃原村より願い出があったためです。
 
◯立が鼻が山崩れを起こし千曲川をせき止めて、小沼村の辺りが水浸しになっていると陶器の職人が申していると、岩下革が申し出ました。それは立が鼻がせき止められたら、これもまた山中と同様川中島一帯が湖になってしまうだろう、急いで調べて来るようにと、目付祢津刑左衛門・徒士小野喜平太に小布施村あたりまでも見て来るようやりました。夜に入って戻り、「桜沢の沢水がいっぱいになって小沼辺りに逆流し、村々から人足が出て普請の最中で、その下手に山崩れがあると聞きましたが、たいしたことはなさそうです」と申します。また徒目付原田糺・中村嘉一郎を、立が鼻より下まで行って見届けなさいと申し付けて遣わしました。戻って後、左の書き付けを提出しました。
   
   地震による立鼻村ならびに厚貝村の山崩れ箇所の調査報告
立鼻村
右の村は千曲川河岸にございますが、地震による山崩れはございません。ただ同村より矢島村境までの5町ほどの間、千曲川に注ぐ篠井川河口の川底が浮き上がり、川の両岸が崩れ水がせき止められたため、この水が小沼村辺りまで逆流いたしました。近隣の村民が出て川を浚いましたので水は引きましたが、窪地のところでは水が引かずにいます。
同村の渡船場はふだんより4尺余り水位が下がったと水主が申しております。
大俣村
この村の東境の下津会という場所で幅100間ほど山が崩れ、飯山藩の御領の替佐村の内になだれ込みましたが、取りのけて、近ごろは少し水が溜まっている程度です。もっとも地震の時には大岩が2つ替佐村の田の中に跳ね上がりました。
厚貝村
この村の東境の鳥飼場というところでは、幅200間余り飯山御領の笠村の方へ崩落し、川の中へ50間余りなだれ込み、このところ流れている川筋は20間余りに見えます。ただしこの所は水が大量に溜まっていて、大俣村の山崩れの箇所まで15、6丁も一面に溜まっております。
壁田村
この村の日向と申す所は幅6、70間ほど山崩れして、川の中へ40間ばかりも押し出したように承知しております。もっともこの箇所の水は少々溜まっているだけでございます。川向こうは飯山御領の奥田村です。
右の通り調査してまいりました。云々。
   4月                           原田糺
                                中村嘉一郎
湛水の図1枚を添えて提出されました。
   
◯御城内のお屋敷も民家もひどく損壊し、手配が行き届かないため、寛保の洪水のときの例に倣って御拝借金の御願いを申し上げられました。
 
過日、先に申し上げました通り、私どもの領地信州松代では先月24日夜、未曽有の大地震があり、城内の櫓1箇所が潰れ、その外櫓門囲い塀や住居はひどく損壊し、その上所々地割れができて、幅7、8寸くらいで数間にわたって盛り上がり、家中の屋敷は南山手に沿った所では破損は軽いのですが、全壊、半壊の家、その外すべての家で破損箇所があり、城下町でも家の倒壊や損壊、死者も出ました。その外領分の村々すべてで、場所によって7、8寸あるいは1尺から2、3尺地割れして、数間盛り上がり、そこから土砂・泥水・焼けた石などが吹き出し、または田畑の中の地面は高くなったり低くなったり様々に変化しています。さらにまた山中筋はいっそう崩落が激しく、土に埋まった村もあります。その上かねがね申しておりました通り、更級郡の内山平林村の高山が崩れ、麓の村々の岩石もろとも犀川への数10丁の間を埋めて流れをせき止め日増しに水嵩が増して、およそ17、8丈ほども溜まり、上流は6、7里の間湖水のようになっています。このため川沿いの村々は数か村倒壊あるいは焼失した上、数丈の水底に没しております。この上5~7日も溜まり水が増えたなら抜け崩れて、埋め立てられた場所に水が溢れるかもしれない旨は追って注進申し上げます。その外土尻川というのは犀川より小さい川ですが、これもまた川上の土砂崩れで水がせき止められ、去る10日まで水が溜まっておりましたところ、その日昼過ぎに埋め立て箇所が決壊して1丈余りの大量の水が急に溢れ出し、日暮れにはようやく水は減ってまいりました。もっとも元来あった犀川に合流する支流が、地震以来干上がってこの川筋に流れ込んでいるためか、川だけの流水で、破損箇所もございますが、特に心配なことはございません。しかし前に申し上げました犀川上流は、数10日たまった水が一時に溢れ出したときは、川中島平はもちろん、下に続く御領所の村々はどれほどの大災害となるか予想もできません。殊に犀川口の小市村渡船場の北の真神山がこれまた犀川に崩れ落ち、川幅を大きく埋め立てておりますので、このたび溜まっております犀川の水が一時に溢れ出し真神山崩落の箇所に突きかかりましたら、なおさらどのような異変が起こるか分かりません。これらの場所には当面の手当としてできる限り普請の者を申し付けておりますが、なかなか容易なことではなく、かつ支配所の方も多くは同様でごさいます。中でも善光寺は家々が倒壊し、そのため出火して本堂・山門などの外は一円が焼失して、死傷者が殊に夥しい様子なので、早速家来を差し出して、米穀、人足など当座の措置を申し付けたとのことにございます。だいたい私どもも領分については、飛び地がなくお城から一続きにまとまっておりますので、この度の災害を免れた村方はございませんが、山中筋は犀川の水ならびに道の崩落で、行き来ができないところも多く、詳しい調査もできませんが、去る10日までに少しずつ調べた範囲では、城下町から山里の村々まで、およそ水没家屋、半壊家屋8747軒ほど、死者負傷者3924人ほど、牛馬の被害は235匹ほどでございます。右のような次第で死者や家屋の損壊の無い村はわずかのようで、たいへん嘆かわしいことでございます。もちろん救済のための手配はできる限り申し付けておりますが、これから苗代を作る時期にもなり、麦の収穫など大事な季節も次第に近づいてまいります。余震はようやく軽くなって来ましたが、鳴動は今もって数10回もあり、農民たちは恐怖と悲嘆に沈み、なす術も無く茫然としているばかりです。役人たちが出向いて宥めようといたしておりますが、心休まらず、加えて川中島平については、犀川の水がせき止められて水が流れず、用水にも不自由し水飢饉にもなろうかという、言語を絶する次第でございます。(下略)
   
◯知行所の若宮村は多少家屋の破損はありましたが、半壊の家もなかったため別状なしと届けましたが、善光寺に参詣していて圧死した者が12名あって、後に訴え出ました。私からもその者たちの家に線香1包(五把)ずつ与えました。
 
善光寺の話
善光寺立町に理助という者があって、女1人、男2人の子がおりました。24日の夜ひと揺れで家が潰れ、長男と娘は御堂参りに行っていて、後に残った夫婦と12歳の末っ子が梁の下敷きになりました。不思議に隙間があって12歳の子は梁に当たりもせずにはい出し、父母の名を呼びましたが、両親とも梁の下になってはいても怪我もなく返事をしましたので、すぐ助けに行きます、そのままいてくださいと言って、あたりに手頃な木が落ちていたのを拾って梃子にして、こじってみましたが力が足りません。そこで神の御名を唱え、力をお貸しくださいと念じながら、あれこれするうちに、孝行の心に天も感応したものか、母親の方は少し隙間が広がって這い出し、2人力を合わせて父親を助け出しました。両親は涙を流して子供の孝行と才覚を褒めたと言います。程なく火が回って来て家はたちまち灰燼となりました。まさしく孝行息子を天が助けたものかと、災害中の美談とされています。尾張から開帳参りに来ていた者が圧死したうえ火事で焼かれました。同行の者は逃れ出て、亡くなった者の骨を探し出して、宿屋に回向料を預けて出立しました。その翌日、その亡くなったと思われた者がどこからかやって来て、同行の者の行方を尋ねましたので、宿屋の者たちは災難を逃れていたのを不審に思い、同行の方は既に回向料を託して出立しました、急いで行けば追いつくでしょう」と言うと、その者は驚いて、「さては俺を見捨てて行ったな、こんなに長い間食事もせず心身が弱り切っていて、今から追って行っても追いつけるわけもない、送って行ってくれ」と言います。皆これを聞いて、「何てことをおっしゃる、この大変な時に、家族を亡くしたり家を失ったりして、誰が送って行けるものか、命拾いしたのを有り難いと思ってすぐ行きなさい、それなら回向料もお返ししよう」と言っても聞き入れず、「自分一人で帰って行ったら、きっと冥府から来たと思って宿に入れてくれまい、送る人をよこせ」と、ひたすら駄々をこねてやめません。持て余している所へ、後町の深美六左衛門が通りかかって、このやり取りを聞いて、宿屋の者に言うことには、「こんなに何度も言ってもこの人が聞き入れないのなら仕方がない、元々この人は焼死したものと同行の人も思ったからこそ回向料も残して行ったのだし、外に知る人もないのだから、この人を殺して本当に焼死したようにして、回向料を寺に納めたなら、同行の人の志も無駄にならない、この騒ぎの最中にこんな風に難しく争うよりも、すぐ私の言う通りになさい」と言うと、その者は大変怖れおののき、詫び言を言って早々に出立したとのことです。災害の中ではありましたが、人々はどっと笑ったと六左衛門が語っていたそうです。
同じ国の者が夫婦連れで宿屋に泊まっていて、夫は逃れましたが妻は梁の下敷きになりました。どうしても助け出すことができず、あれこれしているうちに火が回って来ましたので、夫は脇差しを抜いて妻の首を切り、風呂敷に包んで持ち帰ったそうです。哀れにも勇ましいことであったと聞きました。
   
◯潰れた家の屋根に穴をあけ、火の回らないうちにと家財を取り出し、余所へ運んで行く者も多くいました。ある呉服屋でもそのようにしましたが、近辺から手伝いに来て家財を持ち出し、運んで行く振りをして盗みとってどこかへ持ち去る者も多かったと言います。
 
◯弘前藩の者で、主人2人、家来3人連れで開帳参りをして、藤屋平左衛門のところに泊まっていましたが、家が潰れた上、たちまち火事になりました。一人の主人は逃げ出して寝間着のままで福島宿(一説には川田ともいう)まで逃げて行き、問屋に頼むことには、「私どもは弘前藩の者ですが、善光寺詣でをして、その後伊勢で太々講をしようと、150両持ち出し、連れの者は50両ほど持参しています。昨夜藤屋の上段の間を借り、家来は次の間にいましたが、家が地震で潰れ皆下に埋もれましたが、私は不思議にも這い出すことができました。しかし連れの者と家来たちは逃れられずに焼け死にました。国に帰って言訳もできません。せめて骨だけでも欲しいし、お金や刀も形ばかりでも手に入れば言い訳の種にもなると思います。どうかご親切におはからいください」と、一心に申すので、問屋から急ぎ飛脚で出役の御勘定役に伝えました所、すぐに藤屋の焼け跡と思われる当たりを掘らせますと、上段の間で骨と金2塊と焼けた刀を見つけ、次の間で家来3人の骨を見つけて送りましたら、それを役人に渡したと言います。それからどのようにして国に戻ったか、後のことは聞いておりません。
   
◯紺屋町の美濃屋宇兵衛の子で12、3ばかりの者を、善光寺の何屋とかいうところへ年季奉公に出す約束をして、24日に行かせましたが、その夜地震と火事でとても逃れられず亡くなったであろうと思っていたところ、25日に奉公先のご隠居がその子を連れて来ました。夢のようだと喜び、どうしたのかと問うと、ご隠居は、「いつものように御堂参りに行って戻りかかったところ、雷のような音とともに敷石が2、3尺高く上がっては下り上がっては下りするうちに、あちこちの家がガラガラひしひしと音を立てるので、これは大地震だと気がついてこの子を抱いて地面に座って凌いでいましたが、あちこちから火事が起こり、やっとのことで逃げて連れて来ました」と申したとのことです。幸運な子供です。
町医者の見昌という者の子昌庵に、新町村の塩野入久衛門の娘を妻に迎え、この夜婚礼をしました。親族その他7、80人寄り集まって、杯も済ませお色直しなどいううちに、大地震が来て家を潰し、娘も家族も客もともに打ち倒されてしまいましたが、中原の和田与三右衛門(久右衛門の妻、与惣衛門の妹、与惣衛門の妻、久右衛門の姉)の子与八郎は夫婦ともに参っておりましたが、与八郎は打ち倒されたまま脇差しを探り当ててあちこち切り破って逃れ出ました。勝手と思われる辺りにうごめいている者はまさしく見昌親子であろうと思って、その辺りの壁も天井も板もひたすら切り破って助け出し、そのついでに2、3人も救い出しましたが、この家からの出火だったため忽ち火が回って焼けてしまいました。栗田村の源左衛門夫婦も来ていましたが亡くなりました。娘も久右衛門も与八郎の妻も皆亡くなりました。無惨なことです。このうち30人ばかりは逃げたといいます。与八郎の差していた脇差しはどれほどの名刀であったか、刃が少しこぼれただけで、4、5人の命を助けた業物だと様々に取りざたしました。
   
ちなみに、この後与三右衛門方に昌庵父子をしばらく引き取り、また新町の久右衛門の家も潰れたので、この家族も引き取って住まわせました。とりわけ、救援の者たちのためにと多額の金を寄付し、また密かに村々にも金や食料を送って急難を救ったことも少なくありません。与三右衛門はもともと有徳の者ではありますが、このような災害の中の奇特な精神は、褒美を与え褒め讃えるべきものです。
塔頭の中で梁に打たれたけれど死にきれずにいた者が、日頃爪に灯を灯すようにして貯めた100両の金を手に持って、「私を助けてくれる者にはこの金をやろう」と呼びかけると、一人の者が来て、「ならばお助けいたしましょう」と言うのでその財布を渡しました。ところがその者は、それを受け取ってそのままどこかへ逃げて行ってしまったそうです。日頃の貪欲の報いが巡って来たのだと人々は言い合ったとのことでした。(これらの話は真実か嘘か分かりかねます。このような時節には様々なうわさが語り伝えられるものなので、物好きな者の作り話でしょうか。この類の話はいろいろ聞きましたが、煩わしいので書きませんでした。)
塔頭福祥院(福生院)の住持は建物の下敷きになり焼け死にました。吉祥院は焼けましたが住持は逃れました。この2院は由緒ある寺なので届け出ました。この寺所有の本堂裏の石碑はどれも倒れないものはありませんでした。
25日の夕方、善光寺役人上田丹下と、小県の丹下の兄白山寺とが連名で、書簡で穀物と味噌と人足5人をよこしてくれるよう言って来ましたが、私は留守にしておりました。家も形ばかりで人手もなく、雇える者もない時節ゆえ、人足は断って米と握り飯をたくさん持たせてやったと、休息に戻った時妻が申しました。白山寺はこのとき丹下方に泊まっており怪我をしたといい、丹下の家は潰れて焼失し、家族5人のうち丹下が生き残っただけで、外は皆圧死したということです。(火事の後、大勧進より東叡山に拝借願に丹下を出府させまして、5月10日に戻りました。その後見舞いの品々を送ってよこしました。)
焼死・圧死者は1000人余りあるだろうと寺領から届け出がありましたが、実は幾千人か計り知れません。1軒の宿に3、4百人、或いは4、5百人も泊まっていたといいます。逃げ出した者も多かったでしょうが、7割がた亡くなったものと思われます。江戸からも多くの参詣者があって、帰らなかった者も多かったといいます。稲荷山宿でさえも旅人が800人も死んだと聞きますので、善光寺では宿屋や宿坊まで加えれば旅人は3、4千人も亡くなったことでしょう。初め1万人も亡くなったとうわさいたしましたが、それも無理のないことと思われます。
   
◯大聖寺侯は3月22日にお国元を出立され、地震のために越後の能生宿にご逗留されていましたが、信濃路の惨状をお聞きになって、飛脚をよこしてご通行されたい旨を押してお頼み申され、引き続いて御宿割の者が来て役人に会い、布野の渡し御通行御渡船のことを頼まれました。道橋奉行助、柘植嘉兵衛らが面会して、3町に宿継がなく、そのうえ上流のたまっている水が抜けたらどんな水害が起こるか予想もつかないといって、お断りしました。しかし、その者はひたすら通行することを願ってやみません。ならば重役に申しましょうと答えますと、「重役までは何とかお計らいなさいましょうが、もし大守のお耳に入ったらきっとお止めなさるだろう、ただ目をつぶってお通しください」と申します、どのようにお答えしましょうかと言うので、密かに殿へお伝えすると、「今回の報告ではまだ出水までは時間があるだろう、こっそり通ろうというのなら思う通りにさせなさい、ただ領内では道橋方一人が先に行って安全を確認しなさい」とおっしゃいました。そこで嘉兵衛は三町に出向いて行き、ここから前もって準備をし、喜内は布野の渡し場に出ました。一行は10日に柏原にお泊まりになり、11日には無事布野の渡しを越えられました。通常と違って千曲川の水流だけなので、水は膝を越える程度で、侯も一行の者も大したことはないと思われてか、嘉兵衛や喜内がどんなに急がしても悠々としていて時間がかかりました。やっと渡り終わって川田の辺りまでおいでになった頃、川中島で早拍子木などが聞こえ、数百人の動揺している声がするので、嘉兵衛が馬を急がせで関崎の山に登って見ると、犀川が真っ黒に濁って瀬鳴りの音が高く水も増して見えたので、急ぎ戻ってこのことを知らせますと、侯も同行の者も初めて驚き、色を失って、先に嘉兵衛や喜内が渡船を承知しなかったのももっともだと言い合って、早く船が渡ったのをお喜びになったとのことです(これは土尻川が決壊したものです。)それから福徳寺でお休みになり(御側使者を遣わされました。)、五ツ(8時)過ぎに矢代宿にお着きになり、お泊りになりました。(このお泊まりも宿方が引き受けました。ご休憩が長くなったふりをして夜を明かされたので、関札や幕なども設置なさらなかったとのことです。)
   
◯地震の起こった初めから、鳴動は西からしたと言う者があり、また東から、あるいは南から北からと言う者があって、聞く所によって一様ではありませんが、私は初めから北西から鳴ったと思っています。また西条から竹山町あたりまでは鳴動がことに強かったといいますが、山に反響するためでしょう。西条では大嵐山が鳴動したといいますが、関屋辺りでは野山からのろし山、牧内まででは牧内山、東条では東条山、加賀井辺りでは尼厳山、清野では鞍骨山が鳴動したといいます。また上郷では冠着山、西山腰では長谷山・岡田山・有旅山が鳴ったといいます。上高田辺りでは飯縄山が鳴ったと言っているそうです。小市御普請所から川中島にかけては鳴動はいたって軽く、こちらで聞こえたものの半分にも至らなかったとのことです。
 
◯大地震から4月の初めまでのうちは、所により地中がぼくぼくするように感じられました。
 
◯地割れに飲み込まれるということがあるといいます。これは地面が広く割れて、人がその中に落ち込み、たちまち割れ目がふさがって地面がもとの通りになるとのことです。後に記すように、臥雲院が狭まったということを聞いても、こういうこともあるだろうと思われます。