中村良之進著「陸奥考古」1輯の表紙と挿図
(弘前市立図書館藏)
中村良之進
(北山峰一郎氏提供)
大正末期から昭和初期のころ、県内における高等教育の役割を果していた県師範学校には、岩手県出身の佐々木新七と茨城県出身の田中傳吾が、官立弘前高等学校には茨城県出身の小岩井兼輝(こいわいかねてる)が在職し、研究と教育の面で活躍していた。佐々木は、大正九年(一九二〇)四月から昭和十年(一九三五)三月まで本県に在住したが、その間の大正九年(一九二〇)より大正十一年(一九二二)までは県師範学校に在職し、主事を務めた後、県の教育課長や視学官、ならびに県の史跡名勝天然記念物調査員を兼任して各地の視察・調査を行い、指導とともに県刊行の調査報告書をまとめている(45)。
また、田中は、大正十五年(一九二六)に県師範学校へ赴任し、国史および地理の講義を担当する傍ら考古学の研究に励み、その成果を県師範学校校友会誌『郷土号』に発表した。内容は、時代区分から説き起こし、亀ヶ岡遺跡の成因をはじめ、貝塚・竪穴・チャシ・是川などの遺跡のほか、蝦夷論にまで及んでいる。弥生土器と土師器(はじき)、エミシとエゾの混同もみられるが、昭和八年(一九三三)という時代を考えれば良書といえるであろう(46)。氏は、昭和十一年(一九三六)四月から県立五所川原高等女学校長を務めている。
小岩井(一八六九~一九三八)は、大正十年(一九二一)四月に弘前高等学校教授として赴任し、地理と博物学を教授する傍ら、木造町の亀ヶ岡ならびに筒木坂と、弘前の十腰内(とこしない)遺跡などを発掘した。小岩井は、前述の佐藤傳蔵と同様地質学の出身であるが、特に亀ヶ岡において泥炭層内から獣骨や骨角器(こっかくき)類が出土し、大きな木がローム層に根を張って泥炭層まで突き出ている点などを参考にして、佐藤の津波による遺跡成因説に対し、地盤沈下説を主張したのである(47)。
さきに喜田貞吉の「亀ヶ岡文化は江戸時代説」を紹介したが、喜田は大正十四年(一九二五)七月に津軽半島の三厩(みんまや)村宇鉄(うてつ)へ調査旅行を行い、石刀(せきとう)をはじめとする縄文時代の遺物を多数持ち帰り、ますます自説の正当性を認識したことであろう。その後も本県にはしばしば足を運んで、多くの知友を得ていた(48)。昭和八年(一九三三)十一月に、青森市久栗坂(くぐりざか)(当時は野内(のない)村)の山野峠(さんのとうげ)で当時村道の拡幅工事中に四個の甕棺が発見され、佐々木新七からの連絡により調査のため来県した。この時は、内部に土器を納めた石室状の遺構を合せて六基ほど発見し、その成果を翌年九月に『歴史地理』六三巻六号誌上で発表した(49)。なお当遺跡は、昭和四十二年(一九六七)九月に慶応大学の江坂輝彌(えさかてるや)による調査で、六基の積石塚状石棺墓(つみいしづかじょうせきかんぼ)と一個の甕棺が発見され(50)、さらに昭和五十六年(一九八一)七月の青森市教育委員会による調査で、さきの石棺墓六基のほかに一基が新たに発見されている(51)。
我が国の考古学は、土器の緻密(ちみつ)な研究の点において世界を凌駕(りょうが)するといわれている。この緻密な研究の礎を築いたのは、東北大学に在職していた地質学者の松本彦七郎(まつもとひこしちろう)であった。松本は、宮城県の松島湾に浮かぶ宮戸島里浜(みやとじまさとはま)貝塚と、岩手県陸前高田(りくぜんたかだ)市の獺沢(うそざわ)貝塚出土の土器を、模様(文様)から第一期より第五期へ変遷するとの考え方を示した。さらに、地質学で用いられる層位(そうい)学の原理を考古学に適用させ、里浜貝塚や河南町宝ヶ峯(かなんちょうたからがみね)遺跡の調査において、土層の上下関係を基に、それぞれの土層に包含されている土器を分類して、新古を決定しようとした(52)。松本によるこの考えは、その後若い学徒の間に受け継がれ、前述の山内清男をはじめ、八幡一郎(やはたいちろう)(一九〇二~一九八七)や甲野勇(こうのいさむ)(一九〇一~一九六七)が呼応して、縄文土器の編年確立に努力したのである(53)。
このころ本県では、飯詰(いいづめ)村(現五所川原市)や内潟(うちがた)村(現北津軽郡中里町)の各村長を長年務め、十三史談会の結成にも参画した奥田順蔵(おくたじゅんぞう)が、『うとう』に「陸奥湾周圓の石器時代遺跡と其文化」というタイトルで、二回にわたりその研究成果を発表した(54)。また、当時野沢(のざわ)村(現浪岡町)の小学校に勤務していた葛西覧造(かさいらんぞう)(一九〇〇~一九五二)は、村内の遺跡調査に尽力し、東北北部の遺物に関心を抱いて来県した角田文衛(つのだぶんえい)に、収集した資料を開示した。角田は、佐藤蔀や五所川原高等女学校所蔵(十腰内出土)の遺物に加え、二年前(一九三三年)に収集した八戸市天狗沢(てんぐさわ)の遺物とともに、土器の形態・文様を基に三分類し、当地方における縄文時代後期の編年を公にした(55)。葛西は、角田の薫陶を受け、野沢村吉野田のタケハラコ出土土器を三類に分け、『青森県郷土誌料集』一に発表した(56)。
縄文土器の研究に執念ともいうべきほどの情熱を注いでいた山内清男は、昭和七年(一九三二)七月から翌年二月にかけ、雑誌『ドルメン』に「日本遠古之文化」を載せ、縄文土器の起源や終末等について見解を披露した(57)。山内は、発掘調査で出土した土器資料を丹念に比較分類し、それを基に組み立てた縄文土器編年は、揺るぎなきものと自信をもっていた。山内と喜田貞吉とが雑誌『ミネルヴァ』誌上で、縄文時代終末期をめぐって火花を散らしたいわゆるミネルヴァ論争は、こうした山内の強い自信の表れであり、喜田の出土遺物に対する資料批判の欠如と、認識の甘さに起因するものと思われる(58)。
昭和七年(一九三二)の冷害は、東北北部に多くの被害を与え、一部には深刻な社会問題を引き起こしたのである。各自治体はこのような事態に対し、救済策として道路工事などを行い、働く場を人々に与えたのであった。天間林村の二ツ森貝塚も、村道の拡幅整備工事の実施の際に青竜刀型骨製品をはじめ、鹿角(ろっかく)製垂飾(すいしょく)品(ともに県重宝)等が出土し、角田文衛が昭和十三年(一九三八)八月に行った発掘調査の報告の中で紹介している。角田の調査報告は、当貝塚出土の土器を詳細に分類し、特に縄文時代中期末の土器に対し榎林(えのきばやし)式なる形式名を設定した(59)。
北の下北半島では、田名部(たなぶ)町(現むつ市)の中島全二(一九〇二~一九七九)が、孤軍奮闘しながら調査に励み、その成果を県師範学校附属小学校初等教育研究会の『国史研究』二に発表している(60)。
昭和十二年(一九三七)七月七日に起こった日中戦争(当時は日支事変(にっしじへん)といわれた)は、戦線がしだいに拡大するとともに泥沼化し、兵員補充のために有能な若者が召集され、また一方では、「紀元二六〇〇年」ということで、八紘一宇(はっこういちう)の理想実現に向かって皇国史観がもてはやされ、考古学を含め古代史の研究はしだいに制約を受けるようになった。
このように窮屈な時代にもかかわらず、若い学徒は学究に懸命な努力を続けていたのである。昭和十六年(一九四一)三月には、江坂輝彌と直良信夫(なおらのぶお)(一九〇二~一九八五)が、亀ヶ岡遺跡の泥炭層出土遺物について『古代文化』誌上に紹介すると(61)、七月には白崎高保が北津軽郡中里(なかさと)村(現中里町)深郷田(ふこうだ)遺跡出土の内面条痕をもつ繊維土器(深郷田式土器)について論じ(62)、また翌年二月にも同氏により、深郷田・弘前市船沢(ふなざわ)の三森(みつもり)・亀ヶ岡等で出土した石鏃を、関東地方の同種遺物と比較しながらその変遷を同誌上に発表した(63)。なお同じ号には、吉田格(よしだいたる)と直良信夫が連名でオセドウ貝塚より採集の遺物を報告している(64)。
オセドウ貝塚は、大正末年における幾多の調査後、昭和三年(一九二八)七月から八月にかけて東京大学で山内清男の後輩であった中谷治宇二郎(なかやじうじろう)(一九〇二~一九三六)が調査し、その成果は『人類学雑誌』に掲載され(65)、補足を京都大学の病理学教授で人類学の分野でも著名な清野謙次(きよのけんじ)が『日本貝塚の研究』の中で詳述している(66)。
昭和十六年(一九四一)十二月八日、米英とも戦闘が開始され、しだいに挙国一致で戦争貫徹という体制になり、皇国史観が幅を利かす時代となった。昭和十八年(一九四三)五月に史前学雑誌、十一月古代文化、翌年九月は人類学雑誌と考古学雑誌が、戦時下のため休刊せざるをえなくなったのである。