九月一日、家康より派遣された井伊直政(いいなおまさ)を含む仕置奉行の堀尾吉晴・浅野長吉・蒲生氏郷らはついに南部領に兵を進め、この一日だけで九戸方の姉帯(あねたい)・根反(ねそり)両城を一挙に陥落させた。このため端城(はじろ)にいた兵たちは退却して九戸城に退いた。仕置軍は、この姉帯・根反両城陥落に引き続き、翌九月二日には早くも九戸政実をはじめ櫛引清長・七戸家国らが籠城する九戸城に攻め寄せ攻撃を開始した(『浅野家文書』)。九戸城に籠もる兵は約五〇〇〇人、対する仕置軍は約六万人とされており、兵站(へいたん)を整え籠城戦に優れた秀吉の仕置軍の前には、補給路を持たない九戸方の敗退はすでに戦いが始まる以前に明らかであった。
この籠城戦には信直自身のほか、浅野長吉・蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政ら上方の軍勢が参陣したが、ほかに出羽国鹿角(かづの)郡浄法寺(じょうほうじ)より仙北の小野寺義道・秋田実季・仁賀保勝利らが、そして津軽為信と蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は南部領の五戸から名久井(なくい)を経て九戸城に到着した(『信直記』、資料近世1No.三七)。特に蠣崎慶広は、毒矢を携行させた「深目・長髪」の「蝦夷」どもを率いて参陣し、自らが蝦夷=「日の本」の支配権を獲得したことをアピールした。また、このことは秀吉が奥羽・「日の本」に至るまでの諸大名を軍事動員できたことを示すことにもなった。
九戸城は本丸・二の丸・三の丸・松の丸・石沢館・若狭(わかさ)館によって構成され馬淵川(まべちがわ)に臨む天然の要害であり、総面積三四万平方メートルに及ぶ大規模な平山城(ひらやまじろ)である。この九戸城の包囲軍は、仕置奉行の蒲生氏郷が村松に、浅野長吉は城の本丸より北の八幡社に、堀尾吉晴はその隣に、井伊直政は城の北の上野にそれぞれ陣を置いた。津軽為信を含む秋田氏・小野寺氏・仁賀保氏らの軍勢は若狭館の向かいの穴手(あなて)に陣を構え、信直らとともに九戸城を眼下に見下ろすように兵を置いた。
九戸城に対する攻撃は九月二日に始まったが、その二日後の九月四日には一揆の大将である政実と櫛引清長は当時の降参の作法にのっとって頭を剃って城を出たため、これを妻子ともども秀次の陣所へ送り届けて進上した。その他の「悪逆人共」はすべて首をはねられ、首数一五〇余りがこれまた豊臣秀次のもとに届けられた(『浅野家文書』)。『信直記』によれば、九戸城の陥落後、政実らは三ノ迫(さんのはざま)にいた秀次のもとに届けられそこで斬首されたという。また城に残された九戸方の兵は本丸から二の丸に移され、その二の丸に仕置軍は容赦なく火をかけ、九戸方の兵はすべてせん滅させられた。秀吉はかつて天正十八年の奥羽仕置の際に、従わない城主は城に押し込めて「なてきり(撫切)」にし、百姓であればいくつもの郷村の者たちを「悉(ことごとく)なてきり」にすべきよう厳命していたが(資料近世1No.二四)、まさに秀吉の仕置に従わない九戸一揆は「なてきり」にされ鎮圧されたのである。