近世大名にとって軍役(ぐんやく)負担とは、領地の宛行(あてがい)や安堵という将軍家の「御恩(ごおん)」に対して、その領地を基礎として、自己の家臣団を編成し、その領地石高に見合った一定の数量の人数・軍馬・武器等を提供するもので、いわば「奉公」としての役奉仕だった。すなわち役奉仕は主従関係の原理原則に基づくものだったのである。また平和が続くようになると、軍役以外の課役を軍役と同一の原理に基づいて大名が負担するようになる(善積美恵子「手伝普請について」『学習院大学文学部研究年報』一四)。これらの役には、幕府役職への就任や、上洛・日光社参時の将軍への供奉(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番、江戸城の門番、江戸市中の火消役、他領検地、普請役、全国各地の関所番、幕府からの預人(あずかりにん)の管理、預地の管理、皇族・勅使や公卿の下向時の饗応役、朝鮮通信使への道中での馳走や鞍馬(くらうま)の差し出しなどが挙げられる。大名領主権は、幕府が課した「奉公」としての役奉仕を通じて形成されていったのである。したがって、大名にとって軍役やそれに準じる役の負担は非常に重要なものだったといえよう。
ここでは、天明年間までの津軽家の大名課役について概観するが、寛文九年(一六六九)の寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)に際しての松前出兵、天和二年(一六八二)の越後高田領検地、および寛政年間以降の蝦夷地警衛をはじめとする課役は別項で詳述する(なお、本項の記述は、長谷川成一「北方辺境藩研究序説―津軽藩に課せられた公役の分析を中心に―」・「所謂『北狄の押へ』の再検討―浪川氏の拙稿批判によせて―」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、笠谷和比古「幕藩関係概論」同『近世武家社会の政治構造』一九九四年 吉川弘文館刊 に大きくよっている)。