上方廻米は、貞享四年(一六八七)にすべての上方廻米を大坂着とする政策が出される以前は、敦賀と大坂の両方に廻着していた。なお、同年以後も敦賀・大津への廻米は断続的に実施され、大坂廻米の補足的な役割を果たしていたという(印牧信明「津軽藩における成立期の大坂廻米について」『交通史研究』四四)。大坂への廻米は、寛文十二年(一六七二)に初めて実施され、その後量的に増加し、貞享四年には全量を大坂着を目指すものとなったと考えられる。
上方への廻米量は、寛文から天和期にかけては、年間二万五〇〇〇石程度であった。その後、貞享四年(一六八七)二月に上方廻米量が五万石に設定される(「国日記」貞享四年二月五日条)。前年の貞享三年十二月には、領内からの「御登せ米五万石」(資料近世1No.八四五)と見積もられたものであり、これまでの二倍にも及ぶものであった。しかし、これは実際には達成されなかったようである。上方廻米の量が増加し、五万石という目標が設定されたのは、一つには領内における新田開発の進展によるものであろう。また、貞享検地に伴う新たな収取体系の整備、すなわち、米納年貢増徴政策などがその背景にあったのであろう。
次に、その形態をみてみることにしよう。寛文から元禄期の津軽と敦賀間の上方廻米にかかわっていた廻船の構成は、「手船」(藩船)と「雇船」に大別することができる。
「手船(てぶね)」は、十三・今別・蟹田の湊が中心となって造られており(これらは、木材・鉄の産地でもある)、領内で乗組員を徴用している。さらには庄内地方からも乗組員を求めていた。
一方、「雇船(やといぶね)」はその多くが他国船であり、大きく敦賀・越前新保・加賀などの北国海運関係と、大坂・塩飽(しわく)・備前西大寺・唐津などの瀬戸内海および北九州関係に分けることができ、それぞれ敦賀廻米、大坂廻米に多くが従事している。雇船が領主米市場と密接な関係があるということは、津軽弘前藩の領主米市場を大きく規定する条件でもあった。さらにこれら「雇船」は、積み荷の販売権を持たず、廻漕のみをその業務としており、敦賀・大坂に滞在する同藩の役人のもとで雇船契約が行われた。「雇船」による廻米もまた、領主主導によるものであったことがうかがわれる。
上方廻米の販売は、蔵元(くらもと)(蔵屋敷で蔵物の出納・販売をつかさどる役人)によって行われた。一般に、蔵元は初期には藩の役人がこれに当たり、寛永末ころから町人蔵元がそれに代わった。当藩の場合、遅くとも寛文期には町人蔵元がそれを担っていた。しかしながら、敦賀を廻着地とする上方廻米においては、国元から敦賀までの廻漕、敦賀の蔵宿、大津の蔵元と、流通機構が分断されていたこともあり、蔵元にとっては、決済が上方の相場で行われ、手数料収入しか得られず、隔地間の価格差によって利ざやを得られるほかの特産物と比べて有利ではなかった。このように、敦賀を廻着地とする上方市場への蔵米販売は、藩の主導のもと不安定な条件の下で行われていた。