万治三年(一六六〇)から翌寛文元年にかけて、材木の積み出しを求めた船頭で、地名を冠した者を拾ってみると、加賀二木・越後・加賀安宅(あたか)・十三・庄内・鰺ヶ沢・新保(越前)・越後今町と、津軽領内を除くと、おおむね越前より北の日本海沿岸域の船頭であった。一方、領内の船頭の場合、万治三年(一六六〇)七月に、十三の船頭甚兵衛は津軽弘前藩が上方市場での販売を目的とした、「御用木」を廻漕していたことが知られる。もちろん、この材木が十三湊から移出されたとはいえないが、十三川湊・中師(蟹田)・今別・小湊のいずれかの湊から移出されたものと思われる。ほかに、「御船頭」某が材木の移出を願い出たケースもある。「御船頭」とは、藩御用の船頭と考えられ、弘前城下に居住する船頭衆である可能性が高い。寛文元年(一六六一)八月には、「御舟頭源右衛門」なる人物が、江戸藩邸での御用、もしくは、販売を目的とした材木の廻漕を担っていた。津軽領内の材木は、大坂・上方のみならず、東廻海運・太平洋海運をも通じて流通していたのである。
さて、右にみてきた材木移出の形態も、寛文四年(一六六四)十二月十六日に十三山奉行へ宛てた、二〇ヵ条からなる「定」(『御定書』二六)により、体系的なものを指向するようになる。これは主に、十三湊からの材木移出と、山から材木を十三湊へ切り出す際の手続きとに分かれており、
などが定められた。これとほぼ同じ内容のものが、同日付で今別山奉行にも宛てられている(同前二五)。先にみた、寛文五年(一六六五)三月二十一日付で各沖横目に出された一連の「覚」では、十三・三馬屋・今別・内真部には、材木の移出に関する指示があり、これらの湊が、有力な木材積み出し湊としての位置づけを与えられていたことがわかる。また、寛文六年(一六六六)八月五日には、材木切り出しの地域を画定し、下の切(しものきり)から伐採して、外浜(そとがはま)には材木を出さないことにし、ほかは留山(とめやま)と定められた(『御定書』六九)。さらに、寛文九年(一六六九)十二月二十二日には、蟹田と十三の材木奉行に対して、役銀を徴収して町人請負による、留山以外の山地への出入りと材木の伐採を認め、藩営による材木切り出しの方針を変更した(同前一〇〇・一〇一)。これによって、十三・蟹田での材木切り出しと、各湊への材木集積はより効率的になった(ただし、この後藩は、山師たちの悪木の上納と、上木の隠し売買の摘発に追われることになる)。
延宝三年(一六七五)二月には、十三・今別・中野(中師か)などの材木移出価格が、材木の種類などに従って詳細に定められて(資料近世1No.一一三一)、その公定化が図られた。ここでは、各湊における「山方」「沖払(「山方」の二倍程度の価格)」の材木価格が定められているが、十三にのみ「囲(かこい)」の材木価格(「山方」の八割程度の価格)が定められている。「囲」とは、貯木場のことであり、十三には材木相場をにらんで、高値の時に移出できるようにする藩の貯木場が、設定されていたのである。このように、貯木場を設置して、価格変動に応じた材木の移出を可能にした十三湊は、同じように材木を移出する諸湊のなかでも、重要視されるものであったであろう。
このようにして津軽領内から移出された材木は、上方においては、蔵米と同じように現銀化可能な有力商品であった。蔵米と並び、材木の販売代金が、藩財政収入に大きく貢献していたと思われる。
図108.小館与介御用木沖口出切手