茨木屋の苦悩

429 ~ 432 / 765ページ
「宝暦四年甲戌御改革帳之写」によると、茨木屋からの借金は享保十年(一七二五)の二七四貫九〇三匁から始まっているが、津軽弘前藩の融資への返済が滞るようになったのは、延享から宝暦年間(一七四四~一七六三)にかけてのことで、この時期は一二貫から九〇〇貫まで、毎年のように借金が累積している。度重なる借金に茨木屋は悲鳴を上げ、再三蔵元を辞退したいと述べている。「茨木屋安右衛門安永年間御用達書上」(国史津)によると、元文三年(一七三八)の銀一一六九貫四三九匁余(銀六〇匁=金一両と換算して一万九四九〇両余)を貸し出したが返済されず、主人の弥次左衛門が津軽江戸まで行って督促をしているほどである。延享元年(一七四四)には、新藩主津軽信寧家督相続に伴う物入りや干ばつによる不作などで、七七三貫五四七匁余(一万二八九二両余)の債権が新たに生じた。また、寛延元年(一七四八)にも鴻池と合わせて六九〇〇両の融資をしている。さらにその翌年寛延二年は飢饉の年で、津軽から西館織部らが借金のため大坂まで出向き交渉を行い、断り切れなくなった茨木屋凶作廻米の当てのないまま九二九貫九六七匁(一万五四九九両)を再融資した。再三の借金に藩では弥次左衛門を呼び褒美として書物などを賜っているが、肝心の返済は翌年までに多少あっただけであった。こうした未返済額は宝暦四年(一七五四)には八万八三三九両にまで達したのである。寛延二年の飢饉では、弘前藩鴻池・佐藤からも併せて二〇〇貫を越える借金をしているが、両者とも延享年間から借金が累積してくるのは茨木屋と同じである。

図130.宝暦四年甲戌御改革帳之写
左側は上方の借財、右側は江戸の借財
目録を見る 精細画像で見る

 この年、勘定奉行釜萢(かまやち)兵左衛門は上方銀主との話し合いによって、金にして二四万両余の借財のうち約一四万両分の返済を無期延期とし、残り約一〇万両の返済についても三年間凍結することに成功した。
 しかし、翌宝暦五年の飢饉は、再び新たな借金を生じさせた。「大坂で他に借り入れ先がない」と、藩に泣きつかれた茨木屋は再び蔵元を引き受け、「御郡内御扶助米」として再び四三五貫四四一匁(七二五七両余)を融資した。宝暦七年から九年にかけて当主弥次右衛門が弘前江戸に行き返済の督促をしたが果たせず、弥次右衛門が亡くなった宝暦十一年(一七六一)には著しい困窮に追い詰められた。翌十二年、勘定奉行釜萢が来坂し、再び返済免除の申し出を行った。この結果、ついに茨木屋蔵元を辞退した。
 その後、茨木屋和三年(一七六六)の地震、安永四年(一七七五)の甲州御手伝普請などに次々と融資を行っており、「茨木屋安右衛門安永年間御用達書上」によると、安永末までに未返済額が六〇三九貫三九五匁(一〇万六五六両)にまで膨らんだ。藩では藩主名で蔵元の再着任を要請したが、茨木屋は天二年に自家の経済的困窮と藩の不誠実を理由に正式に断っている(「(茨木屋安右衛門大坂蔵元再勤被仰付候ニ付御断口上書)」国史津)。しかし、翌年の天飢饉においては藩の要請に対して再び融資に応じ、結局藩との関係は以後も続くのである。

図131.茨木屋安右衛門安永年間御用達書上

 もちろん、藩としてもこのような蔵元に頼る財政状況を当然のこととしていたのではない。宝暦改革では上方市場からの自立を目指していたが、実際には困難であった。「国日記」宝暦七年十一月二十日条(資料近世2No.三〇)によると、宝暦五年(一七五五)の飢饉蔵元の好意により無廻米で融資をしてくれたので乗り切ることができたと感謝しながらも、返済の見込みが立たないことを恐縮しており、同年の藩士知行蔵米化の処置も、かかる借財を軽減しようと導入したものであり、これにより銀主たちへの義理も立ち、また少々の貯えもできたと、自己評価している。しかし、今年限りで地方知行制に戻るので、少しでも寸志を送って銀主達の機嫌を損わないようにしたらどうか、と三組頭が家老へ具申している。
 宝暦五年の蔵米化凶作下という特殊事情もあったが、後で触れる安永三年(一七七四)の蔵米化はより直接的に財政難を理由に挙げた。さらに安永九年の知行三分の一借り上げに至っては、蔵元への廻米を確保するための手段として、知行借り上げが藩政遂行のためにはやむをえない処置(「宝暦七年より文化九年迄御自筆之写」弘図津)、と藩士に理解を求めたのである。