図130.宝暦四年甲戌御改革帳之写
左側は上方の借財、右側は江戸の借財
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この年、勘定奉行釜萢(かまやち)兵左衛門は上方の銀主との話し合いによって、金にして二四万両余の借財のうち約一四万両分の返済を無期延期とし、残り約一〇万両の返済についても三年間凍結することに成功した。
しかし、翌宝暦五年の飢饉は、再び新たな借金を生じさせた。「大坂で他に借り入れ先がない」と、藩に泣きつかれた茨木屋は再び蔵元を引き受け、「御郡内御扶助米」として再び四三五貫四四一匁(七二五七両余)を融資した。宝暦七年から九年にかけて当主弥次右衛門が弘前・江戸に行き返済の督促をしたが果たせず、弥次右衛門が亡くなった宝暦十一年(一七六一)には著しい困窮に追い詰められた。翌十二年、勘定奉行釜萢が来坂し、再び返済免除の申し出を行った。この結果、ついに茨木屋は蔵元を辞退した。
その後、茨木屋は明和三年(一七六六)の地震、安永四年(一七七五)の甲州御手伝普請などに次々と融資を行っており、「茨木屋安右衛門安永年間御用達銀高書上」によると、安永末までに未返済額が六〇三九貫三九五匁(一〇万六五六両)にまで膨らんだ。藩では藩主名で蔵元の再着任を要請したが、茨木屋は天明二年に自家の経済的困窮と藩の不誠実を理由に正式に断っている(「(茨木屋安右衛門大坂蔵元再勤被仰付候ニ付御断口上書)」国史津)。しかし、翌年の天明の飢饉においては藩の要請に対して再び融資に応じ、結局藩との関係は以後も続くのである。
図131.茨木屋安右衛門安永年間御用達銀高書上
もちろん、藩としてもこのような蔵元に頼る財政状況を当然のこととしていたのではない。宝暦改革では上方市場からの自立を目指していたが、実際には困難であった。「国日記」宝暦七年十一月二十日条(資料近世2No.三〇)によると、宝暦五年(一七五五)の飢饉が蔵元の好意により無廻米で融資をしてくれたので乗り切ることができたと感謝しながらも、返済の見込みが立たないことを恐縮しており、同年の藩士の知行蔵米化の処置も、かかる借財を軽減しようと導入したものであり、これにより銀主たちへの義理も立ち、また少々の貯えもできたと、自己評価している。しかし、今年限りで地方知行制に戻るので、少しでも寸志を送って銀主達の機嫌を損わないようにしたらどうか、と三組頭が家老へ具申している。
宝暦五年の蔵米化は凶作下という特殊事情もあったが、後で触れる安永三年(一七七四)の蔵米化はより直接的に財政難を理由に挙げた。さらに安永九年の知行三分の一借り上げに至っては、蔵元への廻米を確保するための手段として、知行借り上げが藩政遂行のためにはやむをえない処置(「宝暦七年より文化九年迄御自筆之写」弘図津)、と藩士に理解を求めたのである。