寺社政策

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宝暦改革寺社をもその対象とした。乳井貢寺社の在り方についての考え方や、当時の寺社の状況、そして何より、前述した経済政策をはじめとして、領内全体を対象としなくてはならない改革の特質から、寺社のみを例外とするわけにはいかなかった。むしろ、寺社財政の再建と社家・僧侶の生活の建て直しもまた、藩財政再建策の一環としてあったといえる。「高岡霊験記(たかおかれいげんき)」は照(たかてる)神社の祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)が、宝暦改革の顚末(てんまつ)を記録したものであるが、その内容が、乳井の政策に対して極めて批判的であることで知られている。それは、四代藩主信政(のぶまさ)を祀(まつ)り、領内で最の権威を誇る高照神社に対しても例外を認めず、他社と同様に扱い、その経済的・機的統制と、役務(やくむ)の徹底した履行を、乳井が強制してきたことによる。高照神社においても知行地蔵入りとなって標符渡しとなった。宝物は没収され、社堂の修復は途中で止められ、神田は悪田に取り替えられ、諸経費は削減された(資料近世1No.九六三)(以下、主に長谷川成一「津軽宝暦改革の一断面―寺社政策を中心に―」『転換期北奥藩の政治と思想―津軽宝暦改革の研究―』平成三年度科学研究費補助金研究成果報告書 一九九三年 による)。

図143.高岡霊験記
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 改革当初の基本的な方針は、藩財政再建策の一環としての寺社財政の建て直しであり、その前提としての勘定所惣調御用は寺社に対しても徹底して行われた(資料近世1No.八九七)。併せて藩は、宝暦三年(一七五三)十二月、「一宗切」に、領内の各寺社における堂塔とその預かり主、および所持者の判しない寺院や宮社の提出を求め、その掌握を図った(同前No.九六二)。同四年閏二月二十七日の寺社奉行から諸寺院に出された「御廻状」によれば、本寺への修行等のため留守居を置いている寺庵や、種々の理由で無住となっている寺庵までも書き上げさせており、調査は厳重に行われたようである(同前)。それではなぜ、このように領内寺社の軒数・員数改めが徹底してなされたのであろうか。その背景には、家中町・在への対応と同様に、藩からの借用分や上納金の未納分についての整理を、寺社においても行うという改革の方針があった(同前No.九〇〇)。同四年正月三日の廻状(同前No.九六二)によれば、拝借金の滞納については、禄高や新旧などに応じて五分の一から百分の一の上納を命じ、それ以外は残らず棒引きとするものであり、そのための判断材料として、細部にわたる調査と掌握が必要だったのである。この段階で、家臣団町・在とともに藩庁の債務から解放されたのであり、寺社財政の再建と社家・僧侶の生活の建て直しが目指され、あわせてその調査過程や書き上げの督促を通して、領内寺社の統制が図られることとなった。
 その上で、藩は領内寺社に対して、その最も重要な役務は、藩の安泰と藩主家の繁栄、そして五穀成就の祈祷を行うことであるという認識を再確認させている。そして、祈祷に専念させるために、今後臨時の祈祷料などの支給に関しては寺社奉行が直接行い、また堂塔の修復についても財政面を考慮しながら藩が責任をもって行うこととした(資料近世1No.九一四)。
 さて、宝暦五年の飢饉を経て、困窮化した寺社は、本来の役務である祈祷をおろそかにし、生活の維持のために、従来禁止されている農業従事や宮社の譲渡などを行うようになった。また、従来の組織に属さない宗教活動が村落においてみられるようになったことから、藩は中央の本寺(ほんじ)・触頭(ふれがしら)とのつながりを確認しながら、領内寺社の支配系統を再掌握し、その支配系統によって強力な支配統制を行うこととした。社家においては、惣禄所(そうろくじょ)最勝院社家頭(しゃけがしら)八幡宮小野家・熊野宮長利(おさり)家の支配が強化され、藩庁はむしろ間接的な支配を行うようになっていった。ある意味では、新たな支配系統の築であり、再編成であった(資料近世1No.九六二)。

図144.高照神社

 この時期、藩の都市政策の一環としての弘前城下屋敷改めのなかで、境内・寺社地の屋敷改めも全領的に実施された。また、寺社門前町方町奉行への移管替えも行われ、町方支配の合理化が図られた。この寺社を含む弘前城下屋敷改めの事業はその後も継続され、宝暦七年二月には「建家絵図」の作成も命じられている。宝暦期の城下については、第五章第一節を参照されたい。