下級藩士への開発奨励(I期)

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四年(一七八四)十二月二十八日、最初の土着令大目付触れで出された(資料近世2No.七〇)・年内に出されたのは、翌年の耕作に間に合わせようとしたためである。その内容は次のように整理される。
(1)四代藩主信政が定めた城下集住策に背くものの、廃田の開発は奉公同様「国益之筋」にかなう。

(2)その動向は、家中内部にすでにみられる。

(3)家中勝手次第の申し出により、禄高に応じて土地を割り当て、在宅を申し付ける。

(4)しかし財政難の折から、引っ越しその他の入用については一切援助はせず、在宅のいかなる不都合にも何ら藩は関与しない。

(5)その代わり、来秋の収穫までは扶持米や手当銭はこれまでどおりとし、勤仕についても来年一年間は容赦する。

(6)在宅した以上は各人の利欲に走ることなく、農村荒廃を導く行為をしてはならない。

以上の内容からその特質を導くならば、次のようになろう。
家中各人の申し出による廃田開発を公認したということであり、惣家中による取り組みとはいえないこと。

②「御給禄之ニ応し地面割渡」とあることから、切米取金給藩士=下級藩士がこの触れの対象となっていること。

③したがって「国益之筋」に当たるとはするものの、土着に積極的政策効果を求めたものではなく、下級藩士が自ら廃田開発に従事することによって、その再生産を確保していくことを奨励したものであるととらえられること。

等である。
 しかし、家中への耕作従事を奨励する藩の働きかけは、この天四年令が最初ではなかった。安永九年(一七八〇)六月二十六日に家中三ヶ一借り上げが命じられた時に(資料近世2No.四二)、特に「小身之者へ」として出された「御自筆」によれば、東照宮(徳川家康)が三河在城の時代、その家臣たちが自ら鋤(すき)・鍬(くわ)を取って妻子を養っていたことが古記にみえ、その子孫の多くは旗本となっている。困窮の節に鋤・鍬を取ることは恥辱ではないのであるから、この三年間、自らの手足を労してしのぎ両親や妻子を養うことは、もっともなことである、と訓諭している。農耕従事によって、小給の下級家臣らの困窮脱却を企図したものであり、天四年令と本質的な違いはない。天四年令では、それを「在宅」によって、そして藩の認可によって行おうとしたのであり、したがってそこに、勤仕や給禄に関する藩としての方針が盛られたわけである。
 また、藩士が開発に従事するという点については、弘前藩における新田開発の在り方にその底流があるということが指摘されている(浅倉前掲書)。いわゆる藩政初期の新田開発の推進力となった「小知行派立(こちぎょうはだち)」と「御蔵派立(おくらはだち)」による開発である。「小知行派立」は、耕作が可能となった土地を、藩が新たに取り立てた「小知行」により耕作を行うものである。つまり「小知行」は開発の功によってその土地を知行地として与えられ、郷足軽からさらに上級の藩士に取り立てられる存在であり、津軽弘前藩における家臣団編成の特徴的存在であった。つまり、藩士、特に小給藩士の多くは「小知行」として開発に当たった系譜を有していたということである。また「御蔵派立」は、「御蔵百姓」が耕作者の場合の開発をいい、「小知行派立」と区別されている。ただし、この「御蔵派立」さえも、地方(じかた)の給人や「小知行」の開発申し立てによって行われ、「小知行派立」同様に小知行らの個々の開発のうえに展開したものであるという指摘もなされている(『五所川原市史』通史編1)。
 藩が小給の下級藩士たちに対し、自ら鋤・鍬をもっての開発を、その申し出によって、しかも禄高に応じて土地を割り付けたのは、まさに「小知行派立」によって藩の新田開発がなされてきたという藩当局の認識がそこにあったことを示している。藩士土着策をみていくうえで見逃せない特質といえる。
 なお、この時期の廃田開発(はいでんかいはつ)について若干触れておくと、藩はその開発を上層農の手で推進しようとしていたことが、天七年(一七八七)の大庄屋制(おおじょうやせい)の復活によって知られる。これについてはすでに本章第一節三(二)で触れたところであるが、天五年二月に代官を半減して大庄屋を一七人任命、三月にはさらに一二人を大庄屋に取り立てている。その任務は百姓取り締まりと廃田開発にあったことから、上層農を機的に組み込んだ廃田開発の中で天四年令は出されたのであり、したがって、弘前藩新田開発の特質を背景として下級家臣による開発が強調されたのである。