さらに文化五年十二月に入って、幕府は盛岡・津軽弘前の両藩に東西蝦夷地の恒久的警備を命じ、南部利敬(としたか)は二〇万石に、津軽寧親は一〇万石とした(同前No.九五)。領土を増したわけではなく、それに応じた軍役(ぐんやく)を負担させたわけであるが、両家としては家格が上がったことになる。幕府はそのときに、すでに従四位下(じゅしのげ)であった利敬を侍従(じじゅう)に任じ、寧親を従四位下に叙した。それにしたがい、家臣団の呼称は、「津軽家中」から「弘前家中」へと変更したという(同前No.九六)。七万石の時と同様、高直りの一〇万石には領地の拡大はなく、これまでどおり、津軽郡一円の領知であった。藩祖為信を除いて、二代信枚以来、代々、従五位下の官位が続いた津軽家にとって、二〇〇年ぶりの昇進であった。
四位(しい)ともなれば、江戸城内で大広間詰(おおひろまづ)めとなり、城中の待遇も従来とは異なって世間の目も違うことから、藩主と側近にいる重臣、上士にとっては、この上ない慶事であった。しかし、一般家中や領民にとっては迷惑なことであったに違いない。領地が元どおりなので、家士への加増は、ほとんどなかったし、蝦夷地警備などの軍事費に食われて藩財政が窮迫し、過重な軍役の賦課などにより、百姓に至るまで負担が増大したのである。例えば津軽家の蝦夷地出兵費は、年間に一万両から一万五〇〇〇両。エトロフの戦いによって大がかりに出兵した文化四年と翌五年には、膨大な出費に至ったという。さらに、弘前城内外の補強、海岸での台場(だいば)の建設、武器の製造、軍事調練などにも、大金が必要であった。
藩主寧親は、一〇万石への高直りを機会に、弘前城天守の再興を企図した。従来の天守は、小さくて見通しがきかず、実戦の用に立たないとの理由で、幕府に申請した。幕府からは「辰巳矢倉(たつみやぐら)」の改築ならば差し支えないとの回答を得て、文化六年春、土台づくりから普請を開始し、六月には完成して本体の工事にとりかかった。翌文化七年七月、家老の津軽監物(けんもつ)の総指揮により、人夫多数を動員して工事を進めた。天守の普請作事には四〇〇〇両が見込まれ、藩費の支出以外に、家中に手伝い人夫を差し出させた。禄高一〇〇石につき一ヵ年に一〇人ずつの割合であった。そのほか下級藩士、町人、百姓がかり出された。文化八年三月初めに天守は竣工(資料近世2五八三・五八四頁)。辰巳矢倉を改築したことになっているが、このように実態はまったくの新築であった。これが、現存する三層の天守である。
図161.明治期の弘前城天守