この年、藩は五穀の買い上げを十月一日から開始、自由な売買を堅く禁止し、違反する者は双方欠所という厳しい姿勢で臨んだ。藩は領内各地に「御買〆(かいしめ)所」を設け、「御買上役人」を二~三人ずつ配置し、穀物の集荷・販売を担当させた。油川・藤崎・板柳・木造・深浦は二ヵ所、青森は三ヵ所置かれた。(「国日記」天保八年十二月十七日条)。御買〆所から払い下げを受け、町方・村方に販売するのが、弘前と在方各町村に置かれた「米穀商売之者」であり、彼らを統括したのが弘前の「御用達商人」であった。米穀商人は九月下旬の時点で、弘前で二九人、在方で約一五〇人の者が任命され、その後も買い上げの進行に伴い、順次増員された。
百姓は買い上げ役人へ買い上げされる米の分量を書いた手形を提出し、買い上げ役人はそれをもとに買い上げ代金を記載した買い上げ手形を作成し、御用達に提出した。御用達は月ごとに手形を最終的に御元方勘定奉行へ渡すことになっていた。一方、代金は御用達から買い上げ役人を通じて百姓へ渡された。買い上げの値段は、上中下にランク分けされ、一俵当たり米三〇匁~二八匁、餅米三五匁~三三匁、大豆一六匁~一四匁、小豆三三匁~二一匁、大麦一三匁、小豆二八匁、蕎麦一三匁、稗一〇匁などとなっていた(同前天保八年九月二十八日条)。その後、等級制は十一月五日に至って廃止され、単一の値段に改められた。もっとも、両浜は弘前より物価が高いとして、地域による調整は行われた(同前)。一方、藩が決めた販売の公定価格は米一俵=七〇匁であった(同前天保八年十一月四日条)、鰺ヶ沢の例でいうと、上層・下層民の区別なく一人一日五合に限って米穀商売の者から「通帳」をもって購入させている(同前天保八年十二月二十二日条)。
藩庁は領内全体で一〇万俵の買い上げを目標にし(『永宝日記』)、さらに「御備籾」として、弘前に四万俵、在方に三万俵の備蓄を考えていた。しかし、天保八年は平年の三分の二ほどの不作で、思うように購入は進まなかった。『永宝日記』の筆者の地元、種里村(現鰺ヶ沢町)にも三七八俵の割り当てがきたが、一〇俵も集まらなかったという。特に、「油川より上磯通野内より浅虫」は稗田も廃田が多く、売れるような米もない状態で、購入できなくても、買い上げ役人の責任は不問にされるという状況だった(同前天保八年十一月十一日条)。隠れ売買も後を絶たず、肝心の藩が購入する米が不足になる懸念があるので、厳重に取り締まるよう命じられている(同前)。領内の豪商農は「銘々勝手」に売買の値段を定める状態で、米価の値段は上がり下層民は難渋した。
このような状況下で、十二月末、藩はついに御買〆所による米の集荷をあきらめ、「相対」での販売を復活させるに至る。その一方で、藩は十二月二十八日には御蔵米の値段を安値に放出して米価を下げようとしたり、翌二十九日には青森町で下層民の動揺を恐れて、町奉行の判断で一五〇俵の小売用の米を確保したりしているが、手形発行の前提になる領内米穀買い上げの不調は、手形自身の信用を失墜せしめる一因となった。それでも藩は預手形の流通にこだわり、町奉行が米穀の実勢相場にかんがみて、正金銭と手形を併せて通用させ、一俵=一〇〇匁で販売したらどうかと具申した際も、購入に頼る者が難渋するといって、手形だけの通用で定価で販売させるようきつく申し付けた(同前天保九年一月十一日条)。
しかし、その後は積極的な施策はみられず、買米制度の一つの目的である凶荒対策も放棄した感がある。買〆所を廃止した結果、今別・三厩両町の者は小売り米が払底し、青森からの米穀も藩の政策にかかわらず、正金銭でなければ購入できないため、町方の者が難渋に及んでしまうということで、今別町奉行が青森御蔵からの蔵米五〇〇俵の払い下げを嘆願している。しかし、藩庁はこの願い出を財政難を理由に却下し、材木や海草を他領に売ることで、米の手配をするよう、いわば町奉行所による自力救済を求めているのである(「国日記」天保九年一月二十八日条)。城下町の弘前でも小売米が減少し、町奉行が御蔵米四〇〇俵の払い下げを求めた際も、町の有力者が自分自身で他国から米を購入して、四月までに返済するように条件を付けている(同前天保九年一月十一日条)。本来、藩が行うべき買越米の購入・配給も他人事のような扱いである。実際、二月三日の段階で、藩は江戸に一万石、大坂に五〇〇〇石の不払いの廻米を抱えたままで、買い入れの目処(めど)も立たず、領内の米穀の流通を管理しようとした買米制の趣旨は事実上破綻(はたん)した。