金木屋日記にみる対外危機

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ペリーの来航という浦賀で起きた事件は、その衝撃がよほど大きかったためか、はるかに離れた津軽にもいちはやく情報がもたらされた。嘉永六年当時、弘前市域の郊外賀田(よした)(現岩木町賀田)に居住していた有力商人金木屋又三郎は、「金木屋日記」同年六月二十二日条でこの一報を、まだ詳しいことはわからないとしながらも、おおむね次のように記している(以下は資料近世2No.一九四)。当月三日、相州(そうしゅう)浦賀へ一万石位積の船五艘が入港したが、その時諸大名は江戸城中で能(のう)を見物中であり、能が終わってからどう対処するかの評定(ひょうじょう)がもたれた。五艘の船はイギリス船らしく、帆柱の上から煙の出ている船一艘があり、どのような用向きか、国王に面会のうえ、申すべき事があるという風説である。浦賀警備のため津軽家では用人本多東作と者頭(ものがしら)土岐渡人(わたんど)が大将となって、川崎弁天の近くの砂浦という所に動員がかけられ、南部家は品川詰めを命じられたという。また、翌二十三日条では、家中の者は皆ペリー来航の話でもちきりで、浦賀には七~八年前にも異国船が来航しており、今後も三〇艘ほどの船が来るという噂で江戸では大騒ぎになっている由である。
 この他にも又三郎はアメリカについて見聞したことを書き留めている。たとえば七月十九日の条では、アメリカという国は「中々大世界」で、日本の東にあり、国土は一〇〇倍もあると、人からみせてもらった世界地図をのぞき込みながら驚いている。さらに嘉永六年の大晦日では、江戸表の異国船騒動に関しての戯(ざ)れ唄が記載されているが、「一、阿部(老中阿部正弘)の御世話で水さん(水斉昭(なりあき))が出たよ、(中略)一、あまり騒かしさのまゝに、水隠居さんをちよいと(ちょいと)かりて登城させたり よいや 又止めさしても見たり(後略)」といった数え歌は、中央政界の混乱を面白おかしく表現している。

図192.掌中萬國圖

 ただ、又三郎は時勢を第三者的に傍観していたわけでもなかった。異国船の接近は藩の沿岸警備に直結するのであり、出兵には米がなくては多大な支障が出る。藩では大坂方面から買越米(かいこしまい)を手配したが、年末になってもまだ廻米がなされず、このままでは商売や藩の御用も進退きわまると又三郎は心配している(嘉永六年十二月九日条)。さらに、列強の東洋侵略に対しても、清国の天子は敗北して北から故地の満州に逃げ込んだが、我が国では神武をもって異国船を「鏖(みなごろし)」にできるように祈念しているとの、江戸表の風聞を書き留めている(同年十二月二十一日条)。
 このような危機感はアメリカやイギリスに対してだけでなく、寛政年間よりたびたび北辺を脅かしてきたロシアにも向けられていた。又三郎の日記にはロシアが松前奥地カラフトに侵入し、地元民に漁業をさせているため、松前家の人数が宗谷(そうや)に派されているが、季節が冬になったため海峡を渡れないでいるという記事がみえる(嘉永六年十一月二十五日条)。続いて日記では、松前家はこの派兵のため足軽を新規に三〇〇人ほど雇い、軍備に支障が出ないようにしているが、津軽家でも蝦夷地警備のため足軽の待遇改善に努め、家禄二〇俵の者を三〇俵にしたり、御持鑓(おもちやり)や長柄(ながえ)の者を足軽に取り立てているという。また、藩ではこのころ武器調を実施し、次、三男や「御ゐ者(甥者)」までも男子調を行い、盛んに鉄砲を習うように指導し、古学校を拝借して道場とし、弾薬や弾丸製造まで行っていると記している。さらに、金木屋には秋田藩の郷士日影(ごうしひかげ)八右衛門が陣羽織七枚を買いに訪れ、津軽家重臣大道寺家に行って具足を手に入れようとしたが、断られたとある。秋田家では蝦夷地警備の軍役が領内の全郷士にまで賦課され、あちこちで武器を買い整えようとする姿がみられたという。こうなると、ペリー来航の際、江戸表の武士たちがあわてふためいて武器・甲胄を買い求めて、庶民の失笑を買ったという姿が彷彿(ほうふつ)とされ、北奥でも深刻な危機的状況が進行していたことがわかる。

図193.アメリカ人船頭の図