津軽家霊屋の最初に建てられていた為信室の霊屋、環月台は、寛文十二年(一六七二)に再建された。
また岩木山神社の本殿・奥門・瑞垣(みずがき)・中門は、下居宮(おりいのみや)として日光東照宮に倣って造られたもので、いまでも「奥の日光」という呼び名が生きているようである。『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』には、「貞享四年(一六八七)が将軍綱吉の四十二歳の厄年に当たっており、各大名が江戸神田の知足院(ちそくいん)において最在を奉して祈祷(きとう)した」ことが記されており、四代信政は、信志をもって岩木山下居宮を造営したのであった。貞享三年(一六八六)から元禄七年(一六九四)までの九年間の歳月をかけており、現状の構造手法からも、装飾類を重視した建築であることや、津軽に散在する建築と比較しても異種のものであることなどから、日光東照宮を範として建造されたものとみられる。
本殿は、軸部の全面を黒漆塗りとしており、各所に金箔押しをし、彫刻類はすべて極彩色を用いたほか、飾り金具を多用し、屋根は軒唐破風(のきからはふ)と千鳥破風(ちどりはふ)とを構えており、向拝柱には龍を取り付けているなど、きわめて正面性を重視した建築である。内部は内・外陣に分けられて、外陣の天井には丸龍を描き、内陣は、箔押し貼り壁の技法を用いて、その天井には迦陵頻伽(かりょうびんが)を左右に描いて仏教的雰囲気も感じられるようにしている。
奥門は向唐門(むかいからもん)の形式で本殿の前方にあり、黒漆塗りの建造物である。この両側から本殿を一周する瑞垣とともに下居宮の一環として同じような技法で造られたものである。
中門は、その位置が変わっていて、百沢寺大堂(本堂 現拝殿)の前に建ち、文化財指定に遅れた経緯を持っている。これも同様に黒漆塗りを基調としており、彫刻にはすべて極彩色を用い、本殿や奧門とともに豪華絢爛たる意匠を示している。
巖鬼山(がんきさん)神社の本殿は、保存されている元禄四年(一六九一)の棟札に「――十一面観世音精舎一宇(じゅういちめんかんぜおんしょうしゃいちう)――」とあるように、当初は観音堂であったが、明治になってその前面に拝殿を造って、神社本殿へと変化してゆく様子を端的に示している。ここの拳鼻(こぶしばな)付き平三斗(ひらみつと)や、内部の厨子にみられる台輪から頭貫鼻(かしらぬきはな)までの部分にも、珍しい地方色が見受けられる。
袋宮寺(たいぐうじ)の本堂は、元来は報恩寺(ほうおんじ)の無量院観音堂であった。その建立は宝永元年(一七〇四)であることが保存されている棟札によって知られ、報恩寺本堂と同時に造られたものであった。袋宮寺は天台宗の寺院であり、元来は樋の口の「熊野神社」の別当寺であったが、明治に廃止された後、現在地の報恩寺に所属していた観音堂を本堂として用いた。三間に裳階(もこし)付きという形態や大斗(だいと)に実肘木(さねひじき)という技法などがみられ、地方色の濃いものとなった。
報恩寺は、三代信義の菩提寺として創建された天台宗の寺院であり、その五〇回忌に当たって再建されたのが現本堂である。格式の高さとともに古い形式の採用されているところが興味を引く。先の観音堂と同じく棟札を保存しており、宝永元年(一七〇四)の建立。
久祥院殿(きゅうしょういんでん)の位牌堂(いはいどう)(隣松寺(りんしょうじ))は、建築ではないが、建築型の一間厨子の形を示しており、宝形造(ほうぎょうづくり)木瓦葺の屋根を載せて、正面には軒唐破風を付け、屋根の頂部には露盤宝珠(ろばんほうじゅ)を載せている。地方色が豊かで、建造物として県重宝に指定されている。元禄年間(一六八八~一七〇四)に四代信政が、その実母である久祥院殿のために造らせて、隣松寺へ寄進した。
高照(たかてる)神社の本殿・中門・拝殿および幣殿(へいでん)・随神門(ずいしんもん)は、四代信政が神式で埋葬された宮であり、五代信寿によって、吉川神道の思想に基づいて建造されたといわれ、神社形式としては珍しい。
本殿は、棟札などは発見されておらず、信政の没年などから推して正徳元年(一七一一)から二年にかけて造営されたようである。これは境内仏堂としてある三間堂であり、それに入母屋造こけら葺の屋根に千鳥破風を載せて、さらに一段低くして一間の向唐破風の向拝を付け、外部は丹塗りであるが内部は素木造である。中央にやはり素木造の内御堂を置いて信政を祀っているが、全体に木割が太めであり、その辺にも地方色をみることができそうである。
中門は一間一戸の平唐門(ひらからもん)であり、形の良い門である。また、本殿向拝からこの中門までと、中門から幣殿まで、石敷きの床に連子窓(れんじまど)を連ねた長い廊下が設けられているが、柱間寸法からみて、石敷きは別にしても、廊下は近年の造作かと思われる。
拝殿および幣殿は一体となっている建造物であるが、ここに保存された拝殿の棟札には、幣殿のことはいっさいなく拝殿のことだけが記されており、その構造手法も異なったものがある。拝殿の建立はやや遅れて、正徳五年(一七一五)という。七間に三間という大規模の拝殿であり、屋根はこけら葺の入母屋造、内外ともに丹塗りが施されており、正面には千鳥破風が載りさらに軒唐破風の付いた三間の向拝が付いている。「幣殿」はこの後ろに突き出た形で、一間に二間で、切妻造(きりづまづくり)こけら葺の屋根が載せられている。
図238.高照神社拝殿
随神門は県内では珍しく三間一戸の八脚門(やつあしもん)であり、切妻造の鉄板葺きである。拝殿とほぼ同時期の築造とみられ、構造手法も同一であり、均整もよく保たれている。なぜか県指定に遅れて指定されており、いまだに鉄板葺きである。
本行寺(ほんぎょうじ)の護国堂(ごこくどう)は、寺蔵の記録では、七代信寧(のぶやす)(「勝之助」)誕生の際の霊験が顕著であったために寄進されたものという。寺伝では享保元年(一七一六)か二年と伝えているが、信寧の誕生からすると、元文二年(一七三七)あるいは四年であり、そのころの建立らしい。華麗な荘厳形式がなされていた三間仏堂であったことがうかがわれる。
誓願寺(せいがんじ)の山門は特異な形態を示している門である。平面にみる柱の配置などは一般の四脚門と変わりないが、切妻造こけら葺の屋根を妻入に載せており、さらに招破風(まねきはふ)を両側に付け加えており、まったく特徴的な姿をみせている。旧大光寺村から移されたとの伝えもあるようだが、江戸時代中期の築造らしい。
図239.誓願寺山門