本県の戦後における最初の発掘調査は、昭和二十二年(一九四七)八月に中島寿雄(なかじまとしお)(資源科学研究所)が、七戸町の成田券治と共同で、同町の大林遺跡(旧砂子田盛喜山竪穴遺跡)を調査し、土師器等の遺物を発見しているが報告書は未刊である。中島はさらに、八幡一郎と中島全二の協力を得て、下北の田名部町(現むつ市)最花(さいばな)貝塚を同年十一月に発掘し、翌年の十月には慶応大学の江坂輝彌も参加して、縄文時代中期末の最花式土器をはじめ竪穴住居跡一棟を発掘した。なお、伸展葬(しんてんそう)の人骨一体と頭骨も出土したといわれる(67)。
本県の調査は、翌昭和二十四年(一九四九)から各地で行われ、四月には小野忠明(おのただあきら)(一九〇三~一九九四)が平内町郷土史研究会とともに、同町小湊(こみなと)の下槻(槻ノ木(つきのき))遺跡を発掘し、縄文時代晩期の遺物を多数発見した(68)。また江坂輝彌は、六月から十一月にかけ、青森市をはじめ下北半島や上北郡下での遺跡の発掘を行い、おもに縄文時代早期と晩期のほか、続縄文期(江別(えべつ)式)に属する遺跡を調査した。その成果を翌年(昭和二十五)の五月から「縄文式文化について」と題し、『歴史評論』に掲載を始めた。なおこのシリーズは、翌々年(昭和二十六)十二月まで一三回にわたり掲載されている(69)。
昭和二十四年(一九四九)一月二十六日、法隆寺の金堂が焼失し内部にあった壁画も被害を受けた。これを契機に、文化財保護の必要性が打ち出され、昭和二十五年(一九五〇)五月三十日文化財保護法の制定を迎える。
昭和二十五年(一九五〇)になると、酒詰仲男(さかづめなかお)主催の土曜会が『貝塚』を復刊させ、その復刊最初の二四号(五月)には、江坂がさきに下北で発掘した縄文時代早期の成果を発表した(70)。また、同誌の二七号(九月)には橘善光(たちばなよしみつ)が、現在ハワイのビショップ博物館に在勤の篠遠喜彦(しのとうよしひこ)と連名で、下北の脇野沢村瀬野(せの)遺跡について報告し(71)、同年十一月には中島全二が「下北における縄文文化の編年」を(72)、江坂輝彌は「尻屋の物見台(ものみだい)遺跡について」を『考古学雑誌』にそれぞれ発表した(73)。
一方、同年の発掘調査は、県教育委員会社会教育課長であった横山武夫(一九〇一~一九八九)や青森市の開業医で県文化財専門委員の任にあった成田彦栄(なりたひこえい)(一八九八~一九五九)の後援を受けて、藤田亮策(ふじたりょうさく)(一八九二~一九六〇、東京芸術大学教授)と慶応大学の清水潤三(しみずじゅんぞう)(一九一七~一九八八)が、七~八月にかけ亀ヶ岡をはじめ、平内町下槻・青森市の宮田(長森)等の遺跡を発掘し(74)、翌昭和二十六年(一九五一)も亀ヶ岡を除く同じ二遺跡を調査して、亀ヶ岡文化の実態把握に力を注いだ(75)。これに対し江坂は、下北とともに八戸市方面にも意を注ぎ、音喜多富寿(おときたとみじゅ)(一九〇五~一九七五)や市川金丸(いちかわかねまる)の後援を得ながら、白浜(しらはま)をはじめ縄文時代早期の遺跡を発掘し(76)、翌年(昭和二十七)四月に刊行の『古代学』に載せ、「日本始原文化の起源問題」に関する裏付け資料の確保に努めていたのである(77)。
成田彦栄
(江坂輝彌氏提供)
音喜多富寿
慶応大学によるこれらの調査に対し、早稲田大学は一歩遅れながらも、昭和二十六年(一九五一)八月、岩木山麓の森田村床舞にある石神(いしがみ)・カメコ山、大館の八重菊(やえぎく)等の諸遺跡を、駒井和愛(こまいかずちか)(一九〇五~一九七一、東京大学教授)と滝口宏(たきぐちひろし)(一九一〇~一九九二)の指導で発掘し(78)、昭和二十九年(一九五四)まで西村正衛(にしむらまさえ)(一九一五~一九九五)・桜井清彦(さくらいきよひこ)と担当者は交代しながらも継続されたのである(79)。
在京の研究者が本県をフィールドとしながら活躍するのに比し、本県の調査体制は整わなかった。わずかに昭和二十六年(一九五一)七月、金木考古学会が中里町深郷田遺跡を、昭和二十七年(一九五二)五月、弘前市の成田末五郎(なりたすえごろう)(一八九五~一九七九)と戸沢武(とざわたけし)が鯵ヶ沢町長平(ながだい)町の谷口平安時代竪穴住居跡を、十月には七戸町の成田券治が同町左組(さぐみ)ソガモリを、十一月には成田彦栄が青森市の三内丸山(さんないまるやま)遺跡を調査している(80)。
成田末五郎
昭和二十八年(一九五三)になると県内で一二遺跡が発掘調査され、そのうち一〇遺跡が在京の研究者によって行われている。そのなかでも六月に、明治大学の杉原荘介(すぎはらそうすけ)(一九一三~一九八三)が中心となって実施した金木(かなぎ)町藤枝(ふじえだ)溜池岸辺の砂礫層で、旧石器に類する偽石器なるものが発見され物議を醸した(81)。このほか、縄文時代に関するおもな調査は、下北の田名部町(現むつ市)にある女館貝塚が江坂輝彌により(82)(四月)、青森市三内丸山は清水潤三と成田彦栄が(83)(十月)、浪岡町細野は滝口宏・西村正衛(十一月)によってそれぞれ調査がなされ(84)、土師器・擦文(さつもん)等の遺物は、桜井清彦が市浦村十三の中島(なかじま)などの遺跡で発掘している。
さきに、江坂輝彌が縄文時代早期文化の解明に努力していたが、東京大学の佐藤達夫(さとうたつお)(一九二五~一九七七)も、二本柳正一(一九二一~一九八九)の協力を得て、小川原湖周辺を中心に縄文時代早期文化の研究に挑戦した。昭和二十八年(一九五三)から昭和三十三年(一九五八)にかけ、夏季を利用して上北郡六ヶ所村倉内(くらうち)の唐貝地貝塚を調査し(85)、昭和三十一年(一九五六)と昭和三十三年(一九五八)には、三沢市早稲田(わせだ)貝塚を野辺地町の角鹿扇三(つのかせんぞう)(一八八八~一九八〇)を加えて調査を進め(86)、その成果を『考古学雑誌』四三巻二号(一九五七年)と四三巻三号(一九五八年)に発表した。
昭和二十九年(一九五四)には、成田末五郎が中心となり、八幡一郎・今井冨士雄(弘前市出身、当時成城大学講師)の協力を得て、中津軽郡相馬村の白山堂(はくさんどう)遺跡を調査し(七月)、縄文時代晩期前葉の遺物を多数発見(87)。慶応大学の清水潤三は、下北の東通(ひがしどおり)村尻屋札地(しりやふだち)遺跡において環状列石等を発見(88)(七~八月)、江坂輝彌は近くのムシリB遺跡で縄文時代早期のムシリ式土器を発掘し(89)(八月)、続いて音喜多富寿・小井田幸哉(こいだゆきや)のほかに市川金丸・栗村知弘(くりむらともひろ)等の協力により、八戸市新井田(にいだ)館平遺跡において早期の前葉に属する土器等を発見(八月)した(90)。早稲田大学では、桜井清彦が津軽半島をフィールドとして、市浦村相内の鰊崎(にしんざき)・岩井(いわい)・赤坂等を調査した(八月)。特に鰊崎では、平安時代の竪穴住居跡二棟と井戸跡を発見している(91)。
昭和三十年(一九五五)を迎え、清水潤三を中心とする慶応大学の一行は、津軽半島突端に近い三厩村宇鉄(三月)と、今別町上山崎(八月)・青森市三内丸山(八月)等の遺跡を調査し、宇鉄と上山崎では縄文時代晩期、三内丸山では同時代の前期および中期、札地(ふだち)で同時代後期の遺物を多数発見した。また、江坂輝彌は、前年度に引き続き八戸市新井田館平遺跡(八月)、同市妙(みょう)に所在する同時代前期末の蟹沢(かにさわ)遺跡(八月)をはじめ、前年に続いて三戸郡名川町平虚空蔵(たいらこくうぞう)貝塚(八月)を発掘した。特に、蟹沢遺跡は早慶両大学の合同調査の形で行われ、これを契機として、前期末の円筒下層式土器がd1・d2の二形式に分類されたのである。一方の平虚空蔵貝塚は、内陸部にある縄文時代晩期の淡水性貝塚であり、数種類の骨角器を多数発見した。
この年、東京大学東洋文化研究所は、江上波夫・関野雄に早稲田大学の桜井清彦も加わり、津軽半島の十三湖北岸にある市浦村福島城跡と鰊崎遺跡を発掘し、前者では門と井戸跡を発見している(92)。
昭和三十一年(一九五六)は、本県における弥生文化存在の扉が開かれ始めた年であった。この年、南津軽郡田舎館村内で耕地整理が行われ、特に垂柳(たれやなぎ)地区で多数の土器等が出土した。同村の中学校に勤務していた工藤正(くどうただし)(一九二五~一九八二)は、それを丹念に採集し、東北大学伊東信雄(いとうのぶお)(一九〇八~一九八七)の指導を経て炭化米の発見に努め、稲作の存在についての証拠を手にしたのであった(93)。このほかは、前年に引き続き、青森市三内丸山遺跡が調査されている(八月)。なお同遺跡は後の昭和三十三年(一九五八)にも調査され、隅丸方形(すみまるほうけい)の竪穴住居跡が一棟発見された(94)。また江坂輝彌は、八戸市十日市の赤御堂(あかみどう)貝塚(八月)と、三戸郡名川(ながわ)町剣吉(けんよし)遺跡(十月)を調査し、前者では縄文時代早期、後者では同時代晩期終末の遺物を発見した(95)。
昭和三十二年(一九五七)には、前年に調査が行われた赤御堂貝塚(四月)、一昨年の平虚空蔵(四月)に加えて、新たに縄文時代早期でも古い時期の押型文(おしがたもん)土器を出土する八戸市河原木(かわらぎ)の日計(ひばかり)遺跡(96)(八月)、ならびに早期中葉の同市市川町長七谷地(ちょうしちやち)貝塚(97)(八月)などの諸遺跡が発掘調査され、いずれも多大な成果を上げている。前年発見された田舎館村垂柳遺跡は、耕地整理の進展に伴ってその後も続々と遺物が出土し、工藤正はこれらの遺物を採集するとともに、五月には小発掘を試みている。
工藤正
(田舎館村教育委員会提供)
伊東信雄