鷹献上による豊臣政権との折衝

32 ~ 36 / 765ページ
ここでは、統一政権津軽氏との間で交わされた関係文書を紹介しながら、同氏の鷹献上の実態と、豊臣政権から下命された鷹保護の状況について記述することにする。具体的には各文書が発給された時間的な経過を追って、どのように鷹献上を通じて津軽氏統一政権に食い込んでいったのか、それらの経過をらかにすることにしよう。
 さて、津軽氏も他の戦国大名と同様に、豊臣政権と折衝を重ねるに際してを献上しており、なかでも天正十七年(一五八九)十二月二十四日と推定される、南部右京亮へ宛てた豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.三)は、同氏が初めて統一政権へ公式に鷹献上を行った文書として注目に値する。内容は、秀吉が為信の黄鷹(きだか)と蒼鷹(そうだか)献上に対して謝辞を述べたものである。南部右京亮は為信を指し、豊臣秀吉は遠方からの鷹献上であるから、道中でを損じることがあってもそれは不問に付すと述べており、同政権に対する南部右京亮の恒常的な鷹献上がこの後もなされるであろうことを示唆している。本文中の増田右衛門尉増田長盛(ましたながもり)、木村弥一右衛門尉木村吉清(きむらよしきよ)であり、いずれも豊臣政権奉行で、この時期に奥羽大名に対する奏者(そうじゃ)の役を果たした。
 為信は、前述のように出羽国の湊・檜山合戦の混乱に乗じて南部信直に反旗を翻し、天正十七年八月の段階で、豊臣政権から「叛逆之族」として認定されており(同前No.二)、関東・奥惣無事令に抵触した人物として把握されていた。それが同年末には、鷹献上を通じて豊臣政権の認知を受ける大名として、朱印状を拝領しているのである。為信は同年七月から十二月にかけて猛烈な巻き返しの工作に出たものと推定され、当文書にみえる鷹献上も工作の一環であったに違いない。
 なお文中にみえる「黄鷹」とは、若い、一歳のをいい、若いは胸の毛が黄色であることから、このように称したという(宮内省式部職編『放』一九八三年復刻 吉川弘文館刊)。蒼鷹は、オオタカの三歳のものを指す(同前)。参考のため蒼鷹の絵を掲げた(図4)。

図4.蒼鷹

 天正十八年(一五九〇)正月十六日と推定される津軽左京亮へ宛てた、豊臣秀吉花押を据えた書状(資料近世1No.四)は、為信の弟(だいだか)献上に対する謝辞を述べたものである。文中、秀吉は為信へ鷹献上を感謝するだけでなく、「堺目等堅固申付」とわざわざ記しているのをみると、この時期には為信による、津軽地方における領域支配の実態があって、同政権がそれを当知行として認めているのではなかろうか。出羽国の秋田安東氏をはじめとする大名・小名が領知安堵石高表示でなされるのは、天正十八年末から天正十九年(一五九一)正月にかけてであるが、秋田安東氏が当知行を認められたのは、天正十八年二月のことであった(「秋田家文書」)。したがって津軽氏の当知行安堵は、秋田安東氏とほぼ同じ時期になされた可能性もある。
 次いで天正十八年正月二十八日の南部右京亮に宛てた、織田信雄(おだのぶかつ)の花押を据(す)えた書状(資料近世1No.五)では、為信の黄鷹献上に対する謝辞と、派する取り(鷹匠のこと)の世話の依頼、並びに豹(ひょう)の皮を贈る旨を述べたものである。文中の文言にもあるとおり、信雄は昨年十月に南部右京亮から書状を受領しており、また当年も取りを下向させるとあることから、取り派は少なくとも前年から開始していたことを示唆していよう。為信と織田信雄との連絡は、少なくとも天正十八年正月の前年、すなわち天正十七年から行われていたのである。
 周知のごとく、織田信雄織田信長の次男で、天正十一年(一五八三)に尾張国清須(きよす)城主、翌十二年(一五八四)、徳川家康と同盟して豊臣秀吉と小牧長久手(こまきながくて)で戦い、秀吉と単独で講和した。天正十五年(一五八七)、九州平定に従軍、次いで同十八年、小田原の後北条攻めに従軍した。同年の家康の関東移封に伴い、信雄も家康の旧領に移封を命じられたが、拒否した。それが秀吉の怒りを買い、天正十八年(一五九〇)七月十三日、領地を没収されて佐竹氏預けられ、その際剃髪して常真と号した(『当代記』など)。
 為信が鷹献上を通じて織田信雄に連絡をとったこの時期は、信雄自体はまだ豊臣政権内で織田信長の子としてい位置にあり、秀吉もかつての旧主の息子として一目を置く存在であったのは間違いない。政権内に格別の地位を持つ人物に対して、鷹献上を通じてコンタクトをとろうとした為信の必死の努力の跡をくみ取ることができよう。文中に「去歳十月之御芳翰今春到着、委曲披閲本懐候、」との文言がみえるが、為信が信雄に天正十七年十月に出した書簡がいったいいかなる内容であったのか、現在では知るよしもない。しかしその中で為信は本懐を信雄に披露したのであって、少なくとも信雄はそれに対して否定的な反応を示すことをしなかったようだ。あるいは南部信直からの独立であったのか、豊臣政権への服属の意志の表であったのかはわからないが、本懐と称する重要な内容であったことは疑いないところである。そのような重大事を相談できる人物を、為信が豊臣政権内に確保したことは、この段階での巻き返しにかなり成功していたことを物語っていよう。

図5.黄鷹献上に対する謝辞を述べた織田信雄の書状

 為信は織田信雄だけでなく、秀吉の甥の豊臣秀次(ひでつぐ)へも接近した。天正十八年四月十日の豊臣秀次花押を据えた判物(資料近世1No.一〇)は、南部右京亮鷹献上に対する謝辞を述べたものである。文中にみえる徳永石見守徳永寿昌(とくながひさまさ)を指し、彼は秀次の取り次ぎ役を務めていた。伊達政宗によれば、徳永寿昌豊臣秀次に仕える「出頭第一」の人であり、関白秀吉へも直接ものごとを言上できる立場にある人物である、という(『伊達家文書』)。
 このように為信は、豊臣政権内の中枢を形成する人々に鷹献上を通じて接触を図り、同政権内に大名として地歩を着々と固めていったようである。
 なお秀吉は、天正十九年(一五九一)十二月、甥の豊臣秀次関白職を譲るに際して、同月二十日、四ヵ条の誓書を提出させている。その中で、茶の湯・女狂いと並んで「狩」を上げ、秀吉のまねをしてはならぬことを厳命している(「本願寺文書」)。秀次の好きは右文書にもみえるとおり、後の振る舞い等をみても、このような秀吉の戒めをわざわざ受けるほどのものであったのである。

図6.豊臣秀次画像