藩庁では天明三年九月十日に評定所に在方の有力者約六〇名と、弘前や両湊の御用達(ごようたし)商人・名主ら約八五人を呼び集め、三奉行立ち会いのもと、藩の基本対策を述べている(同前)。当面、藩要用の米のうちから小売米として一万五〇〇俵と大豆八〇〇俵を放出すること、江戸・上方廻米の中止、十月までの御救山(おすくいやま)の設定、来三月までの馬の他領払いの許可、他領からの米穀の買い付けなどの措置が取られることになった。しかし、小売米の放出は、領内隅々まで行き届くかどうか、藩自らが効果に懐疑的であり、他領からの買い付けも、やがて冬を迎えるため海上輸送がおぼつかなかった。結局のところ、百姓が来年の耕作を滞りなくできるよう督励し、また、藩の援助が及ばない場合があるのでよろしく協力するよう、豪農・豪商層に呼びかけるしかなかった。
藩がまず取り組んだことは、食糧用の米よりも来年用の種籾の確保であった。種籾がないと翌年の植え付けもできないので、藩は九月二十三日の時点で種籾一万三〇〇〇石を秋田藩から購入することを計画した。(資料近世2No.一二)。実際に買えたのは三〇〇〇石で、その代金は二〇五〇両に及んだ(『天明卯辰日記』十一月七日条)。購入代金は在方・町方の御用金によって賄われた。十一月十六日に藩は弘前御用達商人や在方の有力者六四人を評定所に呼び、御用金一万二〇〇〇両の調達を命じ、同十九日にも在方の四六人に計一万七九八〇両の調達を命じている。しかし、困窮しているのは彼らも同様で、調達できなかった御用達商人三人が蔵を封印された。一方、藩からの命令とは別に自主的に施行(せぎょう)をする豪農もあった。たとえば、五所川原村の郷士(ごうし)原庄右衛門は九月十日に金四〇〇両を代金に米四〇〇石を買い上げ、平井・五所川原・喰川・柏原村の窮民に配布した(同前)。しかし、本格化する飢饉の前には焼け石に水であった。
十月五日に至り、藩は「諸組在々」の年貢の免除を正式に決定した。九月末には米穀を消費する酒造を全面的に禁止し、味噌・醤油用の雑穀も飯料の妨げにならないよう規制している(資料近世2No.一二)。
また御救山の設定も、八月中に行われている。「御救山」とは藩の管理している山(留山)を開放して、山下の百姓に自由に立ち入らせ、伐採した薪等を販売することによって現金収入の手段を与えようとしたものである。牛馬の他領移出の許可も同様の趣旨である(同前No.一〇・一一)。救山の設定は木材のみならず、苅敷(かりしき)などの肥料や蕨などの山野草を採取させることも目的としており、飢饉対策として有効な手段であった。しかし弘前に近い和徳組の救山の場合、藩士や町方の者まで入り込み、馬を雇って大勢で入って伐採する輩もあった。このため藩は本来の救済対象の農民の保護のために、歯止めをかけなければならなかった。
幕府からの援助は遅れ、十二月二十五日になって拝領金一万両が下付された。ほかに津梁院の仲介で閑院宮から九〇〇〇両、伊奈半左衛門から三〇〇〇両の援助があったという(『天明卯辰日記』)。また領民約一七万人への扶助米として幕府から雑穀を含めて一万二〇〇俵の拝借を受けた。しかし先述のとおり、冬は海が荒れて海上運送が停止する時期であり、陸送による運搬も積雪のため大量の運送は困難で、いたずらに時間が空費された。ようやく、上方・加賀から米が入ってきたのは翌年の春二月以降になってからのことであった。
藩士の俸禄も天明三年十月には半知となり、十一月からは石高に関係なく、一律に一人一日四人扶持とされる「面扶持(めんぶち)」の制度が取られた。ただし、たとえば一〇〇石取りは二〇匁、一〇〇〇石取りは一二〇匁というように禄高に応じて調整した手当が支給された。この処置は天明六年まで続いた。藩士の生活も当然困窮したが、直接餓死にまで至った藩士がいたわけではなかった。