(二)蝦夷地出兵の諸段階

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 これまでみてきたような幕府の蝦夷地政策の推移に伴い、津軽弘前藩蝦夷地出兵もまた、いくつかの段階に分けられる。そして、それに対応するかたちで、藩の政策も変化を遂げていく。その最も顕著なものが、次項で述べる寛政改革の主要政策である藩士土着政策である。
 さて、津軽弘前藩蝦夷地出兵は、その要因などから次の三段階に分けて考えることができる。すなわち、
(1)アイヌの戦いへの対応としての出兵
(2)蝦夷地へ来航する外国船への対応としての出兵
(3)蝦夷地が上知(あげち)され、幕府の直接支配となったことによる出兵

の三段階である。
 (1)は寛文九年(一六六九)のシャクシャインの戦いと、寛政元年(一七八九)のクナシリ・メナシの戦いに対応しての出兵である。シャクシャインの戦いについては既に第三章第一節で触れた。この「蜂起」は幕府にも大きな衝撃を与え、幕府は津軽弘前藩に出兵を命じるとともに、盛岡藩にも松前藩から救援依頼がありしだい出兵するように命じている。津軽弘前藩では一五八二人を救援隊として組織し、七〇〇余人を松前に派した。シャクシャインの戦いは、結局松前藩によって制圧されたため、津軽弘前藩松前に駐屯しただけで帰弘し、また盛岡藩も一隊を野辺地まで派したにとどまっている。しかし、幕府がアイヌの蜂起に直接指揮権を発動したのはこれが最初であり、津軽弘前・盛岡両藩から武器・兵糧の援助を受けつつ松前藩が蜂起の制圧に当たったことは、その後の両藩を中心とした蝦夷地警備をみていくうえで、非常に重要なことといえる。
 クナシリ・メナシの戦いに当たって、津軽弘前藩には松前藩から要請がありしだい出兵すべしとの幕命があった。津軽弘前藩は軍勢を三番手に分け、各番手の人数を侍大将・大番組頭以下八五三人とし、結果として一六五〇人の出動態勢を整えている。準備した主要な武器は、鉄炮四五挺・大鉄炮三挺・弓一五張・矢一五〇〇本・長柄五〇筋などであった。軍船は西浜で調達した弁財船など五〇艘が準備された。当時の軍役令からすれば、人数的には合致するが、武器類については極めて貧弱な備えであったという(長谷川成一「北方辺境藩研究序説」同編『津軽藩の基礎的研究』)。結局、寛政元年(一七八九)八月、松前藩から鎮圧の報告が入り、出兵せずに終わっている。
 この二回の出兵(あるいは準備)は、いずれもアイヌとのかかわりで出兵している点て共通項がある。
 (2)は寛政四年九月のラクスマンのネモロ来航と、同八年~九年にかけてのイギリス船プロビデンス号による松前蝦夷地沖への出没に対する出兵である。
 ラクスマンの通商要求に対し、幕府は石川忠房らを宣諭使(せんゆし)として派し、ラクスマンと福山(現北海道松前松前町)で会見させることにした。幕府はその護衛として津軽弘前・盛岡両藩に出兵を命じている。弘前藩は、諸手物頭山田剛太郎・同都谷森甚之丞(とやもりじんのじょう)以下二隊二四二人を組織し、翌五年三月、三厩から松前へ渡海させている。会見は三回に及んだが、格別の争いもなく八月三日に帰弘している。
 寛政八年以降のイギリス船来航に伴う津軽弘前藩への幕命は、翌九年九月に下っている。その内容は、異国船の万一の来航に備えるために番頭一組を箱館に派し、松前藩に加勢するというものであった。しかも、寛政十一年までの三年間の勤番(一年交代)と定められた。
 津軽弘前藩では、当初、「番頭一組」を寛政元年の先例にならって、番頭一騎以下総勢五〇〇人と見積もり、幕府の認可を得た。ただし、その後の幕府との交渉などを経て、最終的には三三九人に決着している。幕府の番頭に相当する士大将に山田剛太郎を任命し、そのもとに旗本隊・鉄炮隊・長柄隊などが組織され、藩の職制に基づいた編成となっている。

図151.山田剛太郎の起請文
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 なお、藩は出兵藩士に対して、武器の供与や従者についても便宜を図ることでようやくこの態勢を整えた。次項で述べるように、この出兵は藩士土着策の展開のなかで実施されたものであるが、その政策によって対応しようとした家臣団の速やかな動員や、従者確保などの藩士軍役遂行といった目的が、なかなか達せられなかった点を確認しておく必要がある。また、藩校の教師である学頭などが派軍に組み込まれており、藩校の開設を蝦夷地警備との関連でとらえる必要もあろう。
 これらの出兵は、いずれも外国船の来航に対応しているという点で共通項がある。ただし、蝦夷地での警衛内容や警備地という観点からすれば、寛政九年以降、津軽弘前藩蝦夷地警備が、それ以前の単発的なものから、継続的なものに変わったことの意味は大きい。毎年、継続的に多数の藩士蝦夷地に派していくということは、藩財政はもちろん、それに伴う藩の制度のありようや、農民・職人支配にも大きく影響するからである。
 (3)は寛政九年から同十一年までの勤番が、同十一年の蝦夷地直轄化によって、勤番地や派人数を変えながら継続されていく時期である。寛政十二年から、松前藩が復領する文政四年(一八二一)までの期間がこれに当たる。ただし、蝦夷地直轄化は、すでにみてきたように、寛政十一年の東蝦夷地の仮上知、享和二年(一八〇二)の東蝦夷地の永久上知、文化四年(一八〇七)の松前蝦夷地全域の上知という段階を経ており、そのつど、警備地や派人数に変化がみられ、特に文化四年以降は、総人数を毎年交代するという方式をとらず、各勤番所に半数程度の藩士を残し、越年させるという方式に変えている。いずれにしろ、蝦夷地直轄によって藩の警衛は大きく変化したのである。
 以上、津軽弘前藩蝦夷地出兵は、その要因によって三段階に区分され、第三段階の常備体勢を敷くことになった寛政九年以降については、さらに寛政十一年まで、享和二年まで、文化四年まで、そして文政四年までの四期に区分することができる。寛政十一年以降の蝦夷地直轄下の勤番体制については、本章第三節一で触れることにする。