後期幕藩体制下における蝦夷地支配において、幕領前期と後期の間に挟まる形で存在するのが、「松前復領期」と呼ばれる時期である。この時期は松前藩の蝦夷地復帰により始まり、開国、安政元年(一八五四)の箱館近辺の上知を経て、同二年に東西蝦夷地上知、奥羽諸大名の勤番開始に至るまで続いた。この時期、幕府から蝦夷地への軍事要員として常に位置づけられてきた津軽弘前・盛岡両藩の立場に何らかの変化は生じたのであろうか。
文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は両藩に対してほぼ同内容の達書を発し、松前藩の蝦夷地復領を告げるとともに、蝦夷地現地派兵の停止を命じた(資料近世2No.一五二)。その詳しい内容をみると、「異国境大切之土地柄」であるから蝦夷地警衛はこれまでのように心得ること、また警衛人数の蝦夷地への現地派遣はやめるものの、領内の蝦夷地への渡海口に人数を配備し、松前家より申し出がありしだい渡海させること、さらに後詰(ごづめ)人数は城下に配備することが命じられている。このことから、幕府が相変わらず両藩を「異国境」への押さえ、すなわち外圧への押さえとして位置づけ、蝦夷地警衛の任を完全には解かず、万一の際には出兵を命じる余地を残していたことがわかる。
このような位置づけは、当時の幕府の儀礼のなかにも明らかに見いだすことができる。松前復領期にあっては、幕領の時期と同様、津軽弘前・盛岡両藩主が暇を賜って帰国する際、儀礼の中で「必松前表の事仰出される」ことが慣例であり、また家督を相続する際には、先代同様蝦夷地警衛に勤めるようにとの申し渡しがなされた。たとえば、天保十年(一八三九)五月十六日に江戸城中で達せられた津軽黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(順承(ゆきつぐ)、一八〇〇~一八六五)の本家弘前津軽家相続の際の申し渡しをみると、順徳に対して、「蝦夷地警固之儀、越中守(先代信順)時之通被仰付」との下命があった。また、同年六月十八日、国元へ暇を賜った御礼に登城した順徳に対して、「松前表之儀」が命じられている(箭内健次編『通航一覧続輯』五 一九七三年 清文堂出版刊)。両藩が担わされた蝦夷地警衛の役割は、規模や形態に変更があるものの、松前復領期においても継続していたのである(千葉一大「松前復領期における盛岡藩の蝦夷地派兵準備体制」『青森県史研究』四)。
一方、文政四年十二月七日に松前藩主松前章広へ申し渡された公儀からの達書をみると、津軽弘前・盛岡両藩との派兵準備の事前協議を求め、さらに両藩の派兵に全面的に依存することを戒め、松前藩による蝦夷地の備えを疎かにしないよう命じている(前掲『通航一覧』八など)。
津軽弘前藩の蝦夷地派兵準備体制を簡単にみると、非常時の渡海人数として渡海口でもある領内三厩に一〇〇人、さらに弘前城下に後詰人数を備え、三厩詰人数が渡海の際は、まず後詰のうち三〇騎一備(御番頭一手、足軽・長柄までの惣隊をいう)を三厩に派遣し、常時三〇騎一備を二隊城下に備え、臨機応変に人数を手当てするという体制が採られていた(『記類』下)。一方、盛岡藩の体制は、幕府の達書とそれ以後の幕府との間に課役内容に関して交渉を行い、そこで決定した事項にもとづき、万一の際、蝦夷地に渡海する出張人数を領内大畑に置き、盛岡城下には後詰人数を備えていた。さらに領内沿岸や蝦夷地での非常事態の際に派遣する「蝦夷地警衛・御領分海岸防禦(ぼうぎょ)平常備組」(総勢一〇〇〇人)を編成していた(千葉前掲「松前復領期における盛岡藩の蝦夷地派兵準備体制」)。
松前復領期にも、異国船は蝦夷地にたびたび接近し、異国人が上陸した事例も存在する。にもかかわらず、この期間においては一度として津軽弘前・盛岡両藩の現地派兵という事態は発生しなかった。現地派兵が行われなかった理由としては、松前藩が、さきにみた文政四年の復領の際の達に記された津軽弘前・盛岡両藩に頼らず、自国の備えを固めるようにという趣旨どおりの対応をとり、両藩に対して非常時の渡海に必要な派兵希望の通告を行わなかったことが大きな理由と考えられる。