漆の栽培奨励

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津軽領国産品として代表的なものにが挙げられる。上方の技術を導入した漆栽培は寛永年間ころに始まるとされ、元禄期には現在の津軽塗の原型になった唐塗(からぬり)の技術が、若狭池田源兵衛によって伝えられている。しかし、続く十八世紀は天飢饉の影響もあり、全体的にの栽培は低調だった感がある。十七世紀後半の貞享検地帳では領内のの総数は三二万七〇〇〇本であるのに対し、文化二年(一八〇五)の「御郡中漆之覚」(国史津)では二〇万一〇〇〇本余と、一〇〇年以上前より増えるどころか減少している。このような状況に対し、藩は文化年間初頭から本格的な漆栽培の強化を目指した。飢饉にも強い商品作物として荒地・空畑など遊休地での漆栽培面積の増加を目指し、生産体制・集荷体制の強化を行った。さらにこれに伴い栽培技術の向上、そして領内の需要を満たすだけでなく、中央市場への販売も意図した販路拡大の試みを行った。
 藩は享和元年(一八〇一)、一般の農民に向けて漆栽培のための農書「漆木家伝書」を成田五右衛門に命じて作成させた。同書では効率的な栽培の仕方や、掻方(かきかた)や手入れの方法、さらに漆栽培から生じる利潤等について述べ、農民らを啓蒙しようとしている。さらに文化四年(一八〇七)一月には、藩は城下商人池田屋利助に命じて五ヵ年の間で領内を回らせ、の栽培法を指導させている。一方、地元の掻子(かきこ)の育成も必要であった。から上がる収益は、樹液と蝋燭(ろうそく)の原料になる実(うるしのみ)に大別できるが、樹液を採取するのは専門の掻子の作業となる。現在でも南部地方と違って津軽には掻(うるしかき)の技術が伝承されていないことからもわかるように、掻子は出羽・越後の出身者が多く、十九世紀初頭でも津軽出身者は皆無であった。藩は文化八年に藩士の前田兵蔵を会津上方方面に出張させ、国元掻の技術指導のため、掻子の招聘、道具の購入などをさせている(「要記秘鑑」)。さらに掻子山頭(やまかしら)に命じられた松木平(まつきたい)村(現弘前市)の長之助は、学習した掻方を領内の各地で指導し、その結果天保八年(一八三七)の段階では、他国から掻子を雇い入れる必要がなくなったという(「国日記」)。
 次に、生産体制の強化であるが、特徴的なものが文化三年(一八〇六)の漆守制度の導入である。これは村に栽培を任せていた従来の方法に代わって、庄屋・郷士などの豪農層に一人当たり三万本の漆栽培を請け負わせるものであった。経済的に余裕のある豪農層の負担を前提にしており、確実にの収益を上げようとしたものである。漆守は領内各地で一〇〇名、合計三〇〇万本の増殖を目標としている。江戸時代、漆栽培で有名な会津藩でも最盛期(十八世紀中期)で一八〇万本だったというから、相当な数である。漆守には、木の個人所有を認め、樹液のうち藩への上納が二割、残りの八割を藩が買い上げることとし、樹液生産の利益が本数に比例して本人のものになる仕組みであった。「漆木家伝書」は、このような商品作物としての漆栽培の利潤を豪農層へ宣伝して、栽培を広めようという目的もあった。豪農にはその見返りとして、「御免引」と呼ばれる免税地を与えられた。当初は一律三〇石であったが、後に栽培本数に応じて一万本以上一〇石、二万本以上二〇石、三万本以上三〇石というように変更される。さらに漆栽培について一定の成果が上がると、仕立証文が下付され、子々孫々にわたる木の所有が認められたほか、名字帯刀の特権も付与された。このような豪農層への経済的・名誉的な見返りによって、の木もしだいに増加し、「御郡内漆木実数調帳」(国史津)によると、文政元年(一八一八)には領内全体で一四八万本余に増加している。
 漆守には現五所川原市の平山家・阿部家、現黒石市の鳴海家など津軽を代表する豪農がおおかた名を連ねている。現弘前市市域では、松木平の相馬家、前坂(まえさか)の石岡家、小栗山(こぐりやま)の工藤家、川村の山上家、小山の小山家などが任命されている。また、長勝寺報恩寺など城下寺社の境内、弘前城の郭内でもの栽培が行われた。