裁判と判決

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当藩の裁判の法廷は、弘前城二之丸の辰巳櫓(たつみのやぐら)からを隔てて三之丸東側の評定所(ひょうじょうしょ)のほかに、庄屋(しょうや)(名主(なぬし))・町奉行寺社奉行宅などが使用された。評定の期日は原則として毎月十一日と二十六日の二日であった(「国日記和五年十月一日条)。馬喰町の牢屋から引き出された入牢者は、に沿って大浦町(おおうらまち)を南に進み、東門から三之丸に入り、評定所に到着した。評定所の一隅には白砂利が敷いてあり、その上に筵(むしろ)を敷き羽番(はがい)(交)縄を掛けられた被告が座らせられ、審理の作法にのっとって進められ判決が申し渡された。判決の申し渡しの時に出席した役人の身分や人数については、被告の身分(武士・百姓町人など)、犯罪の種類、同時に判決を受ける人数などにより違ってくるが、百姓町人を対象に「国日記」にみえる多数の判例から大体の傾向は次のようになる。
 評定所では大目付(おおめつけ)または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(寺社奉行・郡(こおり)奉行町奉行勘定奉行)・徒(かち)目付足軽目付町同心などが出席した。重い犯罪に関しては家老(かろう)・用人(ようにん)も列席した。彼らに対する申し渡しは、延享二年(一七四五)ころから町奉行町年寄代官(だいかん)・庄屋宅などで行なわれる場合が多くなる。
 牢屋の前での申し渡しは月番(つきばん)(その月の当番)の徒(かち)目付が当たったようで、斬罪死罪(死刑の一種でその死体は新の斬れ味を試みる様斬(ためしぎ)りに使用される)のほか追放も申し渡され、牢奉行足軽目付町目付町同心などが出席した。取上(とりあげ)の御仕置場(おしおきば)(現弘前取上)では馬廻(うままわり)役の武士が当たり(寛政九年以後には徒目付が申し渡す)、火罪(はりつけ)・獄門(ごくもん)・斬罪のほか、鞭(べん)刑(敲(たたき))のうえ追放が申し渡され、徒目付足軽目付町同心・縄取人足(なわとりにんそく)・太取(たちとり)などが出席した。安永三年(一七七四)ころからは、村のはずれや町のはずれで徒目付が追放などを申し渡すことも行なわれるようになり、足軽目付町同心警固・町同心・縄取人足などが出席した。

図176.弘前城三の丸東門


図177.三道具