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(一)開口神社

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 【位置】【式内社】開口神社は甲斐町東一丁に鎭座する式内社で、(延喜式神名帳)【祭神】住吉明神と一體別宮神たる事勝國勝長狹命卽ち鹽土老翁を主神とし、素盞鳴尊、生國魂命を配祀してゐる。(住吉神名記、社寺明細帳)【奉祀の根源】神功皇后三韓征討御凱旋に際し茅渟石津長峽濱に着船し給ひ、石津北原に鎭座せる素盞鳴尊の神地に天神、地祇を祭らるゝや、土人供御を獻じ、老漁夫兄濤は、赤目の魚を獻じた。皇后瑞兆として喜び給ひ、蟹守葦見別の女仲媛をして、其地に鹽土老翁を奉祭せしめた。これ卽ち當社の根源である。(開口神社祭神考)斯くして住吉の外宮として、(和漢三才圖會卷七十六、泉州志卷之一、全堺詳志卷之上)朝家の崇敬篤く、【奉幣と位階】敏達十一年八月掃守連矢負奉幣神戸の寄進あり、延喜年中從五位上を授與せられ、承平二年五月正五位上に進められた。(開口神社祭神考)されば住吉社二十年每の改造に當り、當社亦之に準じ、爾來恆例となつた。(泉州志卷之一)天永四年五月原村鎭座の素盞鳴尊、木戸村鎭座木戸首奉祀するところの生國魂命を合祀して三箇村の産土神とし、【開口三村大神開口三村大神と號した。(開口神社祭神考、開口神社調査書)
 【舊位置】開口村は社藏天福二年注申狀に據ると、鹽穴鄕内小鹽穴の下條にあつた。現舳松の南方に鹽穴の地名を存し、全堺詳志に開口は今舳松村の田圃となつて居るとあるので、其地は、現鹽穴を中心とせる附近であらうけれども、開口の地點は明確に知られない。原、木戸兩村は、舊中筋村延寶の檢地帳其他に、同村の大字として地名を存し、殊に原は仁德陵の西北に當り、此處に原の茶屋の舊址あり、其南北に通ずる道路を原街道と稱するも、頗舊名の名殘を留むるものである。然るに開口村の膨脹は木戸、原の兩村を包擁するに及び、天永四年終に兩社をも合祀するに至つたものであらう。【開口水門姫神社住吉神社の神代記に見える開口水門姫神社は、或は當社なるべく、其四至は「限東大路、限南神崎、限西海棹、限北堺大路」とあれば、地域頗る廣大であつた。【別當念佛寺】是より先き、天平十八年聖武天皇の勅願により、僧行基を開基として、境内に社殿及び伽藍を建營せしめ、翌十九年八月勅祭せらるゝに至つた。後年空海參籠して眞言祕密の道場を構營し、(大寺緣起)是より、眞言宗に歸し、無本寺として寺僧其社務を執ることゝなつた。承安四年一切經藏建立せられ、(天福二年注申狀)文治三年三月尼妙惠、住吉郡朴津鄕内の地所三段を經藏に寄進した。(經藏寄進狀)建保七年四月塔供養あり、(塔供養注進狀)此時塔婆を建設して竣成したものであらう。然し此後漸く荒廢に歸し、應永三十二年閏六月再造の功を竣め、七月初めには立柱式を擧行した。(造替塔婆雜事日時)天文四年四月大小路町、市小路、甲斐町、大道町、材木町、同中濱、中町、今市町、小屋町、舳松町より寄附を募り、四圍の牆壁に修築を加へた。其人名は念佛寺差帳日記に見え、市小路の分には、納屋の一族、舳松町の分には、皮屋紹鷗の名が注意される。(念佛差帳日記)斯くして寺庵は天授(永和)の頃には、正月朔日に大黑會、同八日に大仁王會、二月十五日に涅槃會、四月八日に佛生會、八月朔日に御靈會、十月十五日に大念佛會、十一月十五日には佛名會を修し、同晦日に神祭を執行し、十二月二十五日には正權兩殿の祈禱を恆例とした。(念佛寺雜事引付)殊に如法經及び法花講は主なる供養で、庶民田地を寄進して、永續の資に充てたことが、建德以下の寄進狀に見えて居る。又月次法樂連歌を其社前に興行し、嘉吉二年十一月に細川基之、同教春の兩和泉國兩守護は法樂連歌月次料田を寄進した。其他浴室には每年八箇度を限り、庶民をして無料入浴せしめて居り、觀應二年八月結衆等二十五人永續の資に供せんが爲め、在鹽穴下條開口大井の風爐料田を寄進した。

第八十八圖版 念佛寺講師付

 
 
 斯くして亦勅願寺として、【公武の崇信】公武の崇信厚く、應永三十二年十一月稱光天皇の御生母光範門院祈禱せしめ給ひ(女院御所下文)每年正月には足利將軍の爲めに、大般若經轉讀を行ふた。(卷數之御禮狀)されば義持は應永三十四年十二月に、義教は永享十二年十月に、義政は長享二年三月等に、各教書を與へて寺領を安堵せしめ、或は寺領の段錢、課役等を免除せしめてゐた。(將軍家御教書)
 又神前賽錢は、從來住吉社務の支配であつたが、延德二年、明應二年の兩度、政所小坂二郞左衞門念佛寺の永代知行に歸せしめた。(三村宮唐櫃寄進狀)其他舊領海會寺前卽ち當寺西門前の屋敷地は、應永十五年七月舊知に復せられ、官領衆並に諸大名も、嘉吉、文安、寶德、文明、天文に亙り、南北兩莊の寺領及び散在田畠の、【祈願寺としての保護】諸公事或は段錢、臨時課役を免除し、又向井領内の段錢をも免除せしめ、且つ泉州内にある寺領に對しても、厚く之を保護して祈願寺として保護したことが、寶德二年同三年の文書に見えて居る。(官領衆拜諸大名免狀)
 【部内の紛擾】然も内部の紛擾は早くより甚だしく、寺役勤行を等閑にして、互に相排斥し、應永三十一年に至り、終に訴訟となり、(念佛寺々僧言上狀)一面亦此地淨土眞宗の流行は間接に當寺衰頽の原因となつた。(享德五年八月二日長隆執達狀)【幕府の公營】降つて德川時代には、幕府の崇敬篤く、巡見所の一として社頭は住吉社と同時に造營修復せらるゝこととなつた。(文化十年手鑑)
 是より先き、【兵奬後の復興】當寺は元和の兵燹に伽藍、坊舍、鐘樓等を烏有に歸し、漸く政所長谷川藤廣により高樓一基を建立せられ、元和三年梵鐘一口の寄進を得た。(舊念佛寺鐘銘)次いで明曆元年、將軍德川家綱社殿を再興し、奉行石河土佐守造營に當り、今井兼續、末吉長秀之を輔け、工匠中井正朝等を督し、十一月上棟式を擧げた。(棟札寫)【三重塔造營】續いて寬文元年三重塔の造營に着手し、南莊年寄中、新屋五郞兵衞衝に當り、銀四貫八百六十目を以て、翌二年五月中に工事竣成の契約を結び、堺在住の大工藪長兵衞等七人連署の工事請負證書を徵し、玆に現存塔婆の建立となつた。(大寺三重塔仕立申大工手間料御請相申上書物之事)【殿堂造營】斯くして亦元祿七年九月社殿を造營し、同十五年十月更らに修造を加へた。(從住吉御造營所之分繪圖申來候ニ付諸事覺)續いて寶永六年、綱吉將軍重修を命じ、秋元喬知奉行し、尼崎城主青山幸督、堺奉行桑山一慶等之を輔け、五月上棟式を擧げた。(棟札寫)寶曆五年、社殿、攝社及び伽藍を修造し、建築費を南組七十三町の氏子に課し、(開口神社諸記錄)享和三年三月本社、中門、瑞垣を修復した。(攝州住吉社御造營記)又文化四年十一月繪馬堂を建設し、翌五年十一月上棟した。(開口神社諸記錄)然も當時本社伽藍に至るまで、漸く頽廢せるを以て修繕を計畫し、八年二月幕府の下附銀と南組鄕中の出資により文政五年本堂、鐘樓、表門、南北の兩門、藥師堂、牆壁等を造營した。(攝州住吉社御造營記、開口神社諸記錄)神輿舍は享保十七年十一月江戸下谷池之端住守田治兵衞の寄進により之を再建した。治兵衞は屋號をさかい屋と號し、祖先は堺梅香町河内屋藤七より出て居る。其後該舍腐朽せるを以て、文政三年九月修復、同十一月竣工した。(堺史料類纂拾遺)但し幕府の造營所であつた當社も、天保三年以後は亦特典に與らなかつた。(開口神社諸記錄)
 【元祿の寺觀】境域は元祿二年堺大繪圖に、東西六十一間餘、南北六十二間餘を示し、同四年の大寺繪圖には、本堂、三重塔、齋堂、高樓、寶藏、本社及び拜殿、末社たる伊勢兩宮、荒神社、天神社、辨財天社、舟玉社、稻荷社、大黑社、戎社の外に、瑞森藥師堂、門番所等甍を駢べ、金堂には中尊藥師、左釋迦、右彌陀を祀り、日光、月光兩菩薩、十二神將像を安置し、三重塔内には本尊大日及び四天主、齋堂には役行者、行基空海の像を安置した。天神社は境内安住寺の鎭守であつた。同寺の本堂たる觀音堂兵火に罹つて炎上して以來退轉した。(堺鑑上、住吉名所圖會卷之五)荒神は石體像で、當社内に祀られたが、後今の寺地町東三丁に遷した。(堺鑑上、和泉名所圖會卷之一)瑞森明神は素盞鳴尊を祭る。瑞森の井上に堂宇を造り、傳行基所作の藥師を安置した。瑞森は古來結界地で祕所と稱せられたものである(堺鑑上、泉州志卷之一)華表には竹内良尚法親王筆三村大明神、西門には同親王筆密乘山の扁額を揭げた。(堺鑑上)塔頭は、元祿二年には、境内南側に多聞、五大、遍照、虛空藏、明王の五院、北側卽ち西座に寶生院、長坊、賢昌坊、空玄坊の四坊あり、(元祿二年堺大繪圖)寬政十一年の堺繪圖には兩座に二坊の名を缺き、文化六年の堺繪圖も亦同じである。蓋し空坊となつたものであらう。【神輿渡御復舊】三村明神は每年八月朔日神輿葦原の行宮に渡御するを以て恆例としたが、久しく中絶したのを谷善右衞門(齊泉)弟久右衞門(忍齋)と謀り、享保六年神輿を新造し附屬調度一切を添へて之を寄進した。斯くて祭儀盛大に行はれ神具の寄進相次いで、諸事具備するに至つた。是に於て、社僧及び氏子等相倚り舊典を復せんとし、比年願書を奉行所に提出し、寬保元年七月聽許せられた。(谷氏德惠傳)而して、神輿及び神具は寬政七年氏子等の寄附により、更らに新調せられた。(神輿、神具再建寄附帳)【莊嚴頭の神事】莊嚴頭の神事は每年十月十五日之を執行するを以て恆例とし、神事當月の半箇月已前より、社僧會合して其議を重ね、町人中邸宅を所有し、財産豐に、家系正しく、夫妻相揃ひ、且つ服忌なき輩數十名を選定し、其姓名を小形の木札に書記して之を函に納め、葢の中央に一小孔を穿ち、其期に及んで當役の社僧之を本堂に移し、當り札十名を、當年の莊嚴頭と定めるのである。但し一度當選した者は、生存中には再び當選せしめなかつた。斯くして人選を終るや、直に使僧を以て、鏡餠一重、清酒一樽に書面を添へて配賦し、祝詞を述べしめる。又十名よりは、報謝として、一人每に鏡餠一重、清酒一樽、初穗料百五十貫文を、寺納せしめ、夫等の人々は、隣人、親族、知己を會して饗宴を張るを常とした。故に其贈答交際の費用夥しく、且つ主人たるものも、業務を擲つこと半箇月にも及ぶのである。然るに享保以來堺の商勢振はざるに至り、家系正しく富有なる町人も、或は落魄して其選に應ずるものが尠くなり、反つて成り上り者の選入となり、規格も次第に崩るゝやうになつたが、(全堺詳志卷之下)明治初年に至るまで兎も角、猶ほ執行された。(開口神社年中神事式規則書)
 當時は斯る由緖を以て、【祈禱】足利時代以降禁廷を始め各御所に年頭の祈禱を捧げ、撫物の下賜を受け、撫物に對しては、日々神酒、神饌を獻備して、玉體の安全を祈り、又近衞家よりも撫物を下附せらるゝを恆例とし、每年神札及び卷數等を奉獻するを例とした。(堺史料類纂拾遺)斯くして公武の寄進奉納も亦尠なからず、就中寶永六年五月朔日には、藤内侍局の名を以て、菊花絞章附幔幕及び提燈を寄進せられ、又近衞家より神馬を奉獻せられてゐる。(寄進狀)
 明治元年三月 明治天皇大阪西本願寺津村別院へ行幸につき、【維新後の祈禱】行在中祈禱を命ぜられ、同四年八月卽位の大典を擧行せらるゝや祈禱を命ぜられ、同年九月車駕東京へ發輦に當りては亦一七日間の祈禱を命ぜられた。始め撫物の下賜及び神符等の奉獻は、奏者所で執奏したが、神祇官復興後凡べて同官の管掌に歸し、既にして同四年正月祈禱の繪符を返還して後、此事は廢絶した。(開口神社諸記錄)
 【神領地】神領地としては天正十四年七月豐臣秀吉八十石の印を寄せ、德川幕府亦舊例に倣つた。(各印狀)寺は密乘山念佛寺と號し、眞言宗の無本寺として、寺僧其任務を執り、世に大寺と呼んだ。明治維新、【神佛分離】神佛分離に際し、塔頭虛空藏院、明王院、五大院の住侶は悉く復飾し、神職として奉祀することゝなり、隨つて寺地町東三丁の末寺三寶寺は自然に分離した。又舊毘沙門堂は、同六年引接寺廢止の節、同寺の鎭守松風神社(祭神住吉大神)を當社に移轉を命ぜられたるにより、清祓の後鎭座のことゝし、舊藥師堂は垣崎二平の寄附によつて修造せられ、之を白髭明神の社殿に充つることゝし、其撤廢を免れた。(開口神社諸記錄)三重塔は河盛仁平購入し、堺縣より屢々其撤廢方を命ぜられたが、荏苒歳月を經過する中、終に其儘同人より當社に奉納し、今猶ほ現存してゐる。(明治維新神佛分離史料中卷)
 次いで、明治六年鄕社に列し、同七年攝社琴平神社の位置を變更して社殿を修造し、十月正遷宮の式典を執行した。(開口神社諸記錄)同二十五年五月社殿及び攝末社を修造し、十一月落成、【社格】三十五年四月三十日府社に昇格した。【合社】四十年五月南旅籠町東三丁字農人町の鉾塚堺鑑、住吉名所圖會には、鉾塚不盡庵の前にありとある。同庵は卽ち禪樂寺の前身である)にあつた無格社矛神社(祭神息氣長足姫尊)を末社松風神社に合祀し、同じく寺、地町東三丁字内農人町旭蓮社北門内にあつた村社舳松神社(祭神住吉四神)を、四十一年一月宿院町東一丁字宿院の西方、華表の南にあつた兜神社(祭神品陀別命、息氣長足姫尊、玉依姫命)を當社境内に各遷座合祀した。(社寺明細帳)兩社共に幕府造營所の一に數へられ、住吉社と同時に造營又は修造を加へられた小祠であつた。(攝州住吉社御造營記、文化十年手鑑)氏地は大小路以南一圓で、【例祭】大祭は古來八月朔日であつたが、明治十七年以來、九月十二、十三の兩日に改め、十二日には神輿の渡御がある。【社寶】社寶頗る多く、【國寶大寺緣起大寺緣起三卷附筆者目錄一卷は、明治四十三年四月二十日國寶に指定せられた。古來の緣起は天正年中燒失し、該卷は元祿三年關白近衞基熈の寄進によつて再製したもので、詞書は公卿二十五人、繪は土佐光起の麗筆である。此緣起には東山天皇を始め孝明天皇に至るまで、列聖の天覽狀がある。【同吉光作短刀】吉光作短刀一口(刅渡八寸、表連樋、表ゴマ著)亦大正十年四月三十日國寶に指定せられた。社傳將軍足利義稙の寄進にかゝると傳へてゐる。其他傳土佐光起聖武天皇畫像一幅、同光明皇后畫像一幅、傳信實筆菅原道眞畫像一幅、正親町公通自畫贊茄子繪一幅、土佐光則畫三十六歌仙三十六葉、念佛寺雜事引付一卷、念佛寺差帳日記一卷、足利將軍家教書一卷、女院御所下文一卷、三村宮唐櫃寄進狀一卷、官領衆幷諸大名免狀一卷、住持職事一卷、卷數之禮狀一卷、諸大名雜々、目錄雜々一卷、舊記一卷等鎌倉時代より豐臣時代に亙る賣劵、讓狀、受狀等數十通、東山天皇以下歷聖緣起天覽狀七幅、傳聖武天皇宸筆般若心經一卷、後伏見天皇宸筆和歌三百首一卷、北條遠江守氏朝寄進三村宮奉納和歌百首一卷、竹内良尚法親王書「三村宮」額面本紙一通、近衞忠熈書「開口神社」額面本紙一通、冷泉爲家筆古今集二卷、頓阿筆繫蒙抄一册、持明院基時筆伊勢物語一册、後桃園天皇奉納鐵木梨子地踏鐙一具、兼盛作衞府太刀一口、宗近作太刀一口、堺の刀匠文殊四郞氏定作大小刀二口、正重作短刀一口、攝津住吉忠倫作鉾一口、銘長月香木一片等がある。