九戸一揆の始まり

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奥羽の各地で一揆が勃発するなか、天正十九年正月、南部氏の居城三戸城では恒例の年賀の行事が行われ、その新暦の祝儀にただ一人九戸政実のみが病気と称して登城しなかった。年頭の挨拶に宗家に登城しないことはらかに宗家に対する反抗である。
 また、これより先の天正十八年三月、大浦(津軽)為信南部家からの独立を図り、浪岡(なみおか)城を城代楢山帯刀(ならやまたてわき)を三戸に敗走させた際に、政実は為信討伐の先手を命じる信直の指令に対して病気と称して出馬せず、政実と同盟していた久慈政則(くじまさのり)・櫛引清長(くしひききよなが)・七戸家国(しちのへいえくに)らも出兵を抑え、信直がやむなく津軽への出兵を断念するということがあった。為信の独立と津軽・外浜の領有はここに達成されたのであるが、この背景には政実と為信の連合があったからだといわれている(小林前掲論文)。為信自身、その出自について九戸政実方についた七久慈氏出身だという説が有力であり(長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)、為信と政実が連合する基盤はできていたのである。すでに豊臣政権によって信直が南部領の正式な大名として認定されているとはいえ、宗家の信直をしのぐほどの実力を戦国末期から蓄え家督奪取の機会をねらっていた政実にとって、奥羽一揆と連動するかたちで自らも一揆を起こし立ち上がらねば、二度と南部家家督を獲得する機会がないと考えたのも無理はない。政実は、天正十九年三月十三日の夜、櫛引清長七戸家国らと同心し、糠部郡の一・苫米地(とまべち)・伝法寺(でんぽうじ)の城館に夜討ちを仕掛け、ここについに九戸一揆が起こった。
 九方には、七戸家国櫛引清長のほか、かつて信直方に属しながら九方に走った吉田・福田両氏、日和見の態度を決めていた久慈郡の久慈備前(びぜん)兄弟、鹿角(かづの)郡の大里修理(おおさとしゅり)・大湯(おおゆ)四郎左衛門らの参加等があり、その勢力は三戸城を中心とした信直をしのぐものがあった。信直は、毎日二〇里、三〇里の間を戦のため駆け巡る状況であり、糠部郡の戦乱の様子は「糠部中錯乱(ぬかのぶちゅうさくらん)」と認識されるほど動揺していた。信直自身、九戸一揆九戸政実櫛引清長国人衆宗家に対する「逆心(ぎゃくしん)」だけで引き起こされたのではなく、糠部郡中の侍・百姓らがことごとく「京儀(きょうぎ)」すなわち豊臣政権の政策を否定しているからだと認識しており、この一揆の底の深さとその一揆の持つ力を自覚していた(「色部文書」)。

図9.九戸城全景

 この九戸一揆は、らかに豊臣政権惣無事令(そうぶじれい)違反であり、なおかつ信直は自身が抱えている兵力だけでは鎮圧できないと考え、強大な豊臣政権の軍勢による鎮圧にひたすら期待するばかりであった。信直は、子の利直(としなお)に重臣北信愛(きたのぶちか)と浅野忠政を供としてつけ秀吉との謁見を命じた。四月十三日に出発した利直は、北国海運によってへ向かい、五月二十八日に上洛、翌二十九日に南部氏取次である前田利家を仲介として聚楽第(じゅらくだい)の秀吉に会い、糠部郡への豊臣軍派を申請し実現させることに成功した。この豊臣軍派は、前年の天正十八年七月の奥羽仕置を最初の仕置とすれば、再仕置ということになる。