「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から堀越城へ居城を移転した。その際、神社・仏閣・諸寺院、家中諸士屋敷・商工居宅をも同時に移転させた。
堀越の地は、中世において津軽平賀(ひらか)郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・大浦を中心とする「西根(にしね)」地方との、いわば境界地帯であった。そのため、南北朝時代以降、しばしば前線基地として城館が設けられ、激しい攻防が繰り広げられていた(以下、資料古代・中世第四節「堀越城」、および長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊を参照)。
「永禄日記(えいろくにっき)」(資料古代・中世No.一〇七六)は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が堀越城を大々的に改修した記事を載せている。すでに為信は、新たな拠点として堀越城に注目しその強化に乗り出したことを知ることができる。大浦の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに対して堀越の地は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつ石川城にも近く、津軽の政治的中心として地理的条件を備えていたのである。
太閤蔵入地は、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川を分岐点とする津軽平野中心部一帯に設定され、為信はその代官となった。この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された大浦城を中心とする地域の支配強化を実現させた。また、岩木川東岸地帯で平川沿いの太閤蔵入地の代官の地位は、為信が同地へ統治を及ぼすことを比較的容易にし、自己の勢力拡大にも貢献した。為信の堀越城進出を可能にした背景には、戦国以来、南部氏が勢力を置いた「西根」地方の大光寺城・石川城の自力による獲得だけではなく、この太閤蔵入地の設定もあったのである。
岩木川沿岸部への太閤蔵入地の設置は、同地域の近世的体制への転換を促し、為信の岩木川東岸への本格的進出を可能にした。堀越城の拠点化は、同地帯の経営を容易にし、領内全域への近世的支配を及ぼす契機をなし、津軽氏が近世大名へと脱皮する転回点をなした。また為信は太閤蔵入地の代官となることによって秀吉政権の庇護を受けることになり、領内の小土豪層や小館主層を急速に為信のもとに被官化させていくことになる(長谷川前掲書)。「平山日記(ひらやまにっき)」には、慶長二年(一五九七)、為信の威勢が日増しに強化されたことによって、津軽の小館主らが家臣化し、津軽中が静謐(せいひつ)したと記されている。
堀越城は、文禄三年(一五九四)の大浦城からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が高岡城(弘前城)に移るまでの十七年間、津軽領の治府となった。この時期堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自ら近世大名へと成長してゆくステップでもあった。