岩木川舟運

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岩木川津軽地方の中心を南から北に流れる内陸輸送の大動脈の役割を果たし、さまざまな物資が行き来した。支流には平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしかわ)・十川(とがわ)などがあり、平川との合流地点以北では大川(おおかわ)と呼ばれ十三湖(じゅうさんこ)に注いだ。川湊としては浜ノ町(現弘前浜の町東・同西・同北)、船場(ふなば)(現藤崎船場)、板屋野木(いたやのき)(現板柳町板柳)、三世寺(さんぜじ)(現弘前三世寺)、(現五所川原市)、大泊(現五所川原市藻川(もかわ))、蒔田(まきた)(現金木蒔田)、十三湊(じゅうさんみなと)(現市浦村十三)などが挙げられる。領内の米や木材は各地の川湊に集められ、十三湊まで輸送された。これらの物資は十三湖周辺の小型船によって、七里長浜沖を南下、鰺ヶ沢湊(現鰺ヶ沢町浜町)まで廻漕され、そこから千石船などに積み替えられて上方に運ばれた。この廻漕のことを「十三小廻(とさこまわ)し」と呼んでいる。鰺ヶ沢からは、領外の廻船がもたらす木綿・荒物・紙・砂糖・瀬物等の生活必需品が逆ルートで領内に運ばれたのである。
 岩木川で使用された船は、ひらた船か高瀬船であったと推定される。この両船の他にも、やや大きめの船が使われることもあり、中には船の中央部に帆を張って川を行き来したものもあった。大正期の写真にも帆船を写したものがみられる。一般的にはこれらの船は、下りは川の流れにより船頭が操(あやつ)ったものであるが、川を遡上(そじょう)する場合は、沿岸から綱をつけて人力や馬で曳(ひ)いた。船の正確な大きさは不であるが、米の積載量から判断すると、大きなものは四三〇俵積み(「国日記」貞享三年閏三月十四日条)、小さなものは九三俵積み(同前貞享四年十二月晦日条)が知られ、その他の記録類からも大体一〇〇俵積み程度の船が使われたものと推定される。
 藩では年貢米を収納する米蔵を各地に置いた。それらは在に置かれた小蔵と、各小蔵からの年貢米を収納する御蔵に分けられる。小蔵の実態は不であるが、寛文年間には、御蔵弘前三世寺板屋野木鰺ヶ沢・十三・青森(現青森市米町)・高杉(現弘前高杉)に置かれていたことが判する(「御定書 一~七」国史津)。これらの御蔵に集められた年貢米は、鰺ヶ沢へ集められ、換金のため大坂に送られた。寛文四年(一六六四)十二月六日付の弘前蔵奉行宛ての布達によれば、鰺ヶ沢へは米三斗入り一俵について升(ます)で米一升五合と定められている(「御定書 二」)。一方、同年十一月六日付の板屋野木蔵奉行宛ての布達によれば、三世寺板屋野木へ駄賃は、米三斗入り一俵につき升で米一升であり(同前)、この時点では、馬による輸送が主体であったようである。
 ところが、寛文十年(一六七〇)三月十日付の十三沖横目宛ての布達によれば、三世寺板屋野木からの十三への下げ米を積荷状のとおり見届けるようにとの指示が出されており、舟運による米の輸送があったことを推定させる(「御定書 五」)。さらに、寛文十三年(一六七三)二月三日付の十三御蔵奉行宛ての布達によれば、三世寺板屋野木からの御蔵米は「川舟」で下げさせるようにと指示があり、さらに十三から鰺ヶ沢への御米廻しにも上乗りをつけ、濡(ぬ)れ俵が出ないように気をつけさせている(「御定書 六」)。鰺ヶ沢への廻送は「十三小廻し」と呼ばれるものだが、このころにはすでにそれが確立していたものと考えてよいだろう。少し時代は下がるが、元禄四年(一六九一)に鰺ヶ沢に陸路で運ばれた年貢米が四万五〇〇〇俵余であったのに対して、舟運による年貢米の輸送は六万一〇〇〇俵余に達しており、陸路を凌駕(りょうが)していたことが判する(「国日記」元禄四年二月二十五日条)。
 一方、米以外に舟運で運ばれたものには材木があり、寛文八年(一六六八)五月七日付の三世寺御横目衆宛ての布達によれば、十三よりの御用木三世寺川で受け取る時、手形を改めるようにという指示が出されている(「御定書 四」)。三世寺川とは三世寺付近を流れる岩木川のことで、川をさかのぼって御用木が運ばれたことを物語っている。