高照神社は、四代藩主信政を祀り、津軽弘前藩において岩木山神社とともに厚く信仰された神社である。社領は三〇〇石。信政は、吉川神道(よしかわしんとう)創始者の吉川惟足(よしかわこれたり)(従時(よりとき)、一六一六~一六九四)に師事して奥義を極め、「高岡霊社」の神号を授けられた人物であり、生前から葬地として決めていた高岡の地に埋葬された。神社は信政が没した宝永七年(一七一〇)の翌正徳元年から二年にかけて、五代藩主信寿(のぶひさ)が創建した。
この高照神社には、次の史料(大正五年「神社創設ノ由来」高照神社蔵)に示された内容の「御告書付」が、享和元年(一八〇一)~大正五年(一九一六)まで二五三件二五七通が所蔵されている。
左ノ事項ハ其時々使ヲシテ神前ニ報告セシムルヲ例トセリ、
文化四年(一八〇七)五月二十四日に高照神社に報告された「御告書付」(資料近世2No.一六〇)はその一例で、同年のロシア船によるエトロフ島襲撃事件への対応としての出兵命令が箱館奉行の羽太正養(はぶとまさやす)から達せられた内容である。
つまり、「御告書付」とは、藩が、改元や藩内の吉凶事、重要な政策遂行の折りに使者(原則的には組頭)を立てて高照神社に報告したものである(管轄は寺社奉行)。その意味でも、同社は当藩の精神的よりどころとして重要な役割を果たしていたといえる。
図158.御告書付
表45・46は御告内容・回数・年代を「御告書付」および「国日記」にみえる記事で分類したもので、これらの表から考えられる基本的事項は次のとおりである。
(1)藩主の動向を報告することが基本原則である。
(2)幕府や他藩など外部との交渉が生じるとき(北方問題の発生と対応、幕末期の動向、対幕府・朝廷関係)に行われることが大半であり、藩独自の出来事についてはほとんどない。
(4)時期的には北方問題発生時と幕末の混乱期に多い。
このほか、御告内容の実際の月日と御告御用実施日を比較してみると、通常は三週間遅れであるが、蝦夷地関係の緊急内容は約一〇日間遅れで実施されている。
表45 「御告書付」の内容と御用回数 |
分 類 | 項 目 | 御用回数(%) | |
天皇家 | 天皇家即位、崩御、改元 天皇家拝領品、献上品、天機伺 | 11 4 | 15(5%) |
将軍家 | 幕府拝領品、献上品 将軍家の吉凶禍福 | 29 8 | 37(13%) |
巡見使 | 巡見使関係 | 0 | 0(0%) |
高照神社 | 高照神社関係 | 4 | 4(1%) |
藩主家 | 藩主家の吉凶禍福等 参勤交代 | 87 62 | 149(54%) |
藩重要事 | 蝦夷地警備 江戸・京都屋敷 普請 京都警衛 江戸警衛 戊辰戦争 明治政府よりの指示等 | 14 16 2 8 5 15 13 | 73(26%) |
合計 | 278 |
注) | 分類は「神社創設ノ由来」による。内容兼帯は複数計算。 |
表46 御告御用の回数と年代(享和~慶応) |
年号 (期間・年) | 高照神社「御告書付」 | 「国日記」御告関係記事 | ||
回数 | 回/年 | 回数 | 回/年 | |
享和(3) | 1 | 0.3 | 1 | 0.3 |
文化(14) | 32 | 2.3 | 80 | 5.7 |
文政(12) | 32 | 2.7 | 112 | 9.3 |
天保(14) | 4 | 0.3 | 108 | 7.7 |
弘化(4) | 0 | 0 | 19 | 4.8 |
嘉永(6) | 5 | 0.8 | 24 | 4.0 |
安政(6) | 41 | 6.8 | 32 | 5.3 |
万延(1) | 14 | 14.0 | 14 | 14.0 |
文久(3) | 14 | 4.7 | 27 | 9.0 |
元治(1) | 17 | 17.0 | 14 | 14.0 |
慶応(3) | 21 | 7.0 | 3 | 1.0 |
合計(67) | 181 | 2.7 | 434 | 6.5 |
注) | 御告先が複数の場合も1回として計算。 |
ところで、高照神社に残る最も古い「御告書付」は享和元年(一八〇一)のものであるが、「国日記」によれば高照神社創建時の正徳二年(一七一二)五月三日条に記載されているのが最初であり、その後は、宝暦五年(一七五五)に一度(七月七日条)、寛政元年(一七八九)に三度あるだけで(四月十七日・五月十六日・五月二十五日条)、享和年間に至る(享和二年十月十五日条)。以後、毎年のように行われていくわけであるが、この享和年間以降、御告先に長勝寺(ちょうしょうじ)(弘前市西茂森一丁目)が加わり、これが基本となっていく。長勝寺(曹洞宗)は津軽家の菩提寺であり、津軽氏の先祖崇拝の中心的寺院である。したがって、御告回数や御告先の固定化からして、御告御用の本格化は享和年間以降と考えられる。また御告内容からみて、その背景に蝦夷地警備が本格化していた状況があったと考えてよいであろう。その意味で、高照神社蔵「御告書付」の残存状況は本来的なものとしてよい。
この時期の藩主は寛政改革を実施した九代寧親(やすちか)である。改革の中心政策は藩士土着政策であるが、その背景にはやはり蝦夷地警備の問題があった。改革は失敗に終わるが、その後の蝦夷地警備を精神面で強化していく方策の中に、この御告御用が導かれてきたのである。
寧親は文化七年(一八一〇)に高照神社の随身門(ずいしんもん)を、同十年に御廟所御門を建設したほか、種々修繕を加えているが、それによって「神威発揚(しんいはつよう)」がなされたとされている(前掲「神社創設ノ由来」)。「神威発揚」は後世の評価ではあるが、蝦夷地警備のなかで、藩体制の維持・強化のために寺社が積極的に参加させられていく状況と重ね合わせたとき、この「神威発揚」はきわめて意図的な政策であったとみなされよう(瀧本壽史「弘前藩『御告御用』の基礎的考察」『弘前大学国史研究』九八)。
以上、祈祷内容の変化と「御告書付」の開始時期とにかんがみると、これらは対外危機を契機とした藩体制維持のための危機的対応としてとらえることができる。そして弘前藩における対外危機意識を収斂(しゅうれん)するものとして機能したのが、この祈祷と「御告書付」だったのである。