他領者の入領規制と流通統制

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また、九浦を通じて購入するルート以外の、他領から訪れる「旅人」からもたらされる荷物も大問屋が管理することになった(同前No.一二〇)。荷物は大問屋が一括して買い受け、九浦のルートと同様、口銭を徴収し、扱問屋を通じて商人に渡された。大問屋が定めた値段以下の金額で買い取ることはできなかった。さらに購入に当たっては、「領内に入るには無益の品」と大問屋レベルで判断したものは返却してよいと規定されている。また、旅人の止宿については出発地・目的地をはっきりさせ、持参品とともに入領の際発行される「入切手」に記入することが定められていた。
 このような旅人の入領規制令は天保~弘化期にはしばしば出されている。天保十三年(一八四二)七月一日には他領の諸勧進や六部(ろくぶ)、遊行者(ゆぎょうしゃ)、「疑わしき諸浪人」の入領禁止が打ち出され、直接津軽領で商売をしない松前などへ通行する旅人も入切手などの携帯が義務づけられた。たとえ知り合いの他領者でも入切手は同様に徴収すること、用事が済んだら速やかに帰すことなどが定められた。旅人の「背負商」などの自由な商売は禁止され、従来どおり領内の問屋を経由させられた。また、在方町方では、身元が確かでない他領者奉公人として雇うことは禁止、田植えや稲刈り時などの短期間の雇用も同様、武家寺社奉公人は他領者を雇うことがないよう、通達された。
 その後、弘化元年(一八四四)十二月二十二日には惣問屋たちの要望により、旅人が入領した関所以外から出領する際の取り扱いなど、入切手出印紙(でいんし)に関する詳細な規定が定められた(「国日記」弘化元年十二月二十二日条)。出領時は止宿した問屋から証を受け、出印紙を発行されてから出領できることになっていたが、惣問屋たちの要望は全体として発行条件を緩和し、いったん入領した旅人の領内での柔軟な移動・出領を目指すものであった。たとえば、弘前で商売が成立せず両浜や黒石を経由して帰国する商人や、弘前以外の在・浦に用事のあった旅人を、わざわざ弘前を経由させ出印紙を発行するのも手間なので、入切手だけで通過させる。あるいは事後承諾の形で、出印紙を発行してもらう、急ぎの旅人の場合、出印紙の発行を待つために一泊させるのも迷惑をかけるので、問屋側で申請して、関所を通してもらう、などである。藩庁の回答は、基本的にはそれでは出印紙が名目のみになってしまうと、否定的であったが、青森深浦など関所口に近い問屋による書き換えを認め、また、急ぎの旅人の場合にも、あまり厳しくすると間道(かんどう)から出国をする輩が出る可能性があるので、あらかじめ印紙を野内(のない)・大間越(おおまごし)の関所、青森深浦町奉行所に渡しておくので、それで急ぎの旅人に対応するようにと、柔軟姿勢もみせている。
 しかし、「国日記」同月二十八日条によれば、贋(にせ)金銀の流通が発覚する事件があったことから、藩庁ではこれを他領者の仕業と断定し、より一層の入領規制を指示した。天保十三年にはなかった「俳諧師」「書画師」などの文人墨客も入領を禁止されたうえ、内々に借家させている他領者は即刻帰すこと(ただし、廃田復興に携わっている者は「御国益」になるので除外)、家中で他領出身の奉公人を雇っているものは即刻暇を出すこと、奉公人宿も他領者を扱うことは禁止、入切手を持っていても、原則的に「問屋往来宿」以外に止宿することは禁止と、全体的に他領者を排除しようとした。また天保の飢饉の際に他散した者が帰ってくる場合も、以前の住所や家族、旦那寺、さらに「親類村役町役」の名前まで確認するようにと、神経質になっているのである。
 もっとも、このような規制が出されていることは、一方では法令の励行が緩んでいることを示しているともいえる。たとえば旅人の自由な商売の禁止も、「従来守らない者がいるので、問屋どもによく申し含めるよう」にと指示をしているように、実際は後を絶たなかったことを推測させる。他領者の内々の借家の禁止も、実際は自他領に限らず「借家札」がないまま住まわせている「御家中給人」の存在があった。逆に旅人の入領規制の一方で、津軽領では松前稼ぎなどによる自領の人口の流出にも悩まされた。幕末に近くなり、経済活動の広域化とともに現実に広範な人口移動が起こりつつあり、それに対して領域経済圏だけを守ろうとする領主的対応では、事実上うまく立ち行かなくなってきたことの現れであった。
 藩の統制のほころびもみえ始めた。弘化三年(一八四六)三月二十七日、藩は物価引き下げ、家業札所持の徹底など、一連の商売に関する法令を出した(「国日記」)。その中で、青森鰺ヶ沢の両浜に着岸した荷物の買い入れに関する規定がある。従来は着岸しだい、荷物の到着を弘前商人仲間に報告するものとされ、商人仲間は相談のうえ当番を派し、現地で値段を決めてから、初めて買い入れができるという制度になっていた。両浜における城下商人の統制をらかにしているのである。しかし、実際は小商人たちがめいめい勝手に船より諸品を直接購入している状況で、値段も勝手に定めているとし、法令の遵守を命じている。実質的に城下商人の値段が無視されていたのである。
 城下で消費される魚類・塩肴・干肴の類も、荷売頭の管理のもとに販売されるものとされた。在方はそれぞれの「居鯖家業之者」を経由する。しかし、実際は日市を通さず、水揚げされた各で「直買」されたり、在方の者と城下町人との間で直接取引をする「触売(ふれうり)」が行われることも多く、藩庁では取り締まりに力を入れている(「国日記」)。また、在方の生活力の向上により、本来、弘前城下の一部の町でしか認められていなかった絹・木綿の販売も在方商人が無許可で広く行うようになり、藩庁では弘前に入ってくる商品量が減り、城下の衰退につながるとして、禁止の方針を立てている(「国日記」天保十一年十一月五日条)。このように、藩の厳しい規制にかかわらず、実際には内部からも流通統制が崩れつつあったことがうかがえる。