図210.蝦夷地分割分領図
さて、弘前・盛岡両藩と、その他四藩に出された達しには相違点が存在する。まず第一に、分領形態について、四藩に対しては、蝦夷地の一部を「領分」として与えると述べているのに対して、弘前・盛岡両藩には陣屋のある場所において「地所」を下されると述べられている。第二に、四藩への達しには警衛や開墾に関する文言が明記されているのに対し、弘前・盛岡両藩の達しにはそれがない。
この文言の違いは当時から解釈に苦労したもののようである。達しのいうところを理解しかねた津軽家では、達しが出された翌日、津軽家の「御用頼」である幕府奥右筆(おくゆうひつ)早川庄次郎のもとに江戸留守居役比良野助太郎が赴き、内々に達しの解釈を問い合わせている。
早川の回答は、おおよそ次のとおりである(資料近世2No.一五五)。
この早川の回答から、仙台・秋田・庄内・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として新たに分与するのに対し、津軽弘前・盛岡藩に与えられるのは警衛の「持場」の中にある漁場にすぎないこと、さらに幕府は、仙台・秋田・庄内・会津の各藩に与える地域を「奥地」の「不毛之地」と認識していて、その地域の「新田開発」をさせるのが分領の目的だったということがわかる。
次いで、十一月二十六日、蝦夷地御用掛を命じられていた老中脇坂安宅(わきさかやすおり)の屋敷に津軽・南部・伊達・佐竹・会津松平・酒井各家の家臣が呼び出され、それぞれに領分・地所・警衛地を割り当てた書面が渡された。それにより、津軽家は、陣屋附きの「地所」として、従来警備してきた蝦夷地西海岸のスッツ領からセタナイ(現北海道瀬棚郡瀬棚町)領を与えられ、その漁場の運上金を得ることとなった。さらに、幕府領の乙部村(現北海道乙部町)からセタナイに至る間の警衛を担当することとなった(『大日本古文書幕末外国関係文書』三〇)。
分領体制によって、各藩に対して与えられることになった漁場の運上金および別段上納金の見込額をみると、津軽弘前藩・盛岡藩へのそれと、仙台・秋田・庄内・会津藩のものとでは、運上金の額に著しい格差がある(表66)。この点から、幕府がこの時期の蝦夷地警衛の重点を対ロシアとの国境問題が存在する北蝦夷地に置き、その警衛を担当する仙台・秋田・庄内・会津藩に対する配慮を加えたといえる(麓慎一「幕末における蝦夷地政策と樺太問題―一八五九(安政六)年の分割分領政策を中心に―」『日本史研究』三七一)。
表66 分割分領6家へ支給する漁場運上金見込み(安政6年11月) |
運 上 金 | 別段上納金 | 合 計 | |
仙台伊達家 | 2435両 | 532両3分永50文 | 2967両3分永50文 |
会津松平家 | 2500両 | 370両 | 2870両 |
秋田佐竹家 | 2325両1分永150文 | 728両3分永125文 | 3054両1分永25文 |
庄内酒井家 | 1839両 | 287両1分 | 2126両1分 |
盛岡南部家 | 67両2分 | 14両3分永50文 | 82両1分永50文 |
弘前津軽家 | 292両 | 167両永100文 | 459両永100文 |
注) | 『大日本古文書 幕末外国関係文書』30 第120号文書により作成。 |
これまで「北狄の押(ほくてきのおさ)へ」を自認し、蝦夷地警衛に主として当たってきた津軽弘前藩の立場は、蝦夷地をめぐる情勢の変化と、同藩より大きな軍事力を期待できる奥羽諸藩の警衛投入および領分配当によって、各藩と同列に位置することになった。