大社の神仏分離

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弘前藩の神仏分離は、大社から行われた。明治三年八月に社寺掛は伺いを出して神仏分離の方針を定めたが、それによると、まず、東照宮(とうしょうぐう)は日光東照宮の例を調査してから行うとしている。次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は神宮寺別当を免じられ、本社の仏像神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか)神社と改称することとなった。袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)は袋宮が別当を免じられ、報恩寺(ほうおんじ)境内の無量院へ引き移ったが、藩ではこの事例を熊野宮だけが残り、鳥居を除去する必要もないことから、神仏分離を進めるに当たって好都合だと評価していた。ところが、神職森下小伝はこれまであてがわれていた寺禄五〇石がなくなるのは困ると訴えており、神仏分離は従来寺社一体として厚い保護を受けていた僧侶神官の経済を根底から揺さぶるものであった。
 以下、その他の大社の状況を列挙しよう。稲荷宮(現市内新寺町稲荷神社)は、白孤寺(びゃっこじ)が別当を免じられたが、神官になる者がいなかったため、例外的に別当還俗(げんぞく)して神職となり、仏体を神体に代えることとした。ところが、別当は老年の師匠を捨てておけないし、自分は仏恩が深いとして仏像とともに貞昌寺(ていしょうじ)(新寺町)に移りたいと願い出たため、神体は品川町弁天宮の山辺稲尾が譲り受けることとなった。
 最勝院は、弘前八幡宮(現市内八幡町)の別当を免じられ、堂塔は破壊され、明治五年(一八七二)に大円寺(だいえんじ)(現最勝院、市内銅屋町)へ移った。これに伴い、大円寺は高伯寺(こうはくじ)跡(現南津軽郡大鰐町(おおわにまち))へ移転した。
 愛宕(あたご)権現宮(現市内細越(ほそごえ))は、本尊が勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)であったため神号をやめて鳥居を除去し、別当橋雲寺(現橋雲寺、中津軽郡岩木町植田)はそのまま寺院として存続することとなった。

図78.愛宕山橋雲寺お札

 岩木三所大権現(現中津軽郡岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を免じられ、岩木山山頂御室(おむろ)に安置されていた仏像と、麓の下居宮(おりいのみや)の仏像百沢寺に預けられた。そしてこれまでの大堂は拝殿(はいでん)、山門は楼門(ろうもん)と改称し、新たに神体を祀らせた。また、下居宮神社安倍貞世岩木山神社神主に任命され、広大な境内の林は岩木山神社百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう)(現求聞寺、中津軽郡岩木町)の三者で分けることとなった。御室には新たに神体が祀られることとなったが、東京に神体を注文し、銃四人で道中を護衛させて明治四年七月に遷座式(せんざしき)を執行(しっこう)した。後に岩木山神社は国幣小社(こくへいしょうしゃ)に指定され、津軽惣鎮守として多くの信奉者を集めたが、この時も八朔(はっさく)(旧暦八月一日のお山参詣)が近かったため、急いで神体を調えたのである。
 ほかに古懸(こがけ)不動尊別当国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関(いかりがせき)村)、観音堂別当久渡寺(くどじ)(現市内坂元)については、もともと仏教神仏混淆はしていないので別当御免とはならなかったが、境内神社が移転されることとなった。