寛永四年(一六二七)九月五日、弘前城本丸天守が焼失した。この折に、天守に収蔵されていた、家臣団から提出させて保管していた文書・記録類が灰燼(かいじん)に帰したとされる。二代藩主津軽信枚(のぶひら)は古記の収集・筆写に力を入れていたといわれるが、焼失した文書類もこれらの作業のために募集・保管されていた可能性がある。これらの動きから、信枚が何らかの形で歴史の記録を試みていた可能性が考えられる。
信枚に次いで歴史編纂に意欲を燃やしたのが四代藩主津軽信政である。彼は家臣団の先祖の名前や事績に深い関心を持っていた。この一事をもってしても、彼が自分自身のよって立つ基盤の成り立ちに深い興味と関心を示していたことがうかがえる。信政は信枚の時期に収集した古記録類を、譜代の家臣取り立ての資料とするために江戸に運搬した。ところが、明暦三年(一六五七)、いわゆる「明暦大火」によって津軽家の神田小川町上屋敷も罹災(りさい)し、その際土蔵に収められていた「御代々御日記并御武器・御重器」が焼失してしまった。「御代々御日記」がどのような性格の史料なのか明らかにできないが、藩主の年代記のような編年体の記録の存在した可能性が指摘されている(長谷川前掲「津軽藩藩政文書の基礎的研究(一)」)。
先に国元津軽で、そして江戸においても史料が焼失してしまったために、藩の成立にかかわる史料が数多く失われてしまったと考えられる。しかし信政は新たな史料調査と収集に取りかかり、その成果を一〇冊にまとめたという。この著作を現時点では確認できないが、信政の代に、藩は歴史編纂に本格的に取り組みだしたといえる。
寛文四年(一六六四)、藩では領内の古懸(こがけ)不動尊・浪岡八幡宮・百沢宮(ひゃくたくのみや)をはじめとする寺社の縁起や棟札、また「御郡謂書」・「万蔵寺古記録」・「津軽昔之由来書」・「最明寺殿日記」・「十三物語」といった書籍を収集・書写した。また同じ年に、古い家柄を誇る家臣高屋清永に対して、家伝来の史料を基に「歴代覚書」を編纂して差し出すよう命じた。「歴代覚書」は、津軽家の歴史を記した最も古い編纂物であり、別名「高屋家記」または「東日流(つがる)記」と呼ばれるものである。その内容は藩祖為信の誕生から津軽信義の入部までを記し、また「東日流記後録」には、岩木山や津軽家の先祖に関する記事が記された。
図114.東日流記
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寛文八年(一六六八)三月朔日には、家臣土岐新左衛門が「為信公時代之覚書」を提出し、信政から銀若干を拝領したという(『記類』上)。寛文十二年(一六七二)五月二十七日には、為信以来の「忠功之者」の子孫は貴賤、浪人を問わず言上し、たとえ現在無役であったり家が断絶した者についても、先祖の名ばかりでもよいから「記録」を差し出すよう物頭に申し渡している(同前)。同年には、百沢求聞持堂に対して、信枚が納めた願書や、発布した法度を提出させ書写させてもいる。さらに、貞享元年(一六八四)六月、京都の町人糸屋助右衛門から、慶長五年(一六〇〇)八月十九日付の為信宛徳川秀忠書状(資料近世1No.八一)を購入している。この書状は為信に関ヶ原参陣を促したものであるが、どういう経緯でこの書状が糸屋の手に入ったのかは不明である。このように、信政の時代に史料収集・調査が熱心に行われた。
さて信政は、このように収集した文書や、自家に伝来する文書を集めて文書集を作った。これが現在東京大学史料編纂所に謄写本(とうしゃぼん)の形で残されている「津軽古文書」である。この古文書には、宝永三年(一七〇六)十二月の信政の奥書が記され、判物・朱印状・御内書・老中奉書など、津軽家にとって重要な文書を近衛基煕に添削してもらったとしている。このような史料集の作成は、史書編纂の基礎作業と考えられ、信政の史書編纂構想はかなり具体性を帯びていたといえよう。
これらの出来事から、信政の史料収集の意図は、第一に中世津軽地方の歴史、第二に為信による津軽統一の軌跡を明確にし、藩の歴史をまとめ上げることではなかったかと考えられる。