安政の箱館開港以降の交易実態については、少なくとも次の二点から考察されるべきであろう。ひとつは文字どおり国際交易港としての交易活動であり、もうひとつは蝦夷地警衛に伴う兵站(へいたん)諸物資の移動、ないしはそのルートを利用しての津軽と蝦夷地間の商品売買である。
まず国際交易に関しては、「国日記」をみる限り当該記事はあまりみえず、詳しい様子を探ることはむずかしい。ただ断片的には次のような事例が収録されていることから、当藩が決して交易に対して無関心ではなかったことがうかがわれる。たとえば焔硝師(えんしょうし)善九郎という者が岩木山で硫黄を採取しており、年々一〇〇箇ほどを江戸に廻漕(かいそう)しているので、これを箱館の異人に売れないか、勘定奉行が稟議(りんぎ)を出している(「国日記」安政六年五月四日条)。さらに藩は民間人に対して、箱館で購入した書籍類はキリシタン関係のものがないか、役所で裏印を受けるように布達したり(同前安政六年八月二十一日条)、青森浦町村(うらまちむら)三郎次の孫娘が箱館でアメリカ人医師の妾となり、法外な美服で青森に帰り、三郎次が厳重注意を受けている(同前安政六年九月二十五日条)などの事例から、藩だけでなく、庶民レベルでも外国人と相当親密な関係をもったことが判明する。
前出の金木屋又三郎は商売上からか、和親条約締結後の箱館開港という比較的早い時期から異人に興味を示し、接触があったようである。「金木屋日記」によれば安政二年(一八五五)に入ると津軽領内にロシア煙草が入ってきたらしく、外見は黒い千枚漬けのようで、少々湿り気があり、吸ってみた所、妙なにおいがしたという。同年二月には、又三郎は箱館の図を入手しており、弘前藩の千代ヶ岱(ちよがたい)陣屋や湾内の異国船も描いている。異国船はアメリカ・イギリス・ロシア・フランス各国のもので、ほかに広東(カントン)人も箱館に来航していると記している。安政四年(一八五七)閏五月、金木屋ではアメリカから注文があったとして、米三万俵・大豆・大和錦・カンテン・鶏・樟脳(しょうのう)・緋縮緬(ひぢりめん)・卵・塗り物蒔絵(まきえ)などが書き上げられており、又三郎はアメリカ人の性格や体格に言及してなかなかのくせ者であると述べている(長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)。
また、金木屋のほか、箱館と地理的に近接する青森でも異国を商売相手と考える商人がいた。箱館奉行所や東北諸藩の御用達(ごようたし)に任命された廻船問屋滝屋(たきや)善五郎や藤林源右衛門などがその筆頭であり、彼らは万延元年(一八六〇)二月に、箱館の異国船が昆布を高値で買い取っているので、津軽でも三厩(みんまや)産の昆布を移出する計画があってしかるべきだと藩に上申した。当時、箱館の主要貿易品目は昆布・煎海鼠(いりこ)・干鰒(ほしふぐ)などの俵物(たわらもの)やスルメ等の海産物であり、イギリス船で中国市場に大量に送られていた。滝屋善五郎の日記によると、この時には一〇〇石分の昆布の輸出が計画された。
また、慶応元年(一八六五)年には、青森の商人大村屋庄蔵・西沢善兵衛らが木材の売買契約を外国商人と結んだ。契約の内容は津軽産の材木二〇〇〇本のほか、仙台・秋田藩の商人も取り込んで、相当数にのぼる材木を輸出するというものであったが、品質に難を示した外国商人により一方的に契約が破棄され、弘前藩箱館留守居野呂謙吾が引責辞任に追い込まれている(浅倉有子『北方史と近世社会』一九九九年 清文堂刊)。
このように、旺盛な交易意欲を持つ多数の商人が活発な商業活動を展開しようとし、藩としても積極的に貿易の主体として乗り出したかったであろうことは容易に想像がつく。明治二年(一八六九)三月に、弘前藩は二〇万両を越える巨額の資本金を出して青森・弘前の大商人たちを結集させ、藩の指導のもとに対蝦夷地交易会社「青森商社」を設立するが、その下地はこの安政期から十分に熟成していたのである(青森商社については通史編3を参照)。