[翻刻]

  (翻刻は「信濃之部」のみ)
 
二十四拝順拝図会巻之五      3
信濃国 越後より信濃へ至るに、関川と野尻との間に国界の川あり。  
    右の方に黒姫飯綱戸隠山の嶺聳へて見ゆ。
    〇戸隠山ハ越後に隣り黒姫山に並べり。祭る御神ハ手力雄命なり。日の神天石屈に籠
     らせ給ふ時、常夜の国と成りしかバ、もろ/\の神達磐戸の前に集り神楽を奏し、
     常夜のながなき鶏をうたハせ給ひけれバ、日の神磐戸を細く明給ひ、其神楽をみ
     そなわし在すを、かねて戸脇にかくれましませる手力雄の神、磐戸を引放ちて空さまに抛給ひ、
     日の神の御手を取て引出奉る、其抛給へる磐戸此山に落止りしと。即是を
     隠山
といへるとなん。此山頭に洞穴あり。内に九頭竜権現在して、此山を鎮護し給ふ。
     立願せる者ハ、必ず洞中へ梨の実を捧げ奉れバ忽ち応験有て、祈念する事
     悉く成就すといひ伝へたり。訳て口中のなやみ歯の痛みに苦しむ者ハ、遠き国を
     隔しも一生涯梨を断物とし、此戸隠山九頭竜権現を念じ奉れバ、霊験非ずと
     いふ事なし。誠に異霊の御神也。
    〇野尻の里に湖水あり。其流れ越後国へながれ、今町の浜辺にて海に入れり。此川を
     関川といへり。此湖水も当国諏訪湖と同じ、氷の張つめたる其上を馬車も心よ
     く往来せり。諏訪の湖ハ寒中に氷れども、此湖水ハそれには異変り、厳寒の
     時ハ水あらく浪高くして氷結バす、早春に至りてはじめて氷れり。湖中に嶋有、
     弁才天を鎮座せり。
 
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戸隠山  
  
戸隠山に詣ずるニハ
南面より登山し、
大門二王門を過れバ、
奇石怪岩苔なめ
らかにして、松杉の大古
樹左右に生ひ繁り、日の
蔭をももらす事なし。此間道の
傍に人家あり。皆板を以て屋上を
蓋へり。山の北面には盛夏の時といへ共
猶雪深く、樵夫も快く登る事を得ず。
此山の北に俊嶺あり。阿弥陀が峯と称す。
山中すべて栂の大木繁茂せり。
高祖聖人爰に登山まし/\、中の院
行照坊に暫く止り給ひ、三尊の
弥陀仏を感得有て、即筆を
染られ、其尊影を写し給ひ、
今も猶当山の什物たり。
 
   (改頁)
 
又聖人戸隠山より
おぼろなる月のさし
のぼりたるを御覧じ、
詠じ給ふ
 御哥あり。
  
戸がくしの
 杉間に月の
 うつらふハ
心の玉を
みがけ
  とぞ
      思ふ
 
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    〇妙高山ハ野尻より西の方、越後の国界に有高山也。北国のならいとて積雪白妙
     に珠を植えたるごときも、きさらぎの頃雪の解かたには山の字を顕ハせるを、往還
     の旅人眺めて殊に奇とせり。
月原山明専寺 東派 水内郡柏原ニあり。
 本尊阿弥陀如来 御長ヶ二尺八寸 本堂九間四面〇此寺往昔三州賀茂
 源信和尚御作也。
 郡月原といふ所に有て天台宗なりしが、高祖聖人関東より御帰
 洛の時、三河国矢矧の宿柳堂におひて御教化あらせ給ふ砌聖
 人に帰依し、聞法随喜して夲宗を改め、真宗の仏閣とな
 れり。其後御弟子真仏上人も爰に来て化益し給ふ古院
 なり。高祖聖人九字の名号三幅を染筆あらせられ、一幅は
 此明専寺に授与し、一幅は当地の五郎大夫に給り、一幅は播州
 魚橋安楽寺に授け給ふとかや。〇当寺ハ其後真宗念
 仏の道場として代々相続したりけるに、天正年中に織田
 
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   (改頁)
   (改頁)      9
 
 信長公石山の御本坊を責めて合戦に及び、顕如上人大坂御
 籠城有し時、三州に真宗の門徒数多有けれバ、国司より信
 長公へ対し憚り給ふの旨あつて、宗門御停廃の事あり。
 しかれども志の深切なる者ハ、国司の命を違背して改宗
 せず。これによつて了西禅門など首を刎られぬ。其時明専
 寺とかの五郎大夫ハ国中退去仰渡されし故、当国に立越へ、
 始ハ普光寺村に閑住し、のち又当所に移住し、寺跡相
 続すといへり〇霊宝九字名号、十字の名号[聖人之御真筆]、六字名号
 [蓮如上人御筆]、其外数品これを略す。
枕石山願法寺  水内郡新井村に有。  
 夲尊阿弥陀如来[善光寺分身の如来聖徳太子御感得也]〇祖師聖人枕石御本尊[御首]
 [ハ御自作にして尊躰ハ如信上人の御作なり]其外霊宝略之。
 
   (改頁)
 
 〇柏原より一里余、新井より二里、平手村といふ里に藤兵衛と云
 在家あり。是三州の住人五郎大夫が末孫にして、専明寺と同
 時に信州に立越当所に住す。聖人御真筆九字名号を伝
 来して安置せり。
   ○此辺りに吉田といへる所に、覚如上人の御弟子善教坊の旧跡たる
    善教寺といへる寺あり。
  
善光寺 天台宗  
 坊舎四十六区〇夲堂[高サ十丈の二重作り、表十五間二十九間三尺、柱数百三十六柱]四方四門の号、東ハ
 定額山善光寺、西ハ不捨山浄土寺、南ハ南命山無量寿寺、
 北ハ北空山雲上寺とあり。正南ハ破風作にして、他の堂舎に
 異也。内陣は真中を限り、左の間に善光・善佐・弥生前の
 像を安置し、右の間の御戸帳の内、御夲尊御正躰鎮座なし給ふ。是又
 
   (改頁)      10
 
 他の堂塔に夲尊を安置せる格と等しからず。往昔善光の屋造りニ準
 じたる堂造り也とかや。又如来善光に仏勅して、予と汝と同座せ
 んと示し給ふ事有ける故、内陣を左右ニ安置せしとぞ。〇山門[高さ六丈六尺七分、桁行十一間一尺三寸梁間四間]
 [二尺四寸]。二王門[高サ三丈九尺二寸、桁行六間四尺六寸、梁間四間壱尺二寸]。〇経蔵[高サ四丈六寸二分、六間三尺二分四方]。
 夲尊一光三尊閻浮檀金正身阿弥陀如来也。此如来の日夲へ渡らせ給ふハ、
 人皇三十代欽明天皇十三年壬申十月十三日。夲堂建立ハ人皇三十
 六代皇極天皇の勅願也。開基ハ本多善光朝臣也。
   〇釈尊東天竺毘舎利城に在して法輪を転じ給ふ砌、月蓋長者仏勅  
    によつて西方阿弥陀仏を祈念せしかバ、忽ち長者の西の楼門に正身の
    弥陀如来
影向し給ふ。其時釈尊目蓮尊者に命して、竜宮城より
    閻浮檀金を取来らせ給ひ、高台にのせて阿弥陀仏に向ハしめ給ふ
    に、如来金色に光を放ちて彼金を照し給へハ、黄金其儘一光三
    尊の仏躰を現じ、影向の三尊と左右に立並び、何れをこれと見分
    難く拝れ給ふ。漸有て一仏梵音を発し、一仏に告て曰く、「汝ハ此
 
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   娑婆界に留り、未来世の衆を渡すべし」と記別して、光明とともに
   西の空へ飛去給ひぬ。今一仏ハ月蓋長者の家に留り、種々の奇瑞
   無量の利益を施し給ひけり。月蓋代々生れ来て此尊像を敬し
   奉りけるが、夲願を起して生を転じ、百済国聖明大王と生れしとき、
   如来も同じく百済国に飛来りて大極殿に入給ふ。聖明王深く尊
   敬し給仕し給ひ、又生を改め帰敬有けるに、如来異の方便に依て、
   聖明王の後身此日夲に化して信濃国に生れ、伊奈郡麻績の里
   に夲田善光と号く。然るに此如来善光に強縁を結ばせ給ふに
   より、人皇三十代欽明天皇の御宇に当つて日夲に渡らせたまふ。
   天皇深く尊敬有て、曽我大臣に命して豊浦の里向原寺に安座
   成し給ひけるに、守屋大連悪逆無道にして向原寺を焼亡し、如来を
   豊浦難波の渕に沈め奉りけり。其後人皇二十四代推古天皇の御宇、
   大和国豊浦の宮警固の為、信州夲田善光在番す。三年の任満て本
   国へ帰るさに、彼難波の池の辺りを通りけるに、如来忽ち水底より飛
   出、善光の肩脊に移り給ひ、「汝が過去の前身ハ天竺にてハ月蓋、百
 
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   済にてハ聖明王たり。我ハ是阿弥陀の三尊にして、汝に深き強縁有ニ
   よりて日夲に来り、年久しく汝を待居たり。速に汝が夲国に到り、
   未来世の衆生を済度せん」と、明かに悟し告給ふ。善光歓喜の涙に
   むせびつゝ、竟に本国信濃に守帰り奉り、妻弥生一子善佐とも尊
   重恭敬の誠心を尽しける。而后人皇三十六代皇極天皇崩御有
   て、悪趣に堕せんとし給ひしを、如来これを救ハせ給ひし事有。爰に
   おひて天皇広大深重の恩徳を思召れ、勅命有て大伽藍を
   建立し、正身の仏躰を爰に鎮座在し給ふと也。[委しくハ如来伝記ニみへたり。其外境内諸堂図画のごとし。]
  
 〇高祖親鸞聖人此霊場に度々参詣したまひけり。就中元仁  
 二年聖人五十三歳四月十九日、此御正躰一光三尊の真仏を一躰
 分身として感得し給ふ。即野州高田山専修寺尊像、天拝の如
 来是也。縁起は高田山専修寺の所に記するがごとし。
親鸞松 本堂右の間、内陣本堂前惣戸帳の前、結界の内に大机あり。其上に大なる
    花瓶に松一夲建られたり。
 
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 伝に曰、聖人当寺へ御参詣あらせ給ひ、塔中の僧坊願証院に
 止宿在すの間、日毎に山に入らせ給ひ、若木の松一夲を裁
 て仏前に供じ給へり。それより以来数百年の今に至るまで、
 一日も怠りなく日々松を供する事、善光寺の法例とは成れり。
 抑此三尊仏ハ、方便法身の御姿より照らし給ふ光明中に出現し
 給ふ尊像なれバ、是正真の阿弥陀如来なり。親鸞聖人ハ是正しく弥陀応
 化の聖者なれバ、内証同躰たりといへども、暫く能所の形を示し、善巧方
 便の益を施し給ふとなん。所謂松ハ諸木の司として十八公と称すれバ、
 即弥陀の十八夲願に表したりといへり。伏惟バ能所同躰の中に松一
 本のみ立給ふの由謂、信するに感有。故に親鸞松と称し来れると
 かや。
堂照坊
 善光寺塔中四十八坊あり。内十五坊ハ妻帯して如来を守護す。是百済国より如来に随ひ来て
 常随給仕し給ひし僧達の子孫也とかや。他生を撰み如来に付従ふ根夲の忠僧達の姓をつたへて、
 
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 如来に給仕なさしめんがため妻帯して勤仕
 有けるとなん。堂照坊ハ右十五院の内、其一坊なり。〇善光寺南門堂照坊願証院ハ、往昔高祖
 親鸞聖人御参詣宿坊なり。御止宿の間に残し置給ふ御遺宝、二種伝
 感得し給ひける時も、此坊に止宿し給ふと也。又元祖法然上人も爰を宿
 坊として一七日参籠し給ひける旧跡也。○什宝笹葉の名号[聖人御真筆なり。くま笹の]
 [葉に墨を染め、これを並べをして、六字の名号を書し給ふ、世に無類の名号なり。]○御歯一枚[聖人の御歯也。御止宿の間ニ落させ給ふ所也。]○紺紙金泥の弥陀
 経[覚如上人御筆]。
    ○善光寺の東の方に、犀川筑广川二ツの大川有。筑广川ハ其源甲州より出て、浅間が  
     岳の麓をめぐり流れ下る。犀川ハ当国鳥井峠の辺りより出て、長沼の辺りにて
     両川合流し、越後へながれてハ信濃川と号し、新潟の湊より北海に入る。此川北国中の
     長流なり。此犀川を渡り、千隈川の間を川中嶋とよべり。其西を丹波嶋といふ。此所
     いにしへ治承の末、木曽義仲と越後の住人城太郎資平合戦ありし古戦場なり。
     東の方に上杉入道謙信が砦をかまへたる西条山あり。都て此辺りの畠を合戦畠
     とよべり。
    ○川中嶋ハ永録年中、甲斐の武田入道信玄越後の入道謙信と対戦し、双方智
 
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     勇の武臣等討死を遂し大合戦の所にして、其名世に高く諸書に委敷のべ
     記したれバ、其事ハ爰に云ハず。
    ○姨捨山ハ更科郡屋代の宿より戸倉へ行間、千隈川の向ふに有。鏡台山・有明山
     につらなり、其間に更科川の流れあり。新勅撰に此川を、
     今更にさらしなの川のなかれにも浮影みせんものならなくに
     姨すて山長楽寺ハ観音を安置せり。左の肩に姨石といへる大石有。此所いにしへ
     姨を捨たるしるしとかや。大和物語に、「更科の里に住ける男、姨を養ひて親の
     ごとくかしづきしに、其妻のつらくにくみて夫にさかしらを言含め、深き山の奥
     へすてさせたり」とみへたり。俊成卿の無名抄には、「昔姪を子にして年来養ひけ
     るが、姨の年老てむつかしけれバ、八月十五日月のくまなきに、此母をすかしのぼ
     せて、捨置てにげて帰りける」と見ゆ。
     古今 我こゝろ慰めかねつ更科や姨すて山にてる月を見て
     新古今 今よりハ秋をば捨の山桜月と花とのありあけのころ
    ○田毎の月ハ、更科姨捨山の山田にうつる月かげの、田面/\にならべて見
     ゆるを、此所の風景とせり。
布野長命寺 西派  善光寺より一里  
          南掘にあり。
  当寺ハ高祖聖人の直弟野田西念坊の苗裔にして、西派二十四輩
 
   (改頁)
 
 第七番也。本堂十二間四面、経堂一区、坊舎三坊。本尊阿弥陀
 如来
[開基西念坊百歳にして作]。西念御坊の俗姓ハ、人皇五十六代清和天皇
 の苗裔、八幡太郎義家の孫、讃岐守満実[対馬守義親の子也。]といへるハ、
 信州高井郡井上の城に住して、井上次郎満実と号す。其子井上五
 郎盛長の息、宇野三郎源貞親といふ人なり。六歳の時文治五年、父盛長
 戦場におひて討死せり。それより母に相具せられて、同国水内郡駒沢
 に移住し、廿六歳にして母をも失ひけれバ、貞親発心の志頻にし
 て、越後国五智の如来へ参籠し、明師に値遇せん事を祈る。七日
 満ずる夜、夢ともなくうつゝにもあらで、五仏顕然として告て曰ク、
 「尓有為転変の娑婆界を厭ふて、菩提の道に入ん事を思ふ。
 誠に奇特の志なり。幸なるかな今爰に真の知識有。其名を善信
 坊親鸞といふ。彼師に随従して教化を蒙るべし」と、新なる霊告
 
   (改頁)
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 を奉蒙、急ぎ聖人の草庵に至り、発心の志、如来の霊告を
 語り、伏て御教化を願ひ奉れハ、聖人即彼が為に他力夲願
 の不可思議を談じ、凡夫往生の安心をいとねんごろに示し
 給ひけれバ、貞親随喜の涙にむせび、立所に信心発得して
 御弟子たらん事を願ふ。聖人これを免し給ひ、西念と名
 を給りける。宿縁のほどぞ有難き。是よりして西念日夜高
 祖聖人に常随し、称名念仏怠る事なかりしが、後に武州
 足立郡野田といへる所に一宇の寺を営み、専ら弘願一乗
 の宗風を伝へ、祖師聖人御入寂の後といへども弥々教化
 壮ん成りけるが、正応三年に御夲廟第三世覚如上人
 関東御経廻の時、西念いまだ存命して百七才にて覚如上
 人に謁し奉りしかバ、覚如上人大に歓び給ひ、西念に対し祖師
 
   (改頁)
 
 御相伝の安心を尋給ひしに、西念坊頓て高祖聖人より
 口授相伝する所の安心起行聊滞る事なく演説せし程に、
 覚如上人殆ど歓ばせ給ひ、「御坊の年齢百に七とせを積り、極
 衰老の耄言忘失の語も有べきに、其言語あざやかに聖人
 の口決少しも遺忘なく、高祖の直説を聞に異ならず。実に讃
 称せるに余りあり。是全く命齢の長たる徳なれバ、自今已
 後此寺を長命寺と号すべし」と命じ給ふ。于時西念御坊
 其翌年百八歳を命終とし、三月十五日させる悩みもなく
 端座合掌し、観彼如来本願力の文を誦し、念仏数百篇
 唱へつゝ、ともに息絶大往生を遂畢ぬ。第二世の住覚念坊も
 聖人の直弟也。是又長命にして、延慶二年に九十八才にて
 寂を示す。第三世西祐坊の時、建武の乱に寺を破却せられ、
 
   (改頁)
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 信州駒沢ハ開基西念坊の故郷なれバ、爰に長命寺を再
 興し、前後五代を経けるが、第七世信貞坊の時、堂舎を
 同郡布野に移し、享保年中に又此南堀に引移て万代に
 不易ならしむ。○霊宝十字名号[親鸞御直筆]〇九字名号[聖人御直筆]○
 簾の名号[聖人御細工の六字也]○船板六字名号[善導大師御筆]〇六字名号[蓮如上人御筆]
 西念坊の像
成田山西厳寺  東派 南堀より三十丁、長沼にあり。  
 本尊阿弥陀如来[恵心僧都御作]。本堂九間。蓮師堂には蓮如上人御自画
 の真像を安す〇当寺開基釈空清、其俗姓ハ武蔵国忍の城
 主成田平山の三男、成田下総守といふ者これなり。高祖聖人関
 東御経廻の砌、善縁こゝに熟して御教化を蒙り、御附弟と成り、爰に
 一宇を建立して真宗を弘通し、西厳寺と号す〇十字名号[六筋]
 
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 [の光明中に六躰の化仏あり。聖人の御真筆]〇十高僧[聖人御筆]〇絵像の阿弥陀如来三幅[一幅は善導大師]
 [御筆、一幅ハ恵信僧都御筆、今一幅ハ実如上人の御筆]〇大般若経切[弁慶の筆]〇亀井六郎への消息[弁慶の筆]
 阿弥陀の梵字[中将姫の剃髪にて織給ふ所。地絹ハ蓮の糸也。開基成田下総守空清所持す。]
平林山夲誓寺 東派 長沼より五里半、松代にあり。
 本誓寺ハ新田院護法堂と号す。夲堂十間四面、塔中二坊。
 本尊阿弥陀如来[是瀬踏の阿弥陀と称す。縁起は奥にしるす。]開基是信大徳。東派二十四
 輩第十番に属す。是信大徳ハ、俗姓藤原氏吉田大納言信
 明卿なり。高祖聖人上足の真弟と成り、師命を承つて奥州に
 趣き、石が森といふ所に一寺を建立し、これを本誓寺と名づけ
 壮んに弘法す。又法縁有によつて、此信州に来つて教導専
 らなりけるか、竟に一宇を造立し、これ又本誓寺と号せり。
 [是信大徳の縁起、同開基なれハ委くハ奥州南部本誓寺の下にしるす。]当寺第四世宗信坊といへるは、新
 
   (改頁)
 
 田左中将義貞の息男にして、徳行の僧なりき。〇瀬踏の阿弥
 陀如来
[本尊仏也。]と申ハ、聖人一尺八寸の像を刻み、胎中に一寸八分
 の金像を納め置き給ふ。此尊像を笈の中に安置し、筑广川を
 越給ひし事ありき。折ふし此川洪水にて、渡るべき事成がたし。
 聖人川岸に彳み在しけるに、童子一人忽然と顕ハれ来り、申す
 やうハ、「我此川の瀬踏をして参らせん」と、其儘川中に入案内せり。
 聖人後に従ふて渡り給ふに、陸地を歩行がごとくいと安々
 と向ふの岸に着給ふ。其時彼童子を看給ふに、又空然として
 見へ給はず。聖人奇異の思ひを成し、若や笈の中の尊像の霊
 顕れ給ふものかと、御帳を披き見給へバ、安置の阿弥陀の尊像
 水中に入給ふごとく御肌ぬれさせ在しけるにぞ、殊に感涙尊敬
 あつて、是より瀬ぶみの如来と称し奉らる。
 
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 聖徳太子の真像[高祖聖人之御真作] 此尊像落涙の太子と号く。開基
 是信御坊奥州本誓寺に座しける時、弘長二年十一月朔日、
 是信夢の中に聖徳太子告げて曰く、「いかに是信、都の聖人此
 界の化縁の尽て、本土に帰らせ給ふなり。我是をかなしく思ふて
 忍ぶにたえず。故に来て汝に告る。はやく上洛せよ」との霊夢に
 驚き、覚めて尊像を拝し奉れば、遍身に汗を流し、連眼より御
 涙を流させ給ふ。是信咸恐し、急ぎ上洛してあれバ、果して聖人
 御入寂あらせ給へり。不思議の霊像にて座しける故に、落涙の
 太子と称す。今におひて尊像の連眼に落涙の痕在しける。
 〇聖人御真像[御自作也。実如上人文亀二年の御添状]〇同御自画の真影〇寺号の額
 [聖人の御真筆]〇十字九字石摺十字名号[顕如上人の御添状あり。] 以上八品の霊宝、高
 祖より是信へ附属たり〇四躰連座の御影[覚如上人御筆]〇年越名号
 
   (改頁)
 
蓮如上人御在世の時、除元の日此名号を書し、仰有けるハ、「今日を年越也とて祝言を成
し、歌連哥など詠て賀ぶなり。我も此名号を筆して弥陀の本願を歓ぶべし」と、
[此名号を書せたまふといへり。]〇法然上人の御影[実如上人当寺に御止宿の節、夢に見給ひ画し給ひし也。]〇蓮如上
人の御影[実如上人の御画]
   越後より入て信州御旧跡の順拝の巡路一ならず。或ハ善光寺より犀川  
   を渡り、芝村の阿弥陀堂を拝し、千隈川を越へ松代の城下に出、是より
   塩崎、稲荷山、をみ、青柳、会田、かいやハら、岡田を経て松本の城下に至り、
   再び越後の高田へもとるもあり。直に関東を巡るには、木曽路にかゝり、
   桔梗が原、塩尻、下すハ、和田峠を越て、芦田、望月、塩名田、尚行/\て
   浅間岳の麓、沓掛、軽井沢、笛吹峠など、信州上野の国界也。其間の名所
   ハ別に記す。
  〇越後より北陸道を経て関東に至るハ、善光寺より犀川を渡り、丹波嶋
   又千隈川を越へ、屋代、戸倉、榊、上田田中と行く。此間にそのはら山
   の名所あり。即小県郡にして、此原にはゝきゞといへる名木あり。遠きより
   望みみれバ其形有と見ゆれど、近く行見れバそれとおぼしきものもなし
   とて、新古今集に坂上是則の哥に、
   その原やふせやに生ふるはゝきゞの有とはみへて逢ぬ君かな
 
   (改頁)      29
 
   伏屋に生ふるといへるふせやハ、小諸の山壇にあり。田中宿を下り、右手の
   川向ひに布引山有。左ハ浅間岳の麓にして、此岳ハ信州上州の境にあり。
   嶮嶺中天に聳へ、燃る烟の常にたえず。其煙ハ駿河の冨士山に競べき
   よしいにしへよりも言ひ伝へぬ。伊勢物語に、
   信濃なる浅間が岳にたつけふり遠近人の見やハとがめぬ
   去ル天明二年のころ、此山の絶頂より火焔ほとばしり出、土砂を散し大石
   を飛し、洪水湯のごとく湧出、麓の人民死するもの幾千人といふ数を
   しらず。上野、武蔵、甲斐の国まで其鳴音冷敷、焼たる砂地に積る
   事或ハ一二尺、或ハ二三尺、誠に希代の珍事也。宝永の頃冨士の高根よりも
   燃崩れて、土砂の吹出る事おびたゝしく、不二の形ち少し損して、一ツの
   瘤のごとき山の形と成し所を宝永山といへりとなん。かゝる高山の常ニ
   燃出て烟の高く立のぼるぞ、只ならぬ山の形勢にこそ。此梺の川を濁り川
   といふ。川の流れ常に濁りて清事なし。是なん浅間の山の地獄、血の池より流れ出る也と
   土俗いひ伝ふ。又爰を過て、東海北陸両道の追分あり。夫より沓掛、軽井沢、笛吹峠に
   至る也。此山に熊野三社の権現を鎮座なし奉る。
  
芝阿弥陀   、松代より半里、芝村にあり。  
 阿弥陀堂[六間ニ十一間]。正中面本尊十字名号[親鸞聖人御真筆]。此阿弥陀堂ハ社造にして、
 
   (改頁)
 
 此所の氏神と崇め尊む。社人を吉池数馬といふ。十字名号ハ御厨子に安
 置し奉り、曽て啓拝の儀なし。月に三度の縁日有て近村の男女群
 集し、或ハ一七日断食して諸病を祈るに、其験あらずといふ事なく、異霊
 なる事誠に如来の善巧、異の方便なるべし。〇本尊十字名号ハ、往昔
 鸞
聖人鎌倉御化導の時、吉池某といへる武士あり。武運長久の本尊を
 授け給へと願ひ奉りけるに、聖人是非を論ぜず此名号を書て
 与へ給ひけり。数代の後、永禄の頃迄吉池家名相続して、此名号を相伝安
 置せり。然るに或士[熊井弥五郎といへる武士也。]、此名号の奇特有事を聞て深く所望
 す。彦四郎先祖相伝の什宝、ことに武運長久の夲尊なれば、
 我一命にも代がたしとて与へざりしかバ、彼士弥懇望し、理不尽に
 奪んとしけるにより、彦四郎名号を所持して下総国磯部勝願寺へ逃
 入けるに、彼侍跡より追い来り、猶も所望し止ざりけれバ、是非なく勝
 
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 願寺を出て信濃国へ走りけるに、此侍執心深く猶追かけ来るを、彦四郎今
 ハ身を隠さんにすべき方もなく、柴草の茂りたる野林の中へ屈み居けるに、
 侍尋侘つゝ、若や此柴野の中にかくれやせんとて、彼芝草の四方を火を以
 て焼立けるに、折節風烈しく、火焔地に蔓り黒烟空に蔽ひ、さしも広き芝原
 を暫時の中に焼尽し、「今ハ翅ありとも火の中を遁出ん事よもあらじ。
 久敷き恨を晴したり」と歓び去りぬ。しかるに彦四郎が蹲り居る辺りの芝、
 四五間ばかりハ残りにけり。今ハはや焼死なんとせし程なるに、不思議や俄に
 村雨の一しきり降来て、猛火悉く消しかば、彦四郎辛き命を助かりし
 も、ひとへに名号の御利益なるべしと、いよ/\信仰肝に徹し、今眼下の
 急難をさへ救ひ給ふに、ましてや後の世三悪道の業火を消滅し、安養
 に迎へ取給ハん事何の疑ひか有べきと、崇尊外ならず。即ち此所に草庵を結
 び剃髪し、法名を行西と号し、静寂として念仏して居たりける。于時永録四
 
   (改頁)
   (改頁)      34
 
 年の事とかや、武田入道信玄大軍を引て出陣し、東の方を望み見れバ、芝
 の中より四十八道の光明たなびき見へたり。信玄怪敷思ひ、彼光明ある所
 を尋見給ふに、行西が菴の内より出たる光明也。庵の内を伺ひみれハ、行西
 ハ独いと尊とく称名念仏して有けるか、壁に掛たる名号より彼光明耀たり。
 信玄奇異の思ひをなし、庵主に向ひて事の様を尋けれバ、庵主行西此年
 月有し事とも物語、「即此名号ハ武運長久の守にして親鸞聖人の御筆也」
 と、委しくかたり申けるに、信玄殆歓ひにたへず、「我今戦場に向ふ時武運長
 久の瑞に逢事、今日の合戦に勝利を得る事疑ひなし」とて、名号に向ひ合掌
 祈誓し、直に軍陣に臨みて、果して其日ハ十分の勝利と成しかば、弥名号の
 加被力なりとて、其時の陣屋を以て堂を建立し行西に給ふ。是柴阿弥
 陀の来由也。其外阿弥陀の画像、薬師如来の画像有。鐘の銘に「阿弥陀
 薬師降応之地」と記せり。[宝永の記、享保の記ともに縁起、下総国磯部勝願寺の伝也。又越後国高田井波園瑞泉寺より此柴阿弥陀を支配せり]
 
   (改頁)
 
 [といへり。未詳]
白鳥山康楽寺[西派、院家] 柴村より二里半、塩崎に有。  
 報恩院と号す。夲堂十三間四面、本尊阿弥陀如来、坊舎三区〇開
 基西仏法師[法然上人の真弟なりしが、帰依により親鸞聖人へ附属の御弟子なり。]西仏法師の俗姓は清和
 天皇第四の皇子滋野親王より九代の後胤、海野小太郎源幸
 親[信濃守と号す。]の子なり。始めは禁廷に仕へして、勧学院の文章博士
 進士蔵人通広と号せしが、出家し西乗坊信救と号し、南都興
 福寺の学侶たり。後に叡岳に登山し、慈慎和尚の門下に連り、浄
 寛と改号せり。[木曽義仲の御内に博学広才、しかも能書の聞へ高く、越中砥並山にて義仲が願書を書き、八幡宮へ納めたりし大夫坊覚明といへるハ]
 [此人なりといへり。]此時高祖聖人ハ範宴少納言の公と号して、いまだ御幼稚
 なりといへども、聡明博識にて一聞千語の器、芝蘭の匂ひ一山
 に薫ず。是によつて和尚の寵愛衆に超、凡人ならざるを歓
 
   (改頁)
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 び給ふ。浄寛も此君の決して仏菩薩の化現にて渡らせた
 まふと常々敬ひ尊みけるに、此頃尊き霊夢を両度まで
 感じける。一たびハ範宴公仏身に現し給ふと看る。今一たびは
 観自在菩薩現し給ふを拝礼し、忽範宴の公と化し給ふ
 と見て夢ハ覚ぬ。是によつて浄寛尊重せる事日来に増れ
 り。于時に高祖聖人二十九歳にして法然上人の禅室に至り、念仏の真門
 に入給ひし時、浄寛も潜に伴ひ、倶に空師の会下に連りて
 御弟子と成り、空師より法名を西仏と賜りける。然れども西
 仏ハ本より高祖に帰依し、信仰深因の故によつて吉水の
 門下に伴せ給ふなれバ、法然上人是を知らせ給ひ、西仏をして
 聖人上足の弟子となし給ひけり。[西仏坊ハ聖人より年齢十六歳長たり。]高祖聖人越
 後へ左遷の時も供奉し奉り、北陸関東随身給仕せり。聖人
 
   (改頁)
 
 帰洛あらせ給ふ砌、[文暦の始の年]西仏に仰られて曰く、「尓年齢すでに
 高しといへども、北陸関東経廻の間随身して我化益を助け
 たる事、誠に満足せり。自今ハ汝本国に帰り専修念仏を
 弘通あらバ、これ正に我に常随有んよりハ百倍の本望なるべ
 し」と聞へさせ給へバ、西仏聖人に別れ奉る事の身を割がごとく
 悲くハ思ひ侍れども、師命の重きを背き難く謹で領承
 し奉り、本国信州へ下りける。始め海野庄白鳥に一宇を開き、
 壮んに真宗を弘め、後又塩崎に一寺を建立し、是を康楽
 寺
と称す。西仏八十五歳、仁治二辛丑年正月廿八日入寂
 すと云云。〇霊宝物九字名号[大師流にして聖人の御真筆]〇十字六字名号[同御]
 [筆。脇書に善信と有。]〇石摺名号[同御筆。安貞二年とあり。]〇三部経[御同筆也。]  〇大般若の切[大夫坊覚明]
 [の筆。是即西仏の事也。]〇愚禿の御影[聖人三十七歳御自画。有髪にて僧形也。御袈裟御首巻あり。]〇法然上人の
 
   (改頁)
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 御像。[是ハ大師上人の尊骸を火葬し奉り、御弟子達御身骨の灰を黒漆にてねり合せ、彩色し給ふ御像也。○伝ニ云、比叡山の衆徒此像を破却せんとせし]
 [を恐れ、御弟子達より西仏へ預けられし所也とぞ。]〇御伝絵四巻[御伝ハ覚如上人の御筆、絵ハ康楽寺二代目浄賀法眼筆。]〇紺紙
 金泥三尊名号[法然上人の御筆]〇三躰連座御影[聖人、西仏、浄賀。当寺三世宗舜の筆なり。]〇
 西仏法師の像[宗舜の作]〇六字御名号正信偈文等[蓮如上人筆]〇聖人
 御真骨〇大経御延書[聖人御筆]〇半装束御珠数并香筥、尺八
 扇子[已上四品、聖人西仏へ御譲りの所なり。]〇身代名号[十字名号。高祖聖人御真筆也。身代り名号と唱へ奉るハ、顕如上人石山御籠城]
 の時、参州一国真宗の門徒停止仰付られける。是ハ信長の御敵たる真宗によつてなり。
 爰に了西といへる念仏者あり。深く当宗を帰依し奉り、国主の厳命ありといへども改宗
 する事もなかりけれバ、終に捕へられ禁獄せられ梟首せらるべきに極りける。了西さらに
 いためる気しきもなく、聖人御真筆の名号を懐に納め、高声に念仏して傾首の
 座に着けハ、太刀取後に廻り、正しく首を討と思ふに、太刀更に斬れず、鈍き刀のごとし。
 こハいかにとて、二度三度に及ぶといへども、唯はじめのごとし。了西は閉目して念仏の声いよ/\
 高く、更に太刀ハ立ざりけり。あまりの不思議さに、国主へかくと訴へけれバ、「奇特の事也。命を
 助け国中をはらふへき」旨下知し給ひ、了西は追放せられ信州に趣きしが、いかにして歟
 我必死の刑を遁れしやらんと怪しみ、懐中の名号を取出し拝み奉れバ、不思議なる
 かな、「帰命尽十方無礙光如来」と書せ給ふ十字名号、「帰命」の二字地絹ともに斬レ
 たり。了西歓喜の涙にむせひつゝ、当寺内に草庵を結び、帰命寺と号し念仏三昧に
 入て大往生を遂られき。是によつて身がわりの名号とは申ハ伝へ奉れり。了西が子孫
 
   (改頁)
 
 [断絶し、帰命寺も退転し、其後は当寺の什宝と成れり。]〇其外宝数品略之。
大宝山正行寺 東派御坊所[塩崎より稲荷山、をみ、青柳、会田、厂ヶ原、岡田、此間十二里。府中松本にあり。]  
 高祖聖人直弟了智法師の開基也。了智法師と申ハ、其
 俗姓宇多天皇の後胤、近江源氏佐々木四郎高綱といひし
 武士也。源頼朝伊豆国に義兵を揚げ、驕れる平氏を討んと
 て相州石橋山大合戦に敗北し、纔に主従七騎に討なされ、土肥
 の杉山まで迯のびけるに、平家の勇臣大庭三郎大軍を駈進み
 たり。此時頼朝既に危かりけるに、此佐々木高綱一人群る敵の
 中に取てかへし、寄来る大軍を追まくり/\、七度まで血戦し
 終に頼朝を救ひ得たり。されバ此度の勲功抜群也と、頼朝感
 賞のあまり高綱を近く招き給ひ、「我若天運に叶ひ平家を
 亡し、天下を掌握する者ならバ、日本半国を割て尓に与へん」と
 
   (改頁)
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   (改頁)
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 いへり。果して頼朝の威勢日々に朝日のごとく、さしも繁栄の
 平家の一族悉く西海の波上に漂流させ、終に主上及び一門
 残なくこと/〟\く巨魚の腹中に葬り、頼朝天下を併呑し、征夷
 大将軍の重職を賜ハり、剰へ国々に惣追捕使を置て、政刑悉
 く頼朝が手裏にあり。されバ佐々木高綱には約束のごとく日本
 半国を賜るべきに、左ハなくして纔に中国七州の司として置れ
 ける。爰におひて高綱其誓約の違ひけるを憤り思ひ、且ハ倩
 世のありさまを観じ見るに、「嗚呼浮世ハ只転変の習ひにして、
 今日思ふ事翌日ハ変易す。我として我事を定むだにかわり
 易きに、況や他人の詞におひてをや。今歓楽の床に遊ぶも、後
 ハ阿鼻の大城に向ふ。仮令天下を一統すとも、唯夢の戯れとお
 もへバ豈人をして恨むべけんや。五欲の肴を貪りて三毒の酒に酔
 
   (改頁)
 
 臥んより、菩提の道に入て仏果を悟らんにはしかじ」とて、忽
 ち高野山金剛峯寺に登り、出家して弘法大師を信じ、真言
 密法を修行せり。然れども難行の道遥に遠くして、行ずる
 事不能、妄念の闇に迷ふて昏々たり。高綱入道難解の修し
 難き事を悲しむの所に、宿縁の善因爰に招くにや、聖人越
 後国に遷謫し、他力易行の法を弘教し給ふを聞伝へ、急ぎ
 野山の霞雲を分け、万里の海川を越へて越の後州に下向
 して、国府の草庵に参し聖人に謁し奉る。高祖聖人高綱の
 出家したる姿を看給ひ、そゞろに御涙を浮め給ふに、高綱も
 倶に涙を袖に染みながら、発心の因縁日頃の意趣をのべ、あわ
 れ御教導有べき事を願ふ。聖人高綱が起実を感じ思召、殊更
 示し曰く、「汝賢くも発起心の真を顕ハす。是宿縁の至る所也。
 
   (改頁)      43
 
 されバ一切外有為転変の界はハ夢のごとく、又幻のごとし。然るに庭下
 薄地の凡夫、造悪不善の族、善根功徳の種もなく、修行学道の
 功も積ざれども、速に仏果に至るの直道ハ、弥陀本弘の誓願
 に過たる事なし。此誓願を深く信心せるものハ、たとへ三世諸仏
 の済度にもれたる五逆の罪人、十方浄刹の門戸を閉されし
 垢穢の女人も、直に安養の淨刹に至りて無上覚を証する
 事、露計の疑ひ有べからず。はやく一念発起の浄信にもとづき、
 称名念仏の正業を勤むべし」と、いとねんごろに御教化なし
 給ふ。爰におひて高綱立所に他力易行の旨趣を受得し、往
 生決定の了解を究め、竟に真の御弟子と成り、法名を
 釈了智と賜ハりける。爰におひてしバ/\御勧化の益を蒙り、
 所縁有によつて信州に立越、栗林の郷に一宇を起立し、正行
 
   (改頁)
 
 寺と号け、専ら称名念仏怠る事なかりき。[栗林といふハ松本より一里西南ニあり。]然に
 松本の領主石川玄蕃侯菩提所たるによりて、天和年中
 本
に移す。〇什宝高祖御真筆十字名号〇六字名号[蓮如]
 [上人御筆]〇四尊連座真影[高祖聖人、法善、西仏、了智也。絵讃とも聖人御真筆にして、実如上人御裏書あり。法善ハ越前国橋立真宗]
 寺の開基、即佐々木三郎盛綱也。西仏ハ康楽寺の開基、海野小太郎幸親の息、進士
 蔵人通広、後大夫坊覚明といふ是也。了智ハ当寺の開基佐々木四郎高綱也。又橋立真宗
 寺の開基ハ盛綱ならず、其玄孫三郎光実といふ異説あれども、今此真影に聖人正しく
 盛綱入道法善を書加給ふなれバ、法善坊ハ盛綱の事に違ひなし。是高綱と兄弟なるに依
 [て爰に連座令め給ふものならんか。]〇系図の巻物[高綱の筆也。]〇武田信玄公諸役免許朱印
 異説に曰、佐々木四郎高綱、頼朝公の約諾異変の事を憤り、既に
 謀叛を企んとせし時、西仏坊[大夫坊覚明]これを聞て、高綱へ送る一書に曰く、
 残水小魚貪食不知時渇 糞中穢虫争居不知外清
 かくのごとく書して送りけるに、高綱も去者にて有けれバ、此二句の意を悟し得て
 謀叛をとゞまりて発心せしとなん。其しかりや否やをつまびらかにせず。
大法山正行寺 西派御坊所  同国同所ニ有。  
 開基ハ佐々木四郎高綱入道了智也。系図東派正行寺と
 
   (改頁)      44
 
 同系図なり。高綱開基の寺二ッに分れたりとみゆ。何れ根枝
 を分たず。
木曾山長称寺 東派  同国同所ニ有。
 開基ハ義延坊念信[俗姓木曽太郎義基]。覚如蓮如の両上人行化の霊
 場也。中古越後の国より爰に移住すと云云。〇義延坊念信
 ハ高祖聖人の真弟也とも云。又真仏上人の門弟にして
 祖師の孫弟子なりともいひ伝ふ。何れ歟是なる事を
 しらず。
宮川神社八幡宮の社   [松本より三里半、中条村にあり]
 社説に曰、祖師聖人の真弟、諏訪郡丹後守源幸政
 法名宮川浄喜坊姓所なりとぞ。〇什宝九字十字の
 名号〇三方正面如来〇聖人四十歳御木像〇後光六
 
   (改頁)
 
 字名号〇浄土和讃○日の丸名号[右ハ聖人より附属し給ふ。教如上人・琢如上人御究書ありと云云]
    〇美濃国より信濃に入、東国に至るを木曽街道といへり。先美濃の落  
     合より馬込に至る。此間に石橋あり。美濃信濃の境なり。坂有馬込峠
     といふ。是より山路にかゝり、木曽のみさか、妻籠山、三戸野、野尻なんど嶮岨
     なる山坂多し。
     出る岑入る山の端のちかけれバ木曽路ハ月の影そみぢかき
     須原あげ松の間に今井村有。是ハ木曽義仲の家臣、今井四郎兼平が
     古郷也。上ヶ松の上、福嶋の下ハ木曽川御岳川合流の所にて、名たゝる木
     曽の棧道ハ此所の断厳にかゝれり。
     生すてふ谷の梢を蜘手にてちらぬ花ふむ木曽のかけはし
     宮腰に義仲の古跡あり。夫より、やご原、鳥井峠、奈良井、贄川、もと山、
     洗馬、塩尻、諏訪に至る。是より笛吹峠までの街道ハ既に前ニ記シぬ。
    〇上諏訪に鎮り在す御神ハ、建御名刀命と申奉る。下諏訪に祭崇め
     ます御神ハ、下照姫と申奉る。諸社一覧に旧事記を引て曰、天孫降臨ま
     し/\ける時、建御名刀命仰事に逆ふて順ハず。経津主の神岐神
     をして是を追しむ。建御名刀命逃て信州諏訪に至つて降を請ふて
     申さく、「此諏訪の郡を以て我に賜らバ、謹で天孫の命に随ふべし」経津
 
   (改頁)
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   (改頁)
   (改頁)
   (改頁)      47
 
     主の神天孫に告て則免し給ふて、此諏訪明神是也といへり。
    〇諏訪の湖並びなき名湖にして、西ハ飛騨山の高嶺ならび立、東ハ駿河
     なる不二の高根を遥に望み、湖水の順道三里とはいへども、乱山重畳の内
     に有て風色景勝又筆に尽すべからず。殊に奇と称するハ、冬月湖上
     一面に厚氷張り詰たるを、人馬皆氷の上を往来し、諏訪の上下を往還に
     道の近き事数里、土人よつて便利とせり。霜月の始より湖上氷を結び、
     其中旬神渡りといふ事あり。此神渡り在して後ハ、人皆恐るゝ事なく
     馬を馳、車を曳、昼夜湖上をわたれども、いにしへより今に至る迄氷破れ
     人馬湖水に落入しといふ例を聞ず。是ハ諏訪の御神眷属の神狐に
     命してはじめて渡りを教へたまふよし言伝へたり。春二月の末再び神狐
     氷を渡る。是又明神の人馬の往来をとゞめ給ふ也とて、湖水を渡る
     者なし。堀川百首、顕仲の哥に、
     諏訪の湖の氷の上のかよひ路ハ神のわたりて解る也けり
     又顕昭が袖中抄には、信濃の諏訪の明神の一宮と申女神の許へ、師
     走の晦日の夜通ひ給ハん誓ひとて、諏訪の湖氷りて旅人も歩行
     渡りし侍る。晦日の夜わたりし給ふしるしの氷の上に見へて、春たつ
     旦に解ぬとみへたり。又一説に氷の上に鹿の足跡有を、神の渡り給ふ
     しるし也と。里人も是より渡り初るよしいへり。