[戸井の地名考]

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 昔からいい伝えられている戸井町の地名は、北海道各地の地名と同じように、殆(ほと)んど蝦夷(えぞ)が名づけたものである。
 蝦夷は、その場所の地形、地勢、動植物の分布等によって名づけ、口から口へといい伝えられて来た。その後南部、津軽などから和人が移住して来て、蝦夷と和人の発音やアクセントが異なるため、蝦夷の名づけた地名がいろいろに訛(なま)って発音されて後世に伝えられたのである。

東部(航空写真)

 近世になってから、本州から学者や文化人が来るようになり、蝦夷語の地名を漢字で書くようになったのである。
 和人が蝦夷から地名を受けついだ頃には、既にその由来や意義が忘れられていた。蝦夷の発音、和人の訛った発音のままに、萬葉仮名(まんようがな)式に適当な漢字を当てたため、その漢字の意味にとらわれて意義を考える者も出て来て、こじつけの解釈をし、ますますその由来や意義を不明なものにしてしまったのである。
 永田方正、ジョンパチュラーなどの学者が、蝦夷語地名を解釈した本を出版したが、早くから和人が住みついて、漢字が当てられた道南地方の地名解釈は、そのまま信じられないものが若干ある。机の上でのこじつけ解釈と思われるものがある。又諸学者の書いた本には、こまかい地名の解釈が書かれていない。
 戸井町の地名で学者が書いていないものまでも調べ、その地名の考証をして見た。
 戸井町の地名も①近世になって和人がつけたことの明らかなもの②蝦夷がつけたことの明らかなもの③蝦夷語か和語か判断のつかないものに大別される。然し調べて見た結果では、蝦夷語地名が大半である。
 戸井町の地名のうち、蝦夷語であることが明瞭なもの、及び蝦夷語らしいものから、漢字という着物を脱(ぬ)がせて、カタカナで書き、全道特に、和人の移住の遅かった地方の蝦夷語地名と対照して似ているものをさがし、音韻(おんいん)変化の方則に照らして、元の姿はどうであったかと、いろいろ推定を重ねて復元を試み、永田解、パチュラー解を参考にし、必ずしも、永田、パチュラー解にとらわれず、知里真志保などの書も参考にしながら、戸井町地名考を書いて見た。
 
カネシタ(金下)
 金下という漢字が当てられ、村人は「昔、金(かね)を堀った所である」いっているが、天明元年(1781)に、松前広長の書いた「松前志第三巻」に、ひうら(日浦)とはらき(原木)との間に「かねがした」と書かれており、天保9年(1838)書かれた「松前国中記」に「カネカシタ」とあるので、カネカシタは「カネガシタ」「カネカシタ」から転訛したことがわかる。
 古書や古記録に「カネカシタ」「カネガシタ」とあるところから、日本語ではなく蝦夷語であることが確かであり、村人のいう「金」とは関係がないことがわかる。
 道内には「カネコシ」「カニクシ」「カネクシュ」などという蝦夷語地名がある。「カネカシタ」は、これらと同義語で「カネクシオタ」「カニクシュオタ」から転訛したものと解して見ると、この場所の地勢、地形に合っている。カニ、カネは上(丶)の意、クシ、コシ、クシュは越える(丶丶丶)意。山越の語原コシ、クシ、クシュと同義語である。オタは浜の意。
 即ち「上を越える浜」の意ど解した・現在村人がカネシタといっている所は、海岸道路がつけられなかった頃、東西をけわしい断崖の岬に爽(はさ)まれ、海岸伝えに行けない場所で、昆布を採る人などは、原木から山越えしてこの浜へ行ったので、蝦夷たちはカネクシュオタと名づけ、和人がカネカシタ又はカネガシタと訛(なま)り、後世カネシタとなって、意義不明の地名になったものと判断した。
 ここの海岸の道路わきに冷泉が湧出している。温泉脈の有無を調べて見る必要があると思う。
 
   原木川附近の地名
ハラキ(原木)
 寛文10年(1670)に書かれた「津軽一統志」に「にともない」とある地名は原木らしい。「津軽一統志」には「にともない、家五軒、乙名(おとな)(アイヌの酋長)よた犬(丶丶丶)」とある。
 元禄13年(1700)の「松前島郷帳」には、汐くび村の次に「これより夷地(いち)はらき」とあり、同年の「元禄御国絵図」には、しりきしない(丶丶丶丶丶丶)としおくびのさき(丶丶丶丶丶丶丶)(汐首の崎)との間に、「はらき」と書かれている。
 元文4年(1739)板倉源次郎の書いた「北海随筆」には、「今は箱館を東関とす、然れどもハラキより夷地たり」とある。以前は汐首岬が和夷の境界であった。
 宝暦9年(1759)に書かれた「松前蝦夷聞書」に「とひ(丶丶)(戸井)はらき(丶丶丶)、えさん(恵山)」とある。
 天明元年(1781)松前広長の書いた「松前志」に、「かまがうた(鎌歌)はらき(丶丶丶)、かねがした(金下)」とある。
 寛政元年(1789)菅江真澄の書いた「ひろめかり」に「山越えれば(日浦、原木間の峠)はらき(丶丶丶)の磯になりて」とあり、寛政3年(1791)の同人の紀行文「えぞのてぶり」に「鎌宇多(かまうた)、原木(はらき)を経て、桧浦(ひうら)の立岩云々」とある。
 天保9年(1838)の松前国中記に「ムイノトマリ、ハラキ、カネカシタ」とある。安政3年(1856)阿部喜任の書いた「蝦夷行程記に「釜ウタ、原木、知岸内」とある。
 古書にあらわれたハラキという地名を、年代順に辿(たど)って見たが、最も古い時代で、元禄13年(1700)ということになる。これより30年前の寛文10年(1670)頃は、ニトモナイと呼ばれていた。ニトモナイは、原木川につけられた名と思われるが、現在は死滅して、古老も記憶していない。ハラキに原木の漢字を当てたのは、安政3年(1856)の「蝦夷行程記」以後であろう。
 ハラキの語源について、永田方正は「パラキナイの転訛したもので、パラキはダニ、ナイは沢、即ちダニの多い沢」と解しているが、この解はこじつけであり、誤だと思う。
 この沢は他の沢と比(くら)べて、特にダニの多い沢ではない。ハラキナイ、ハリキナイと単純に考え「葦(あし)の多い川」と解した方が正しいと思う。昔は、原木川流域一帯が葦原であったと古老が語っている。
 又蝦夷語ハラキは「左股(ひだりまた)」という意味もあるので、原木川の左股につけられた名であることも考えられる。蝦夷時代は、左股から熊別川べりに越えたという。今でもこの道は山道として残っている。左股には縄文中期の遺跡がある。
 戸井館が蝦夷の乱で滅び、その後長い間、戸井には和人無住の時代が続き、再び和人の移住が始まったのであるが、当初には、ハラキはトイよりも早く和人が住みついた所である。
 
ワシリ
 原木と鎌歌の境附近の海岸に、岩のがけ(丶丶)が突き出ており、昔は波の合間を見て「走って渡った」所である。今はこのがけがくずされてここに道路がつけられ、「ワシリ」でなくなり、「ワシリ」という名も僅かの古老が知っているだけである。このような場所にワシリという名のつけられた所は、全道各地にあり、真澄の紀行文を読んで見ると、昔は青森県や秋田県にも「ワシリ」という名のところがあったことがわかる。
 シンタ川 鎌歌小学校のある丘の、東を流れる小川の名であるが、村人は「シンタという名のアイヌがこの川ぶちに住んでいたので、アイヌの名をとってシンタ川と名づけた」と伝えているが、その真偽の程はわからない。
 この川の流域に冷泉が湧出している。
 
カマウタ(鎌歌)
 この地名は、「松前蝦夷聞書」に「かまがうた」「えぞのてぶり」に「鎌宇多」天保2年(1831)の宮川神社の棟札(むなふだ)に「鎌哥(かまうた)」、蝦夷行程記に「釜ウタ」とある。
 このように「カマガウタ」「カマウタ」などと呼ばれ、漢字を当てるようになってからは「鎌宇多」「鎌哥」「釜ウタ」などの字が当てられ、「鎌歌」という漢字が固定したのは、明治時代になってからである。
 昭和5年の字名改正の時に「鎌歌」を「二見(ふたみ)」と改め、昔なつかしい、歴史的な「カマウタ」の地名を残したのは、小学校だけである。
 「鎌歌」の地名について、鎌(○)と歌(○)にこじつけたいい伝えがあり、それが地名の由来だとまことしやかに語っている村人もいるが、カマウタは、鎌(○)とも歌(○)とも全然関係のない蝦夷語である。
 カマは釜谷のカマと同義語で、扁盤の磯、俗にいう「平磯(ひらいそ)」のことである。ウタは蝦夷語オタの訛ったもので砂浜のことである。即ちカマウタは、カマオタの転訛したもので、「平磯のある浜」の意味である。〓宇美家の先祖が、享保年間若狭(わかさ)の小浜から、このカマウタに移住し、昆布とりをしたと伝えられている。この頃は和人と蝦夷とが、雑居していた時代である。
 〓宇美家の先祖より少しおくれて、水戸家の先祖もカマウタに移住し〓を家号としていた。この頃はトイには1軒も家がなかったのである。明治の中期の鰮大漁の頃、〓宇美家や〓水戸家が、浜中(今の浜町)に移り鰮漁を始めた。この頃には本州各地から移住する人々がふえ、戸口が年々増加したのである。
 
タカノス
 武井の島と相対する断崖の岬をオカムイと称している。オカムイの断崖をタカノスと称し、松前藩時代に、この断崖に巣をつくるタカやハヤブサの雛をとった。「オカムイの崖(がけ)の上から、夜にアイヌを乗せたカゴを下げて、アイヌにタカやハヤブサの雛をとらせた」と古老が語っている。
 昔小安村に、鷹役人が常駐していた屋敷があり、それを鷹屋敷と呼んでいたが、タカヤシキという名が地名として残っている。然し後世「高(○)屋敷」という漢字が当てられた。
 
武井の島
 ムイノシマの名を古書で調べて見ると、「松前志」に「むいのしま」とあり、「ひろめかり」に「無意の島」とある。「えぞのてぶり」には「原木、鎌宇多の沖方に岩嶼(がんしょ)あり、名を武委(むい)という」とある。「松前国中記」には、ムイノシマという名はなく、「ムイノトマリ」とある。これは「ムイのいる入江」という意味であろう。
 菅江真澄が、寛政元年に「無意の島」と書き、二年後の寛政三年には「武委の島」と書いているところから、この頃はまだムイノシマの漢字は固定していなかったことがわかる。
 「武井の島」という漢字が固定したのは新しい時代である。
 菅江真澄は「ムイはえぞ国(○○○)の簸箕(ひるみ)の形に似ているので、そのようにいうのであろう。ここにミオという貝とアワビが合戦したという物語があるが、それについては『ひろめかり』という本に、くわしくのせておいた」と書いている。然しムイとアワビの物語を書いたという「ひろめかり」の上巻は散逸(さんいつ)して今はない。この伝説は、今でもこの海岸地方の人々の間に語りつがれている。
 「昔ムイとアワビが、いくさをして勝負がつかず、仲なおりをして、ムイノシマを境にそれぞれの領地をきめた」という伝説である。それ以来、武井の島から東にムイがすみ、西にアワビがすむようになったと伝えられている。ムイは蝦夷語といわれ、この地方の人々は訛って「ミオ」或は「ミヨ」と称している。
 ムイというのは、穀物(こくもつ)とゴミをふるい分けるミのことであるが、このあたりの沿岸に棲息(せいそく)しているオオバンヒザラガイ(けむしひざらがい科)が、ミの形に似ているので、この貝をも蝦夷はムイ、ミオなどと称し、和人がこれを訛ってミヨなどと呼んだのである。
 永田方正はムイノシマはムイワタラの転訛したものと解説しているが、菅江真澄がここを訪れた頃はもちろん、和人がこのあたりに住み着いてから、ムイワタラと呼んだ時代はないようだ。
 武井の島は、周囲720米、大小2つの島がつらなっている島であるが、大きな方の島の高さは57米である。全島玄武岩の岩島である。
 武井の島の対岸の入江コブタ(小歌)に戸井漁港がつくられ、昭和46年7月1日から、戸井漁港から、下北半島、大間町の大間漁港との間に東日本海運のフェリーボートが就航し、両港の間を約一時間で結ぶようになった。
 武井の島の西側の、大小二つの岩島のつながるところに、海水を呑吐(どんと)している洞穴があり村人はこの穴を鮫穴(さめあな)と称し、次のようなことをいい伝えている。
 「昔この洞穴に大ダコが棲んでいたが、或る時大きな鮫(さめ)が、このタコを襲(おそ)い、大ダコと大鮫の血戦が始ったが、タコが負けてこの島を去り、大鮫がこの洞穴を占領してこの島の主(ぬし)になった。それ以来この洞穴を鮫穴というようになった」と語っている。又この鮫穴と「丸山明神のお穴(あな)」が通じているともいい伝えられている。
 
コブタ
 戸井漁港の入江の浜につけられた名で、近世になって小歌という漢字が当てられている。昔この浜は、断崖の岬に囲(かこ)まれ、孤立(こりつ)した場所であったが、両方の断崖にトンネルがつくられ、鎌歌、浜中と連絡できるようになり、バスも通るようになり、漁港がつくられ、フェリーボートが発着するようになって、面目を一新した。
 近世コブタという名に小歌という漢字が当てられ、コウタなどという人が多くなったが、今でもこの附近の人々は「コンブタ」と呼んでいる。この地名も明瞭に蝦夷語である。コブタという地名は桧山地方にもある。コブタは蝦夷語「コンブオタ」の転訛したものである。コンブは昆布のこと、オタは浜の意である。即ち「昆布の浜」又は「昆布の多い浜」の意味である。
 
オッケの浜
 コブタの西のトンネルを越えてすぐの浜をオッケ、或はオッケの浜と呼んでいる。オッケという地名は各地にあるが、風の当らない天然の船付場や船揚場につけられた名である。
 このオッケの浜も、オカムイの岬を背に負ってヤマセ(南東風)の当らない、天然の船付場である。オッケの意味を多くの村人に聞いて見たがわからなかった。或る人が、「味噌汁を方言でオッケというが、『風が吹いてもオッケ鍋のように静かだ』という意味から名づけのではないだろうか」といったが、怪しげな説(せつ)だと思う。
 
ヂキサウタ
 役場に保存されている大正元年作製の地図に、コブタ(小歌)の位置に「ヂキサウタ」と記されている。ウタは蝦夷語オタの訛ったもので浜の意味であるが、ヂキサの意味は不明である。
 
ヲヨリ
 松前随商録(ずいしょうろく)に「トイ、クマベツ、ヲヨリ(丶丶丶)、ムイノシマ」とある。ヲヨリという名の場所は、クマベツとムイノシマの間の地名であるが、意味不明である。コブタかオッケの浜のあたりだと考えて古老に尋ねて廻ったが、「ヲヨリ」という地名を記憶している者はいなかった。
 
クマベツ(熊別)
 クマベツという名は、蝦夷語であることは明瞭である。クマは動物の熊とは全然関係がない。クマ(丶丶)ドマリ、クマ(丶丶)イシなどのクマと同じである。戸井町でクマベツという名のつくところが二つある。一つは熊別坂(○)、もう一つは熊別川である。
 熊別坂というのは、昔海岸道路が開かれる前には、鎌歌から浜中に下る坂道があった。この坂につけられた名である。コブタにトンネルがつくられない以前は、皆この坂を通ったのである。「坂こ下(くだ)れば第吉納屋(だいきちなや)よ」とくどき節に歌われた坂である。第吉納屋というのは、〓宇美家の鰮(いわし)の納屋である。
 この坂の附近から硅藻土(けいそうど)が発見され、そのあたりに縄文中期の遺跡がある。ところが、ここで発見された硅藻土は昔アイヌが食った「食土(はみつち)」で、永田方正の「トイの語源は食土(はみつち)のあるところ」という妄(もう)説を信じ、「トイの名の出たところは、熊別坂だ」と妄説に妄説を重ねた人がいた。
 トイの地名は熊別坂の硅藻土から生れたものでもないし、永田方正の「トイは食土のあるところの意」という解は、こじつけの妄説である。
 もう一つの熊別川は、笹積山から源を発し、戸井高校の沢へ出、西浜と東浜の境を流れて津軽海峡に注ぐ川である。
 クマというのは、魚を干(ほ)す棚(たな)、魚棚のことで、ベツは川とか沢の意である。蝦夷時代に、魚を干(ほ)す棚がたくさんあった沢にクマベツと名づけ、魚棚のあった坂にクマベツ坂と名づけた。即ち魚の乾場に名づけられたのである。蝦夷語の意味を知らない後世の人々は「熊別」という漢字から、熊の多い沢だから、熊別と名づけられたのだろうと考えているようだ。今でも熊別の沢には熊が出るが、熊とは全然関係のない蝦夷語である。
 熊別川には、いろいろな沢がある。大正元年の地図にカッカキ沢(後世ガッチャキ沢と称している沢らしい)カク子沢、シンジロ沢、シゲマ下堤沢(したつつみざわ)、上堤沢などという沢の名が記されているが、下堤沢、上堤沢は「木流し」をする時に堤をつくった沢であることがわかるが、他の沢の名の由来は不明である。
 カク子沢は、カク子という女性が死んだ沢、シンジロ沢は、新次郎という人が死んだ沢だろうと想像しているが、よほど昔のことか、その由来を知っている古老はいない。
 原木と熊別の境にコダイ沢という名の沢がある。この名の由来は、昔コダイというアイヌが熊に襲われて死んだので、この人の名をとって沢の名にしたと伝えられている。この沢には最近まで狐が棲息していたと村人が語っている。
 
ハマナカ(浜中)
 昔、オッケの浜から蛯子川までは、一帯の砂浜であったので浜中と称していたが、昭和5年の字名改正の時、浜町と改められ、熊別川以東を東浜町というようになった。
 浜中という地名は、全道到るところにあり、近世まで蝦夷の住んでいだ奥地では、蝦夷語でオタノシケと称していたし、釧路では、大樂毛という漢字をあてたオタノシケという地名が今でも残っている。戸井の浜中はオタノシケと称したという記録もないし、そのようないい伝えもない。この浜中は昔の鰮大漁時代は曳網(ひきあみ)の場所で、鰮の大漁で湧(わ)くような賑わいであった。
 
エビシ川(蛯子川)
 蛯子川の漢字を当てているので、エビコ川と読みたいところだが、村人は「エビシ川」と呼んでいる。この川は現在の西浜町と館町の境をなしている小川である。
 昔、中央公民館のあるあたりに、公立戸井病院があり、病院の一室を借りて、私立戸井教育所が誕生した。この教育所が公立戸井学校の前身である。戸井町教育の発祥地である。
 エビシは蝦夷語の「エッピウシ」の転訛したものと判断している。エビシ川は、上流で鉱石(黄銅鉱)堀り出す以前は、鮭や鱒が上った川であるが、鉱石を堀り出してからは鉱毒のために魚が全然いなくなった。
 蝦夷時代には、この川に鮭や鱒が盛んに上ったことが想像される。昔の蝦夷はこの川の川口附近の磯で、ヤスを持って、立って待って(丶丶丶丶)おり、川へはいる鮭や鱒を突(つ)いたものと思われる。エッピウシという蝦夷語は「立ち待ち」の意味である。立待岬という名は、汐首にもあり、函館にもある。菅江真澄は秋田県の立待岬について書いている。
 エッピウシがエビシと訛り、蛯子という漢字が当てられ、エビコと読んだり、東北方言流にエビスと訛ったりしたものであろう。
 
オカベトノマ(オカベトマリ)
 天明元年(1781)の『松前志』には「むいのしま、くまべつ、おかべとのま(○○○○○○)(おかべと(丶丶丶丶)となっている写本があるが、原本はおかべとのま(丶丶丶丶丶丶)である)、とい(○○)」となっている。又天保9年(1838)の『松前国中記』には「ハラキ、ムイノトマリ、トイ、オカヘトマリ」となっている。
 この二書は「トイ、オカベトノマ(オカヘトマリ)」が逆になっている。この二書の外に、オカベマと書かれているものもあるが、最も古いものは、「松前志」のオカベトノマである。
 現在では、オカベトノマ、オカベトマリ、オカベマなどの地名は死滅し、これを知っている古老は一人もいない。
 オカベトノマは岡部殿澗(ま)、オカベトマリは岡部、オカベマは岡部澗(ま)で、戸井館(といだて)の近くの入江につけられた名で、館主岡部(○○)の名をとったものであることは明瞭である。場所は昔の〓宇美家の三号漁場のあった入江、現在の戸井郵便局の前の入江につけられたものであろう。
 この入江の近くに3基の板碑が建てられたのである。
 
タテハナ(館鼻)
 館鼻の地名は、いつ頃名づけられたものか、古書では嘉永3年に松浦武四郎の書いた『蝦夷日誌巻の五』に館鼻の名が出ている。明治年間のものでは、明治30年と明治35年頃の地図に「タテバナ」と片仮名で記載されているだけである。
 館鼻という地名も、昭和5年の字名改正の時に館町と改められた。
 館鼻の「鼻」は、津軽の「大仏鼻」を「大仏岬」と二様に書くように「岬」と同じ意味である。館鼻は館岬(たてはな)で、ゴッコ澗のところへ突き出た岬につけられた名であろう。
 昔字館鼻と称した区域に、戸井館があり、板碑が建てられ、又昔62貫文(約6万枚)の古銭が堀り出されたという沢もこの区域であった。
 
トイ(戸井)
 トイという地名が古書、古記録にあらわれたのは、そんなに古い時代ではない。
 宝暦9年(1759)の『松前蝦夷聞書』に「塩首、とい(・・)、はらき」と記されたものが最も古いようだ。その次が天明元年(1781)の『松前志』に「よことまり、とい(・・)、おかべとのま」である。その後天明6年(1786)の『蝦夷拾遺』に「トイ、運上屋(うんじょうや)一戸、世田良(せたら)村と境を接し」とあり、寛政3年(1791)の『えぞのてぶり』に「ヨモギナイを過ぎ、トユイの浦にて蝦夷舟に乗りかえ」とあり、寛政9年(1797)に松前藩士が領内の住民に聞いて書いたという『地誌』に「戸井に運上屋あり」と書かれ、天保9年(1838)の『松前国中記』に「シスン、オカヘトマリ、トイ(・・)、ムイノトマリ」とあり、安政3年(1856)の『蝦夷行程記』に「蓬田(よもきた)、戸井(・・)、釜ウタ」などとトイという地名があらわれている。
 又宮川神社創建の棟札と思われるものに「豊井村(○○○)」と書かれていることは貴重な資料である。
 場所請負制度(ばしょうけおいせいど)ができて、運上屋が設置された頃にトイの地名が生れ、初めの頃はトユイ(真澄のえぞのてぶり(丶丶丶丶丶丶))トヨイ(宮川神社の棟札)トイの名で呼ばれ、発音が固定していなかったことがわかる。音韻変化の法則から推定すると、トユイ、トヨイが原語に近い発音で、歳月を経るにつれてユ、ヨが脱落してトイという発音が一般化したものと推定される。
 トイに戸井(○○)という漢字を当てているのは、寛政9年(1797)の『地誌』、文化5年(1808)の『蝦夷紀行』文政年間に村並になって会所が置かれた時代、天保2年(1831)宮川神社の拝殿再建の棟札、安政3年(1856)の『蝦夷行程記』等である。
 以上のことから「戸井」という漢字が固定したのは、寛政9年(1797)以降であることが推定される。
 トイという地名は、運上屋ができた頃に生まれ、松前藩や幕府の役人が来て、いろいろな調査記録を書いた寛政9年以降から、戸井という漢字が当てられるようになったということが結論である。
 トイという地名は、オカベトノマや運上屋のあったあたりにつけられた名であろう。
 水田方正の「トイの語源はチェトイベツの転訛したもので、チェトイ即ち食土(はみつち)(食える土)のあるところ」という解釈は誤りであり、現地を知らないためのこじつけ(丶丶丶丶)である。
 熊別坂の附近から、縄文中期の石器、土器の包含(ほうがん)された地層で、硅藻土が発見されたことから、「これが食土で永田方正のいうチェイトベツはここだ」と言いふらした者がいる。そして硅藻土層の発見は、道南ではここが初めてだといっているが、熊別坂よりはる昔に、尻岸内町字恵山(昔のネタナイ)南茅部町の大舟(昔のクマドマリ)から硅藻土層が発見されている。然しネタナイやクマドマリには、硅藻土によって名づけられた蝦夷語地名はない。青森県では昔の大飢饉の時にウヨリョウ(硅藻土らしい)を食ったという記録があるが、海藻、魚介類、山草、野草の豊富であった道南では、飢饉の時に土を食ったという記録もないし、伝説もない。
 トイの語源は、永田方正が解釈したように「チェトイベツ」ではなく、單純に「トヨイ、トユイからトイになった」とすべきである。
 現在、弁才町(昔の弁才澗)に注ぐ川を戸井川と称しているが、トイの地名の場所は、戸井川でも、熊別坂でもない。オカベトノマの近く、運上屋の設置された附近、即ち現在の〓谷藤家の附近につけられた地名である。
 トヨイ、トユイは蝦夷語で「土」又は「赤土」のことである。運上屋のあった附近に赤土が露出していた場所があり、そこに名づけられたものと推定している。
 白山友正氏は、「トイの語源はトイチセイで、蝦夷の住んだ『土の家』があったので、それから名づけられた」と推論しているが、これも納得できる説ではない。
 
ミツコの沢
 日新中学校の建っている丘と、大宣寺の建っている丘の間の沢で、昭和45年に、日新中学校の通学道路を造るために、沢の半分位が埋められて、昔の面影がなくなった。
 昔この沢でミツ子という女性が、首をつって死んだと伝えられている。時代はいつ頃か、どういう事情で自殺したかは不明である。
 
ゴッコ澗の崎
 役場のそばの崎を、ゴッコ澗の崎と呼んでいる。
 昔この崎の澗で、ゴッコ(ホテイウオ)がたくさんとれたので、ゴッコ澗と呼ばれ、この崎をゴッコ澗の崎と称した。
 
会所下(かいしょした)
 明治32年頃の「戸井村漁業組合規約」の、鰮建網の漁場区域に「戸井村字館鼻、会所下(・・・)より横平岩に至る間」とある。
 昔会所のあった浜を会所下と称していたが、それが後世まで伝えられた。古老は今でも「会所下」を訛って「ケソノシタ」と称している。カイショが訛ってケショとなりケソとなったものである。会所の前にあった戸井運上屋もここにあったのである。
 
ヨコドマリ(横
 この名は天明元年(1781)の松前志にも出ている。昭和5年の字名改正の時に町と改められた。
 ヨコは縦横のヨコではなくて、蝦夷語ユック又はユクの転訛したものと思う。ユック(ユク)は鹿の意味である。 昔は鹿が、今の日新中学校の裏山の峰伝えに下りて来て、この浜辺で遊んでいたと古老が語っている。ヨコドマリは、ユックドマリの転訛したもので、「鹿のいる入江」という意味の地名だと判断している。
 
シスン
 松前志や松前国中記にも「シスン」という地名が書かれている。現在「シシの崎」などと呼んでいる人もある。
 この地名の由来を古老に尋ねて歩いたら、「昔四寸角(かく)の石がこの崎にあったので、シスンといったと聞いている」と語った古老もいた。いろいろ調べて見たところ、菅江真澄が、天明4年(1784)9月19日、秋田の旅で次のように書いていることを発見した。
 「七日町の近くの里の岩の片側に、四寸の道(丶丶丶丶)といわれているたいそう細い路を行くと、一町あまり過ぎて里がある」と。
 真澄が「四寸(しすん)の道」と漢字を当てて説明しているところから、細い崖道を「シスンの道」といったことが推定される。
 
カワシリ(川尻)
 『松前志』に「カワシリ」、『松前国中記』に「トイノカワシリ」の名が記載されている。昔徒歩でこの海岸を歩いた時代は、このあたりに、旅館、飲食店などが建ち並んでいて旅人の休憩場所であった。現在戸井川と称している川の川尻にあった部落につけられた地名である。真澄の『ひろめかり』には、漢字で「川尻」と書かれている。昔戸井川の中流の両岸から「黄銅鉱」の鉱石を堀り出した。
 黄銅鉱を採堀するようになってから、発堀現場から下流にはヤマベ、イワナなどの川魚が全然いなくなり、鮭や鱒も上(のぼ)らなくなった。明治時代の記録には、「サンショウウオ」がいたと書かれている。
 
ベンザイマ(弁才間)
 この名は、寛政元年(1789)の『ひろめかり』に書かれているだけである。この地名は北海道各地にある。カワシリの入江につけられた名で「弁才船の碇(ていはく)する入江」という意味で、各地でこの名のある入江は、大船の碇できる良港である。ベンザイドマリという名の入江もある。
 ここも昭和5年の字名改正で弁才町と改められた。
 
サイトウマ
 (斉藤澗の漢字を当てている)
 戸井川を越えて、崎をかわしたところの間で、〓吉崎家の前にある澗である。ここに昔〓石田家の草葺(くさぶき)屋根の家が建っていた。〓石田家の分家が、戸井東部にたくさんある。直系の子孫は西浜町に移転したが、今でも「クズ屋(草ぶき屋根の家)」とか「サイドウマ」と呼んでいる。斉藤澗という名は、寛政元年(1789)の『ひろめかり』に載っているが、その由来は不明である。
 
水無(ミズナシ)
 斉藤澗の次の地名で、水のないところという意味である。恵山灯台の下の海辺の部落もミズナシと呼ばれている。ミズナシという地名は道内各地にある。
 
シヅガウタ
 『松前志』や『ひろめかり』などに載っている地名であるが、現在は死滅して土地の人も知らない地名である。「ウタ」は蝦夷語「オタ」の転訛したものであることが明らかなので、浜につけられた名であるが、「シズガ」の意味は不明である。古老は「シンゾウウタ」ということばを伝え聞いているが、「シンゾウウタ」は「シヅガウタ」の転訛したものであろうか。
 
メッタマチ
 古書に書かれている順序から推定すると、シヅガウタの次の地名らしいが、土地の人もこの名を知っていない。古書には砂原地域にもメッタマチの名が書かれている。
 この地名の由来をいろいろ調べて見た。
 メッタ町という日本語でないことは確かであるが、さて蝦夷語であれば、どんなことばかと考えた末、蝦夷語「メッカウチ」の転訛したものであるという確信を深めた。
 メッカウチというのは、昔の蝦夷は一族の者が、海や山で変死したり、事故で死んだりすると、死者を弔い、更にその遺族がそのような目に遇わないようにと、遺族を並べておいて、一村の蝦夷が集って来て、かわるがわるに、刀で峰打ちをした。この刀の峰打ちのことを和人はトブライウチといい、蝦夷はメッカウチと称した。
 誠に原始的な信仰であり、残酷な習慣である。古人の書いたものによって、その状況を調べて見よう。
 菅江真澄の書いた『かたい袋』に
  「近い頃、アイヌが別な所にメノコシ(妾(めかけ))を持って、家にいるユシマ(本妻)を追い出そうとした。メノコシ(妾)(めかけ)がこのことを、たいそう心配して、裏山にはいって、木のまたに繩をかけて、それに首をつって死んでしまった。このアイヌは、たいそう嘆き悲しんだ。メッカウチの習慣で、一村のアイヌが皆集まり、このアイヌをはじめ、親族がみな、草の上に手をつないで並んだ。村人は手毎に刀を持って、並んでいる人の頭をひと刀づつ打って去って行った。アイヌはこれをメッカウチといっている」と書いている。
 『蝦夷語地名解』の著者永田方正は『オシンタ旅行記』に次のように書いている。
 「アイヌたちの、刀を持っている者が進んで来て、各々刀の背で「ヤイエハル(メノコの名)」の頭を打ち、二、三歩退いてから又進んで打った。ヤイエハルの頭から血が流れて、真赤になり、顔も血に染(そま)り、見るにしのびないような状態になった。アイヌが二人持っていた刀をすて、げんこつ(丶丶丶丶)でメノコの頭を打った。メノコは悲鳴をあげて気絶した。
 その時老婆が、泣く泣く二人のアイヌを押しのけ、メノコの腹の上に伏して慟哭(どうこく)した。多くのアイヌが出て来て、メノコを抱いて家の中に移し、顔に水を吹きかけて生き返らせた。
 その時この村の酋長が、メノコに向って
 『お前は今生れ変ったのだ。だからヤイエハルを改めオヤマチと命名し、お前の前途を祝す』というと、多くのアイヌが、髭(ひげ)をなで手をあげて
 『めでたい。めでたい』といった」と書いている。
 メッカウチのことを「メッカキキ」「メッカキク」などともいった。
 永田方正の見たメッカウチは、夫の変死したその妻のメノコが、多くのアイヌに打たれて、流血し、気絶し、それに水を吹きかけて蘇生(そせい)させ、立会った酋長が「お前は生れ代ったのだ」と宣言し、別な名前を与えたという、誠に残酷なものであった。
 瀬田来のシヅガウタとヨモギナイの中間(ちゅうかん)で、いつの時代かにアイヌのメッカウチがあり、その場所がメッタマチとして後世に伝えられて古書に記録されたものであろう。
 
ヨモギナイ(蓬内)
 『松前志』や『ひろめかり』に「ヨモギナイ」という名が書かれている。『松前国中記』には「ユムキ(丶丶丶)ナイ」とあり『蝦夷行程記』には「蓬田」とある。『行程記』の「蓬田」は著者の書き誤りか、写本した者の写し誤りと思われる。
 近世になってから「蓬内(よもぎない)」という漢字が当てられ、植物のヨモギと関係のある名であると一般の人々は考えているようだ。その結果「ヨモギのないところ」などといっている古老もいる。
 「ナイ」は蝦夷語で「川」とか「沢」の意味である。日本語のヨモギと蝦夷語のナイとを組合わせる筈はない。
 明治35年の地図に「ヨモミナイ」と書かれている。何れにしてもヨモギナイは、瀬田来神社のそばの沢につけられた名である。後世この沢を流れる川を、ヨモギナイ川と称している。
 ヨモギナイのヨモギも蝦夷語と考え、古書に書かれているユムキナイ、ヨモミナイ、ヨモギナイ等から、他地域の地名と対照し、音韻変化の法則に照らして、「蝦夷語シュプキナイが転訛してヨモギナイになった」という結論を下した。
 桧山、爾志(にし)郡の関内や松前の及部の沢にシュプキナイと呼ばれている地名がある。シュプキは蝦夷語でアシ(葦)の意味である。シュプキナイが、ユムキナイ、ヨモギナイ、ヨモミナイなどと転訛したもので、「アシの多い沢」の意であろう。
 和語(日本語)が蝦夷語に転訛したり、和夷混合のことばもあるが、ヨモギナイは、和語のヨモギど夷語のナイを組み合わせたものではない。発音が和語の「蓬(よもぎ)」に似ているところから「蓬内」という漢字を当てたために、その解釈を迷わせたのである。
 
セタライ(瀬田來)
 永田方正は、その著『北海道蝦夷語地名解』に「セタライはアイヌ語セタ・ライベの転訛したもので、セタは犬、ライベは死したるところ、即ち犬の死したるところ」と解しているが、こじつけ(丶丶丶丶)の解釈である。
 古書を調べて見ると、『松前志』には「せたら(・・・)」、『蝦夷拾遺』には「世田良村(・・・・)、十戸足らず、二十人足らず」とある。
 寛政元年と3年の菅江真澄の紀行文に、はじめて「セタライ」の名が出ている。天保九年(1838)の『松前国中記』には、この海岸の地名を細かく書いているにもかかわらず、どうしたものか「セタライ」という地名がない。安政3年(1856)の『蝦夷行程記』には「瀬田内(・・・)」と書かれている。
 天明6年に「世田良(せたら)」と呼ばれていたものが、それから僅か3年後の「ひろめかり」に「セタライ」と書かれていることは注意を要することである。
 セタライという地名は「セタラ、セタライ、セタナイ」などと発音され、安政3年頃もまだセタライの名が固定していなかったことがわかる。
 セタライの意味は、永田方正解のように、「セタ・ライベの転訛で、犬の死んだ所」と解すべきではない。
 セタライは蝦夷語「セタンニ・ナイ」の転訛で、セタンニはサンナシ(和名エゾノコリンゴ)の多い沢」と解した方が妥当(だとう)であろう。
 セタンニナイがセタンナイとなり、更にセタナイになって、『蝦夷行程記』に「瀬田内」の漢字が当てられたり、一方セタンニナイがセタンライと訛り、セタライとなって瀬田来(○○○)の漢字が当てられた。
 近世になって、「瀬田内」が死滅して「瀬田来」が生き残ったものと解釈すべきであろう。
 この沢に深くはいって見ると、到るところにサンナシ(和名エゾノコリンゴ)がある。
 
ヒヤミズ(冷水)
 昔海岸道路の開かれなかった時代は、セタライから山越して汐首に越えた。セタライからの登り口に、崖を通してしみ出る泉があり、暑い季節には、旅人は必ずこの泉を飲んだのである。この泉の水は非常につめたかったので、誰いうとなくヒヤミズと呼ばれるようになり、後世冷水という漢字が当てられてこのあたりの地名になった。
 ヒヤミズという名の地名は、道南のいたるところにあるが、これは和人がつけたものである。先住の蝦夷は、こういう冷たい泉や小川のあるところをナンマッカ(ナム・ワッカの転訛)などと名づけた。八雲町の大関の近くにも、ナンマッカという地名がある。
 
ヤマナカ(山中)
 セタライからシオクビに越える山道のあたりを、昔はヤマナカといっていた。古老は今でもヤマナカと呼んでいる。
 菅江真澄の『ひろめかり』に
 「セタライから山路を行き、石子積(いしこずみ)、ホヤカラ、エゾムラ、シオクビ、シロイハマ、運荷(うんか)川を渡り、石崎へ来て宿をとった」と書いているが、この山中の道は、崖につけられた道で、危険な場所が幾ケ所もあり、旅人の難渋(なんじゅう)した道で、崖からころげ落ちて死ぬ人があったり、冬に行き倒れ人があったり、妖怪変化(ようかいへんげ)が出たなどという伝説のあったところである。
 『ひろめかり』に、石子積までの間に「弥八落し」「地蔵穴」というところがあると書いており、その伝説を採録しているが、その伝説については項を改めて書く。
 
イシコヅミ(石子積)
 寛政元年(1789)に、真澄は既に「石子積」の漢字を当てている。真澄は『ひろめかり』に
 「石子積というところへ来て見ると、石仏の前に、賽(さい)の河原(かわら)のように、石が積み重なっている。案内人が『誰が積み重ねたということはないが、昔より高くなっている』などと語った」と書いている。
 汐首の古老は「昔ここで母子の行き倒れがあったと伝えられている。又昔からの石地蔵が二体、近世までたっていたが、いつの間(ま)にかなくなった。鰮大漁時代は、この下の海の建網をたてる場所を『石子積の建場』といった」と語っている。
 石子積という名は、各地にある「賽の河原」と同様に、この岬の霊場であったものと思う。イシコズミは和人のつけたもので、石を積んで死者の供養をしたので、東北方言で石に「コ」をつけて「石コ積」と呼んだものであろう。
 
タチマチ(立待)
 岬につけられた名で、村に伝わる古書には、「昔ここをエッピウシ」といったと書いている。エッピウシは蝦夷語で「立って待つ」という意味である。昔蝦夷たちが、この岬の突端に立って、ヤス(○○)やシャクデ(○○○○)(ブリ釣りの竿)を持って、魚の来るのを待って、いろいろな魚をとったものであろう。
 恵山灯台は明治23年(1890)11月1日に設置されたが、それから3年後の明治26年(1893)11月20日にこの立待岬に灯台が設置された。
 昔は恵山岬附近や汐首岬附近は、船の墓場として船人におそれられていた海であったが、灯台設置後、船の遭難が減った。この灯台のある岬は「汐首岬(○)」ではなくて「立待岬」である。汐首岬は別にあるので、灯台の名は「汐首岬灯台」は誤りで、正しくは「汐首灯台」というべきである。
 最近、灯台の下に「北海道、本州の最短距離の所」という、観光の標識が建てられたが、建て場所が違う。
 
エゾムラ
 寛政元年(1789)に書かれた『ひろめかり』に「エゾムラ」とあるが、このあたりを、「エジムラ」と訛り、汐首の古老は「昔、ここに意地の悪い人が住んでいたので、意地悪村の意味から名づけられた」と語っているが、真澄が今から180年も昔に、エゾムラと書いているので、誤りであることがわかる。昔は汐首と熊石が、和夷の境界であったが、熊石附近にもエゾムラという地名があった。
 蝦夷だけの住んでいたコタンであったので、和人が「エゾの村」即ち「蝦夷村」と名づけ、汐首の人々が「エジムラ」と訛ったのである。
 
ホヤカラ
 エゾムラの次の場所の地名であるが、意味は不明である。古老は「昔ここにホラ吹きがいたので『ホラヤカラ』が訛って『ホヤカラ』になったものだろう」と語っているが信じられない説である。
 
コロドマリ
 トマリは「入江」の意味なので、岬の入江につけられた名であろう。蝦夷ユリのことをコロと称し、クロユリのことをアンラ・コロと称した。この辺一帯は今でもオニユリが生えているので、昔はもっともっと数が多かったものであろう。
 蝦夷がオニユリの球根を堀るために、舟でこの入江に来たところから、「ユリをとる入江」と名づけたものと思われる。南茅部に「オエガラドマリ」というところがある。オエガラはクズ(葛)のことである。飢饉の時にクズの根を堀りに行った入江で、昔は特にクズの多かったところであろう。
 コロドマリのあたりは、年に幾度も道路なおしに人足が出動したものである。海岸道路が開かれる以前は、波打際へ下ったり、崖の上に上ったりして往来したものだと古老が語っている。
 
セグチ
 汐首岬の西側の沿岸につけられた名で、蝦夷語ではないようなので、「瀬口」の意味であろう。潮瀬(しおせ)の口ということで名づけたものらしく、いつも潮流が波立っているところである。
 
汐首岬
 昔、東蝦夷地和人地の境界とされた岬で、青森県、下北半島の大間崎が、指呼(しこ)の間に望見されるところである。汐首灯台のあるのは、立待岬でこの岬ではない。然し現今の人々は、立待岬の名を知らず、灯台のある岬を汐首岬と考えている。
 永田方正は「汐首はアイヌ語シリポク(丶丶丶丶)の転訛したもので、岬の蔭(丶丶丶)という意味である」と解釈しているが、「シリポク」という呼び名は、古書、古記録にも全然ないし、この地域の人々の間にも「シリポク」から転訛したと推定される呼び名の伝承も全くない。
 シリポクがシオクビに転訛したということは、音韻変化の法則や慣習からいっても全く考えられない。この地域の人は「シュグビ」と発音しているが、これは「シオクビ」を東北方言流に発音したもので「シリポク」とは全然つながりはない。
 古書、古記録で「シオクビ」の地名の書かれているものを、年代順に並べて見ると次のようになる。
  ①寛文10年(1670)津軽一統志「塩くび崎」
  ②元禄13年(1700)松前島郷帳「汐くび村」
  ③ 〃   (〃 )元禄御国絵図「しおくびのさき。汐くび」
  ④宝暦9年(1759)松前蝦夷聞書「塩首」
  ⑤天明元年(1781)松前志第三巻「しおくび」
  ⑥天明8年(1788)東遊雑記「汐首の崎」
  ⑦寛政元年(1789)ひろめかり(汐首)
  ⑧寛政3年(1791)えぞのてぶり「汐首」
  ⑨天保9年(1838)松前国中記「シヲクビ」
  ⑩安政3年(1856)蝦夷行程記「汐首」
 右に挙げた古書、古記録を見ても、今から300年も昔から、一貫してシオクビの呼び名よりなかったことが明らかである。又シオに当てた漢字は、「塩」と「汐」の2種、クビに漢字を当てるようになったのは宝暦9年以降、「シオクビ崎」と「シオクビ村」とを区別したことがわかるが、「シリポク」と発音されたことは考えられない。
 永田方正は、シオクビを蝦夷語と判断して、シリポクを語源と考えたものであろうが、現地調査をしないで、机の上でこじつけたものである。シオクビを「岬の蔭」と解しているが、シオクビは、部落につけられた名ではなくて、潮流の激しい岬につけられた名と思われる。汐首村は岬につけられた名をとったものである。
 永田方正がいうように、若し寛文、元禄の頃に、蝦夷が「シリポク」と呼んでいたとすれば、津軽一統志や松前島郷帳などに、「塩くび」「汐くび」と書く筈はない。若し永田方正が、汐首の現地調査をしたとしても、明治、大正の頃であるので「『シオクビ』の語源は『シリポク』である」などということを推定する資料も根拠もなかった筈である。
 歴史的な経過から検討しても、現地の実態から考えても、「シオクビの語源はシリポクである」という永田方正の説は、机の上の妄説である。
 300年以前から、一貫して「シオクビ」と呼ばれて来た地名は「和人が命名したもので、潮流の激しい岬を意味した『汐の首』と單純に解釈すべきである。」
 永田方正は、『北海道蝦夷語地名解』の著者で、明治、大正の頃の蝦夷地名についての学者であり、権威者であった。そこで全道各地では無批判に、『蝦夷語地名解』に書かれた永田方正の説をとり入れた。然し早くから和人が移住し、蝦夷語が日本語化し、その発音に似た漢字が当てられた道南の蝦夷語地名は、蝦夷語への復元、その解釈の困難なものが多くなっていた。
 特に道南に移住した和人の先祖は、その大半が津軽、南部の人々であったので、蝦夷の名づけた地名を伝承しても、東北方言流に、「チとツ」「シとスとヒ」を混同したり、濁音の少ない蝦夷語の清音を、濁音に発音したりして伝承し、長年月の間に、語源不明になり、大学者永田方正を誤らせたのである。後世アイヌ族出身の知里真志保が、永田方正やジョンパチュラーの地名解の誤謬(ごびゅう)を激(はげ)しく非難した。

西部(汐首岬の高台より)

 
地蔵町
 汐首岬の背後の海岸段丘の上に、明治の末期頃、人家が10軒くらいあり、ここに地蔵堂ができたので、汐首村の人々はここを地蔵町と呼んでいた。この高台に汐首神社があり、昭和42年8月1日に発見された円空仏がここに安置されていた。又天保年間この高台の突端に、外国船を砲撃するための砲台があったと古老が語っている。松浦武四郎の「蝦夷日記」の記録によれば、故老の伝える砲台の場所は誤りのようだ。
 明治40年(1907)頃、地蔵町にソバ屋が一軒でき、そのソバ屋が、冬の寒い晩などに、「ソバー、ソバー」と汐首の村を売り歩いた、いわゆる「夜鷹(よたか)ソバ」のふれ声を今でもなつかしんでいる古老が多い。
 
ヤマセドマリ(東風(やませ)
 この地方にもヤマセ、アイ、クダリ、ヒカタなどという風(かぜ)の呼び名がある。
 ヤマセは元来東風を称しているが、この地方では、南東の風をヤマセと呼んでいる。ヤマセは寒い風で雨をつける。
 ヤマセドマリという地名は、全道到るところにあるが、みな同じ地形、地勢の場所につけられている。汐首のヤマセドマリは、汐首岬を夾んだ西側の入江で、ヤマセのあたらないところである。ここから西の沿岸は、有名な汐首潮もなく、おだやかである。昔は船がこのヤマセドマリで、潮待ち、凪(なぎ)待ちをしたのである。
 
アカイワ(赤岩)
 ヤマセドマリから少し西の海岸の一部に、赤褐色の岩石が露出しているところがある。ここを昔から赤岩と称している。昭和43年、ここに船揚場がつくられた。
 
クズレ
 近世になってからつけられた地名である。赤岩の少し西で、或る年に大雨が続いて山崩れがあり、莫大な土石が道路まで押し出したので、汐首の人々は、それ以来ここをクズレといい、それが訛ってクジュレなどといわれている。汐首は、崖(がけ)崩れの多いところである。
 
ナガイタ
 クズレの西のシロイハマ(白浜)との境近くにつけられた地名で、長板という漢字を当てたりしているが、意味は不明である。
 
シロイハマ
 寛政元年(1789)の『ひろめかり』に「汐首、シロイハマを通り、運荷(うんか)川を渡り」とあるように、昔からあった地名である。漢字が当てられるようになってから、「シロイハマ」に「白浜」という字が当てられたが、今でも「シラハマ」などといわず、依然として「シロイハマ」と呼ばれている。読み誤り易い「白浜」より、もっと適当な漢字を選んだ方がよかったと思う。「アカイカワ」に「赤川」という漢字を当てたら、誰も「アカイカワ」と読まず、「アカガワ」と読むだろう。「アカイカワ」には「赤井川」の漢字を当てている。
 「シロイハマ」は、蝦夷語「シロイ」に和語の「ハマ(浜)」をつけた和夷混合語である。南茅部町の古部附近にある「シロイカワ」などと同じ語源である。和語の「白い」とは全然関係がない。蝦夷語の「シロイ」は、潮流の激しい海の附近につけられた名で、「潮の入りこむところ」の意味である。
 明治13年(1880)に「シロイハマ」のある高台に、公立学校が設置され、「白浜学校」と称されたが、小安小学校が設置されてから、両校が合併になり、小安小学校となった。
 
カルヤラヤス
 天保9年(1838)の『松前国中記』に「ウンカ川、カルヤラヤス(丶丶丶丶丶丶)、シヲクビ」とあるが、現在カルヤラヤスという地名は、死滅して、古老もこの名を記憶していない。カルヤラヤスは蝦夷語であると考え、いろいろ調べて見たが、遂に不明であった。ヤスはオヤスのヤスと関連があるようだが、カルヤラは不明である。
 『松前国中記』の記述から想像すると、現在のシロイハマかカマヤのあたりであることは明らかであるが、その位置も不明である。
 
ウンカ川
 釜谷と小安の境を流れている小川の名である。昆布の歴史の最初に出て来る『庭訓往来(ていきんおうらい)』の「宇賀昆布」は、この川の注ぐ附近の海で採取された昆布である。
 ところが、銭亀沢に、近世「宇賀」という地名が生れたことに幻惑(げんわく)されて、北海道の学者までも『庭訓往来』に書かれている「宇賀昆布」は銭亀沢村宇賀(現函館市)の昆布であると書いている。
 不見識、不注意も甚だしいと思う。学者と名のつく者までこの通りだから、学者ぶって昆布の歴史や町村史を書く人々は、すべて学者の書いたものを無批判に丸写しにする。
 『松前志』を書いた大学者、松前広長の説明を注意して読んで見るべきだ。
 戸井町にある「ウンカ川」は、ずっと昔からあった名で、昔は「ウカカワ」「運荷川」「運賀川」などと書かれていた。
 松前広長の書いた『松前志』に書かれている「宇賀昆布」の説明を読んで見よう。
 「庭訓往来宇賀昆布といっているが、東蝦夷地オサツベ辺の昆布が最上である。
 宇賀(○○)というのは、東部(○○)のウカカワ(丶丶丶丶)(ウカガワであろう)で、福山城下から(丶丶丶丶丶丶)三十里(○○○)ばかりある。又東部シノリ(諸学者が誤っている宇賀(○○)を含めた地名である)と、西部エサシの産は、オサツベより東方の産に遙かに劣っている」と書かれている。
 松前広長が、これだけ明確に「宇賀という場所と、宇賀昆布」を説明しているのに、下海岸の地理や現地の事情を知らない学者や、昆布というものを机の上でより知っていない学者が、「宇賀」という漢字に惑(まど)わされて妄説を出しているのである。
 竹内運平や松本隆なども「宇賀昆布は現在の宇賀や志海苔(しのり)辺で産する昆布である」と書いている。(昆布のことについては、「下海岸の昆布の歴史」の項で。くわしく述べる。)
 ウンカ川の名は、「松前志」に「ウカカワ」、『ひろめかり』に「運荷川」、『松前国中記』に「ウンカ川」と書かれ、平秩東作は「雲加川」と書いている。
 「ウエン川」という名も伝えられているが、これは蝦夷語で、「悪い川」の意味である。この川はアイヌも飲料水にしなかったものであろう。
 
カマヤ(釜谷)
 カマヤの地名の書かれた古書は少ないが、寛政三年(一七九一)の紀行文『えぞのてぶり』に「小安を漕(こ)ぎ出て、釜谷(○○)、汐首」とあるので、寛政年間には既に「カマヤ」の地名があったことは明らかである。
 カマヤという地名は、本道到るところにあり、青森県、下北地方にもある。『蝦夷行程記』に鎌歌を「釜ウタ」と書いているように「カマ」という蝦夷語の意味は同じである。「ヤ」はイソヤ(・)、トーヤ(・)などの「ヤ」と同義語である。「カマ」は、鎌歌のどころでも述べたように、扁磐即ち平磯の意。「ヤ」は陸、陸岸、丘などの意である。カマヤは「平磯のある陸、又は丘」の意味である。この地名のついているところは、同じような地形、地勢の場所である。釜谷の沿岸に釜谷漁港がある。
 
釜谷富士(かまやふじ)
 小安と釜谷にまたがって、海岸に迫り、一きわ高く聳えている山を、村人は釜谷富士と呼んでいる。その名のように富士山に似た形の山である。
 昔は「ジャクジリといった」と古老が伝えている。蝦夷語であることは明らかだが、意味は不明である。「ジャクジリ」はこのあたりの地勢から「サクシリ」或は「サックシリ」と推定して見た。サク、サックは夏の意。シリは島、陸、国などの意味である。
 この山は、蝦夷時代に航海や漁業の目標になったので、サクシリと名づけられ、それが訛ってジャクジリになったのではなかろうか。
 
ゲンゴ川(源吾川)
 小安と釜谷の境界になっている小川を古老はゲンゴ川と呼んでいる。古老の伝えるこの川の名の由来は次の通りである。
 「昔この川のほとりに、後藤源吾衛門という人が住んでいたので、その人の名をとって名づけた」と伝えている。源吾衛門の子孫は現存し、〓後藤兼太郎はその直系の子孫である。なぜ、こんな小さな川が、小安と釜谷の境界になったかということについて、釜谷の古老は次のように語っている。
 「ずっと昔は、小安八幡神社のほとりを流れている小安川が境界であったが、或る年、小安川の川尻の海岸に水死人の死体が寄った。水死人は、死体の寄った場所の村で葬ることなっていた。ところが死体の寄った場所が、小安か釜谷かアイマイなところであったので、両村とも水死人を葬ることを嫌い、お互いに『ここは自分の村の領分でない』といい張った。釜谷側では『小安と釜谷の境は、昔から源吾川である』と主張したため、小安側が折れて、水死人を葬った。それ以来、小安と釜谷の境界が源吾川になった」と伝えている。
 現今では考えられないことであり、この伝説の真偽の程は確かめようもないが、砂浜とヤブ原、草原が続いていて、家の一軒もなかった頃の、村落から離れた場所では、このようなこともあり得ることである。
 汐首村の人たちが、道路工事に出ることを嫌って、瀬田来に領分の一部をとられたとか、境界爭いの面白い言い伝いが、北海道だけではなくて、全国各地にあるようだ。
 
オヤス(小安
 釜谷富士とスボリコ山の水を集めて海にそそぐ川をオヤス川と呼んでいるが、オヤスという地名は、この川口附近につけられた地名である。
 永田方正は「オヤスはアイヌ語オヤウシの転訛したもので、オは『川尻』、ウシは『ある所』の意で、『川尻に漁場のあるところ』の意味である」と解しているが、この地名解は大体妥当であろう。
 オヤウシがオヤスと訛り、後世「小安」の漢字が当てられたが、これも読み誤り易い字である。現在でも郵政省の局名簿には「コヤス」となっている。「小安」と書いていたら「コヤス」と読むのは当然であろう。
 オヤスの地名のつけられた小安川の川口附近は、戸井町で最も早く和人が定着し、最も早く開けた地域である。
 小安川の川口近くの丘にある小安八幡神社の創建は、寛永二年(一六二五)と伝えられ、神社のすぐ近くにある広福寺は寛政元年(一七八九)創建と伝えられており、この年に菅江真澄が下海岸の昆布取を見に来て『ひろめかり』を書いたのである。
 下海岸のことを記録した古書には、殆んど「オヤス」の名が載っている。年代順に並べて見ると
  ①寛文十年(一六七〇)の『津軽一統志』に「おやす(丶丶丶)空家十五、乙名(おとな)(アイヌの酋長)おやす犬」とあり、この頃はアイヌの酋長が、この地を領していたことがわかる。
  ②元禄十三年(一七〇〇)の『松前島郷帳』と『元禄御国絵図』には「おやす村」
  ③宝歴九年(一七五九)の『松前蝦夷聞書』には「おやす」
  ④天明元年(一七八一)の『松前志』には「小安村」
  ⑤天明六年(一七八六)の『蝦夷拾遺』には「小安村、四十戸足らず、百六十余人」
  ⑥寛政三年(一七九一)の『えぞのてぶり』には「小安をこぎ出(い)で云々」
  ⑦寛政九年(一七九七)に書かれた『地誌』には、「小安運上屋あり」
  ⑧天保九年(一八三八)の『松前国中記』には、「ヲヤス、城下より追放人、ここへ送るなり」
  ⑨安政三年(一八五六)の『蝦夷行程記』には「小安、六戸」
 以上の簡單な古記録によって、オヤスの変遷を推量して見ただけでも、寛文十年(一六七〇)頃は和人の空家(あきや)が十五戸あり、アイヌコタンであり、和人は漁期にだけ、出稼ぎに来ていたことがわかる。
 戸口の変遷も、天明六年(一七八六)に「四十戸足らず、百六十余人」あったものが、それから八十年後の、安政三年(一八五六)には六戸というように、戸口の増減が著しかったことがわかる。
 寛政九年(一七九七)の『地誌』に「小安運上屋あり」と書かれたころの戸口は相当増加していたものと思う。戸口が漸増しなかった理由は、漁の豊凶やいろいろな事件と関係があったことが想像される。
 「小安八幡神社の草創」は、寛永二年(一六二五)と伝えられ、小安村の草創は、和人時代にはいってからは、最も古い地域であるが、戸数や人口の増減は常なく、天保九年(一八三八)頃、即ち今から百四、五十年昔まで、福山城下の追放人が送られた流刑地であったのである。
 然し「オヤス」は「トイ」という地名のように「トヨイ」「トユイ」「トイ」など、いろいろに呼ばれ、「チエトイベツ」だとか「トイチセイ」などと、その語源をあげつらう(丶丶丶丶丶)ようなアイマイな地名ではなく、終始一貫「オヤス」という名で伝承された地名である。「オヤス」に「小安」の漢字を当てたのは、松前広長が天明元年(一七八一)に『松前志』に書いたのが最初である。小安運上屋は現小安郵便局の東隣りにあった。
 
タカヤシキ
 寛文十年(一六七〇)の『津軽一統志』に「たか屋敷、空家(あきや)七」とあり、又同書に「松前中、鳥屋敷三百余もこれある由、右のうち百二、三十の鳥屋は、松前殿鳥屋の由、その外給分(藩士の給地)の由」とある。鷹匠や鷹待(たかざむらい)の居住していた鳥屋敷或は鷹屋敷が三百余もあり、松前藩直轄のものが百二、三十で、残りが藩士のものであったことがわかる。今でも全道に鷹待(たかまち)、鷹場(たかば)、鷹(たか)の巣(す)、鷹屋敷(たかやしき)などの地名の残っているところは、殆んど松前藩の鷹と関係のあったものである。
 武井の島の対岸の岩壁にあるタカノスは、昔の名残りであり、小安のタカヤシキは、松前藩直轄の鷹屋敷のあったところである。この歴史を知らない後世の人が、タカヤシキに、「高屋敷」の漢字を当てて現在に及んでいる。
 小安の鷹屋敷では、下海岸一帯の鷹場を管轄していた。鷹は松前藩の特産で、藩の大きな財源の一つであった。小安に鷹屋敷があった頃は、下海岸の汐首、オカムイ、原木、日浦等の断崖に巣をつくる鷹の雛をとって育て、これを訓練したものであろう。オカムイの断崖から鷹の雛をとる習慣は、三、四十年前まで残っていたという。
 ここを流れている川を、タカヤシキ川といい、その川口の波打際に、昔から炭酸を多量に含んだ冷泉が湧いている。昔函館の高島という医師がこの冷泉を使ってラムネを製造した。又この冷泉は、ヤケドや切り傷に特効があるといわれ、現在でもこれを汲んで藥用にしている人がいる。
 
ヌキイシ川
 タカヤシキ川の西にある小川で、抜石(ぬきいし)川の漢字を当てている。古い記録に「枝石(えだいし)川」と書いているものもあるが「抜(ぬき)」を「枝(えだ)」と書き誤ったものである。ヌキイシは蝦夷語「ヌキウシ」の転訛したものである。全道各地にヌキベツ或はヌッキベツという地名がある。「ヌキ」或は「ヌッキ」は「濁る」という意味であり、「ウシ」は「多い」の意味である。ヌキイシは、ヌキウシの転訛したもので、「濁りの多い川」の意味である。
 
ヤチガワ(谷地川)又はヤナイガワ(谷内川)
 小安石崎の境を流れる川である。『津軽一統志』に「やちまき(丶丶丶丶)空家十二、三」とあり、『えぞのてぶり』に「石崎も過ぎてやげまき(丶丶丶丶)にいかり(丶丶丶)をかけて下船す」とあり、『蝦夷行程記』に「八木巻(やぎまき)」とある。
 「やちまき、やげまき、八木巻」などと昔呼ばれていたところから判断すると、蝦夷語ヤンゲマキの転訛したものと思われる。マキは後背地の意味である。ヤンゲ或はヤンギは、陸揚げする場所の意味である。場所請負時代は、こういう名のついた場所は、船の碇に適したところで、大てい運上屋があった。
 上磯郡のヤンゲナイ(矢不来尾札部の「八木(やぎ)」などは、昔船をつけて人や荷物を陸揚げした場所である。『蝦夷行程記』にある「八木巻」は、当時この土地にいた蝦夷や和人が「ヤギマキ」或は「ヤゲマキ」と発音していたものに当てた漢字であろう。
 蝦夷語「ヤンゲマキ」が訛ってこの川の名になったものとすれば、「ヤンゲナイ→ナンナイ→ヤナイ」と転訛したことが考えられ、谷地川よりも谷内川の方が妥当である。このあたりを現在「谷地町」と称しているが、これは「ヤチマキ」「ヤギマキ」から名づけたものと思うが、歴史的に見れば妥当な呼び名ではない。
 
三百円道路
 戸井で鰮の大漁が続いた頃、横の網元〓石田栄八が、丸山、笹積山附近に、薪材などを運搬するための山道を開いた。私費三百円を投じてつくった道路なので、今でも「三百円道路」と呼ばれている。
 
ケナシ山
 「毛無山」「気無山」の漢字を当てている。この山は、汐首岬の北方、函館市との境に聳えていて、標高四一五米ある。「毛無」の漢字から「はげ山」或は「木のない山」を想像するが、「ケナシ」は蝦夷語である。
 蝦夷語「キナウシ」の転訛で、南茅部のキナオシ(キナウシの転訛)(木直(きなおし))と同じ語源と判断した。キナは草、ウシは多いの意で「草の多い」山の意味であろう。この場合のキナは単なる草ではなく、フキ、ワラビ、ウドなどの食用野草をいったものであろう。
 
ササヅモリ山
 原木川、熊別川などの源をなす、標高三六七米の山である。すぐ近くに丸山がある。「笹積山」の漢字を当てて、「ササヅミ山」と読まないで「ササヅモリ山」と読んでいる。
 蝦夷語か和語かも不明、意味も不明である。
 
丸山
 丸山明神を祀っている有名な山で、標高は四○八米である。近くから見ると丸い山というよりも、円錐形の山である。笹積山と相対しているが、函館市旧亀尾村の区域になっている。昔から戸井の漁民たちの魚釣り船の目じるしになった山である。
 丸山という名の山は、北海道だけでなく全国到るところにある。