前田利家は、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置の際、秋田や津軽の検地奉行として派遣され、家康らと同様に分権派に属していることはすでに述べた。しかし、翌文禄二年には秀吉の奉行として中央集権化を目指す集権派グループの長束正家や、浅利騒動において秋田氏を擁護した秀吉家臣佐々正孝、木下吉隆らに交代した。
なお、伏見作事板は、越前敦賀・三国(みくに)、若狭小浜(おばま)の豪商によって担われ、すべて敦賀湊に一旦陸揚げされ琵琶湖を経て伏見へと廻漕されたが、木村重茲は若狭府中城主であり、杉板が集結する敦賀の城主は、後に関ヶ原の戦いで石田三成側につく大谷吉継であった。秀吉はこれら集権派に属する財務に秀でた奉行や家臣らを北国海運の拠点に据え、その海運によってもたらされる太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板等の調達と算用を担当させ、政権の基盤を強固にしようとしていたのである。
図32.越前国敦賀湊・若狭国小浜交通図
仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地、御蔵入領に召出れ候は、治部様(石田三成)御意向之由也」とあるように、太閤蔵入地として設定されたのは、農業生産力が高く、しかも舟運に便利な川沿いの場所が特に選ばれており、その選定を推進したのは集権派の中心にいた石田三成であった。北羽の太閤蔵入地の選定には、三成の意向が大きく影響していたのであり、太閤蔵入地からの収入によって廻漕される伏見作事板にかかわる秀吉朱印状の取次に、集権派の奉行・家臣が選任されるのは当然の成り行きであった。実際、秋田領に設定された太閤蔵入地の年貢米の算用状(さんようじょう)は、秋田氏から集権化を目指す奉行衆徳善院(とくぜんいん)(前田玄以(まえだげんい))・石田三成・増田長盛・長束正家等に宛てて提出されており、これら集権派奉行によって、北羽の太閤蔵入地の管理、伏見作事板廻漕が実現していたのである。長束正家らの奉行は、豊臣政権の集権化を推進する核になっており、秀吉は集権化にとって大きな意味を持つ伏見作事板運上に彼らを配置していた。